東雲色の空の下には菖蒲の花が咲く2
「……」
初めに同じ問いをした時よりも、沈黙は長い。彼女は葛藤しているようだった。それを見て取ると、私は自然と言葉を続けていた。
「私は貴女に、お子さんと、お子さんのご病気と向き合い、支え合っていく覚悟があるのかと聞いているんです」
優しく、けれども強い語調で投げかける。悩むように視線を彷徨わせていた彼女は、淡い決意を揺らがせている眼で私を真っ直ぐに映し、開口する。
「……少しだけ、頑張ってみても、良いでしょうか」
そう言葉にしてもやはり不安は拭えないのだろう。堅い表情で私を正視する彼女に、私は笑顔で頷いてみせた。
「もちろんですよ。では、これから定期的にお話を伺いに来ます。構いませんか?」
「はい。お願いします。……あの!」
「……なんでしょう?」
突然上げられた大きな声にも動揺したが、それよりも、彼女が席を立って頭を下げたことの方に吃驚する。今目の前にテーブルがなかったら、膝を突いて土下座をしていたのではと思うくらい、深い礼だった。
「もし、私があの子を殺そうとしてしまったら、私がどう言っても、あの子を保護してやって下さい。今はあの子が前にいないから落ち着いていられるのですが……あの子を前にしても、私はこうやっていられるのか、不安ですから。お願いします。あの子を、守ってあげて下さい」
「……かしこまりました」
私は「頭を上げてください」と微笑み、ようやく顔を持ち上げてくれた彼女に、次に来る日を知らせてから、その家を出た。
能力者の子供を持つ親の約半数は、その子供を見捨てる。特に、我々が赴き『能力者保護協会』という名を口に出せば、まるで好機と思ったかのように子供を差し出してくる者ばかり見てきた。
神屋敷愛莉という女性が、見捨てない側寄りの考えを持っていたことに胸を撫で下ろす。
だからと言って、現段階で安心しきってはいけない。子供とも能力とも向き合うという判断をした親が、子供の前で常に良い親で在ろうとし、押し殺した葛藤や苦悩などから生じてしまったストレス故に精神を病んでしまったり、自ら命を絶ってしまう場合も何度か見てきた。親が精神的苦痛を堪えていると勘付いた子供の方が自殺をする場合も、何度か見てきた。
そう、何度か、だ。一度ではない。もうこんな悲劇は起こさないと決意をしても、関わった全ての人を気にかけることは当然出来ず、目の届く範囲にいない者を救うことも勿論出来ない。いつだって脳裏を過るのは、そんな救えなかった人達の顔だ。
数ヶ月前にも、舞島桜という少女が車の前に飛び出して自ら命を絶った。意を決して咲き誇ろうとした彼女は、桜色よりも赤い花弁を幾枚舞わせたのだろう。
最後に会った時、彼女が私に見せた顔は、確かに笑顔だった。母親と向き合って頑張っていきたい、そう笑っていた彼女が自殺をするなんて、思っていなかった。今まで相談を受けた能力者の中で誰よりも明るかった少女だ。相談をしてくれる時でさえ、暗い空気を一秒も落とさないほど、彼女は笑顔を絶やさなかった。それでも、追い詰められていた心情を少しでも垣間見せてくれていたなら救えたかもしれないのに――という思いが湧き出して、自身を罰するように唇を噛み締める。彼女は一切悪くない。彼女なら大丈夫だと決め付け、心の深い所に踏み入ろうとしなかった私がいけなかったのだ。
僅かに伏せた瞼の裏に、彼女の姿が薄らと浮かぶ。
私があの夜紫苑くんに目を付けて声をかけたのは、桜さんと同じ制服を着ていたからだった。制服姿の紫苑くんと浅葱さんは、今でも鮮明に思い出せる彼女の姿とどうしても重なってしまう。
足元に向けていた視線を上げて、アパートの傍に停めていた車に乗り込む。上着のポケットから取り出した煙草を口に咥えて火を点け、心を落ち着かせた。
『能力者保護協会』で働き始めて、七年になる。その月日の中で救えなかった人達のことは、記憶から消えてくれない。いつまでも引き摺り、きっと墓場まで持って行く。
だがそれで良い。過去があるからこそ頭を悩ませ、現時点での最良を尽くせる。その最良が救えない最良であったなら、更に上の最良を探す。
そうして、何人の命を救い、何人の心を助けられたなら、私は自分の非力さを許すことが出来るのだろうか。
▼
「お、東雲お疲れ〜」
『能力者保護協会』待宵支部の一階にある事務室。そこに足を踏み入れると、椅子に座って夕食を食べている空さんに労いの言葉をかけられた。彼女の正面にある椅子に腰掛け、煙草を吸おうとした私に、すっと何かが差し出される。
空さんが食べていたコンビニ弁当だ。残っているのは焼肉、ハンバーグ、ウインナーのみ。主菜に当たりそうな物だけを残すというのもおかしなものだが、いつも通りのことなので、彼女が使っていた割り箸を受け取ってそれを食べ始める。
「……これ、焼肉弁当ですか?」
「そうそう、よく分かったね」
「ご飯が入るのであろう部分に焼肉が何枚も敷き詰められていたら流石に気付きますよ……なんで君は肉を食べられないくせに焼肉弁当を買ったんですか」
「その焼肉のタレが付いたご飯が美味しいからだよ」
なら白米と焼肉のタレだけ買えば良いのに、とも思うが、彼女なりの私への気遣いだと思っておくことにした。
立ち上がった空さんは白衣を揺らしながらコーヒーを淹れに行く。
彼女が白衣を着ている理由を問いかけたことが一度だけある。その時は、つい癖で、と返され、元々理系教科の教師でもしていたのだろうかと思っていた。そんな彼女が医者だったことを知ったのは一年前だ。肉を食べることだけでなく切ることも出来ない彼女に、何故なのかと聞いてしまった。今でも、あの自虐的な笑みは鮮明に想起出来る。
「――キミさぁ、話聞いてる?」
眼前にスプーンが突き付けられ、息を飲んだ。空さんはいつの間にかコーヒーを淹れ終え、私の前に座り直していた。スプーンからコーヒーの雫が零れ落ちる。
「……空さん、ハンバーグがコーヒー味になったらどうしてくれるんです?」
「どうもしないよ。で? 菖蒲君の母親はどうだったんだい? まぁその様子だと、上手く説得できたって感じかな?」
「ええ。今の所は、大丈夫そうですよ。勿論、安心は出来ませんがね」
短い報告を終えると、ふーんとだけ返された。興味が無い訳では無いのだろうが、彼女の返答の仕方はいつも興味を感じさせない。
ハンバーグを食べ終えてから、「君はどうだったんです?」と話を変えてみる。
「居待市の事件の調査に行ってきたんだけど、案の定能力者だった。けど、あれは私じゃ無理だ」
「私でも無理ですかね? どういった能力なんです?」
「重力操作、って言えば良いのかな。対象の上空の空気重くして押し潰して殺してる、みたいな。ただ潰すまで結構時間がかかるみたいでね、横から対象を突き飛ばして助けられる時間はあった。あ、もちろん助けた人の記憶は消しといたよ。その能力者には逃げられたから救われたし」
「なるほど、私でもなんとか出来るでしょうが……適任がいますよ。彼の能力は、その能力を強くしたような感じでしょうし」
言ってしまってから、何故こんなことを言ったのだろう、と嘆声を漏らす。彼には日常を楽しんで生きて行って欲しいと思っているのに、能力者であることを忘れさせたくないような、能力者としての彼の成長も見てみたいような、不思議な感覚に動かされる。
彼は能力に溺れる危うさを持ち合わせていない。だからこそ、こちら側に引き込んでも日常と両立出来るように思える。
戦うことが必要になった時、安心して背中を預け合える味方が欲しいなんて、私らしくもないことを考えてしまった。思わず苦笑すると、ようやく空さんが「あぁ!」と納得したような声を上げた。
「少年か! 良いね。でも今回の件は東雲に任せるよ、少年に任せるにしては唐突すぎる。けど、保護協会に少年勧誘しようよ。強い能力者味方に欲しい」
「……私も十分強いと思いません?」
「イマイチ」
●
塾が終わって、家に向かう。
お母さんがぼくを塾に行かせた理由は、多分、ぼくと会う時間を少なくしたいからだ。けど、ぼくが勉強が出来る子になって欲しいって思ってるのかもしれない、そう思い込んで本当の理由だと思う方から目を逸らす。
塾は弓張市にあるけど、住んでるところは三日市だから、電車に乗って、そこから歩いて。家に帰るのに二十分以上はかかる。
帰っても、お母さんはおかえりって言ってくれない。ただいまって言っても、ぼくを一瞬見るだけ。機嫌が悪いとうるさいって怒られる。
今日は、怒られないといいな。今日は、笑って迎えてもらえると良いな。
なんて思っていても、そんなことは夢の中じゃないとありえない。それくらい分かってる。だから、いつだって家のドアを開けるのに時間がかかる。
ぼくは家の前で、ドアノブに触れたまま、いつもみたいに深呼吸をした。
暗い顔をしちゃダメだ。笑わなきゃダメだ。良い子みたいに、元気にただいまって言わないと。それを続けたらいつか、お母さんがおかえりを返してくれるかもしれない。お母さんが、ぼくの名前を呼んでくれるかもしれない。
だけど、ふとした時に暗いことばかり考えてしまう。
こんなこと続けて何になるんだろう。どうしてこんなに、楽しかった日々を取り戻そうとしてるんだろう。今のお母さんは好きじゃないのに。
ぼくは、首を左右に振った。
好きだ。お母さんが、大好きなんだ。けど嫌になる。嫌いになりそうになる。でも嫌いになんてなれない。どうしてだろう。嫌いになれたら、楽になれるのだろうか。いっそ家のこともお母さんのことも忘れるくらい遠くに行ってしまえば、楽になるだろうか。
死にたいと思えたら、楽になれるだろうか。
不思議と、何を考えても涙は溢れない。顔から笑みが消えない。ぼくが持ってる顔は、笑顔と無表情だけみたいだった。泣きたい時は、どうしてか笑いが込み上げる。泣き顔よりも笑顔の方が、きっと好いてもらえるから。でもどうしてだろう、優しい人を前にしたら、涙が溢れてしまった。一人でいても、お母さんの前でも、涙は流れないのに。
ぼくは、死にたいって思える気持ちが分からなかった。嫌なことを全部忘れたいとは思う。けど死にたくはない。だって死ぬなんて怖い。死んじゃったら、『こうなるかもしれない』とか『いつかは』とかそういう言葉も使えなくなるくらい、なんの希望もなくなっちゃうんだ。
ぼくは、多分一ミリもない希望にかけて、一パーセントにも届かない奇跡を願ってる。願い続けたいから、笑い続ける。
ドアノブを回してドアを開けた。明かりが点いているから、お母さんが起きているのだろう。靴を脱いで廊下を歩いて、台所でお皿洗いをしているお母さんに、笑った。
「ただいま、お母さん!」
ぼくの声が、痛いくらい響く。何も返されないから、喉が震える。あは、は。途切れ途切れの笑い声。自分で聞いてても気持ち悪かった。あぁ、殴られるかも。
そんなぼくに向けられたのは、小さな、小さな声だった。
「……おかえり」
お母さんは、ぼくの方を見ないで、確かにそう言った。今のが、聞き間違えでなければ。
なんだか嬉しくなって、けど信じられなくて、どうすれば良いのか分からなくて。ただ、ぼくも小さく返した。
「……うん」
これはきっと夢なんだろう。疲れて帰ってきたぼくが見てる、幸せな夢。現実だって思っちゃったら、もっともっと欲張りになっちゃいそうだった。
お母さん、ぼくの名前を呼んで。
お母さん、ぼくを愛して。
そんな言葉を零しそうになるから、ぐっと堪えて、小さな幸せで震える唇を噛み締めた。




