東雲色の空の下には菖蒲の花が咲く
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ぼくのお父さんとお母さんは、いつも優しくて、いつも笑顔だった。
お父さんは仕事が休みの日に、公園でぼくと一緒にサッカーをしてくれた。お母さんのご飯はいつも美味しかったし、お母さんがぼくの頭を撫でてくれる度に温かい気持ちになれた。幸せっていうのは、多分こういう時の気持ちなのかなとぼくは思う。
お母さんは、ぼくの髪がさらさらで好きなんだと言っていた。だからか、よく三つ編みをしてくれる。それを見たお父さんが「菖蒲は男の子なんだから、三つ編みはどうかなぁ」と困ったように笑っていたけれど、ぼくは気に入っていた。だって、お母さんに笑顔で撫でてもらえる時間が、増えるから。髪を編んでもらっている間、お母さんとゆっくり話せるから、好きだった。
毎日が幸せだった。毎日、笑っていられた。転んだりして泣いた日もあったけど、お母さんが「菖蒲は笑ってる方が可愛いんだから」とか「お母さんね、笑顔の菖蒲が大好きよ」って言って、笑顔にさせてくれた。優しいお母さんとお父さんが、大好きで、大好きで……だから、そんな二人が離れ離れになっちゃったあの日、悪い夢でも見てるんじゃないかって、信じられなかった。
小学一年生の時、誕生日プレゼントにスケッチブックとクレヨンをもらった。お絵かきをしたことは、それまで無かったかもしれない。早速、ぼくは黒猫を描いてみた。そうしたら、描き上がった黒猫が紙から飛び出してきて、驚いた。
「お母さん! すごい! なんで猫さん出てきたのかな!?」
目をキラキラさせて、ぼくは近くにいたお母さんに猫を指さした。お母さんは「え……?」とだけ呟いて、ぼくから離れるように少しだけ下がった。
黒猫の頭を撫でてみたら、ふわふわしていなかった。ざらざらしている。手の平を見てみると、クレヨンを擦り付けたみたいに、真っ黒になっていた。
ぼくが触った頭から、黒猫はボロボロと崩れ始めた。砂のお城が崩れてく時も、確かこんな感じだったと思う。可愛いと思った黒猫が、おかしな形に崩れて、消えてしまった。カーペットに、黒いどろっとした水が染み込んでいく。
なんだか怖くなったけど、お父さんとお母さんがくれたスケッチブックとクレヨンがおかしいなんて思いたくなくて、お母さんを悲しませたくなくて、ぼくは笑った。楽しいことを頭の中で思い出しながら、大きな声で笑った。
「お母さんすごいね! 猫さん消えちゃった! マジックみたい! あはは、面白い!」
――なにも、面白くないよ。怖いよ。
本当の気持ちは全部全部隠して、お母さんに笑った。しばらく、ぼくの笑い声だけが響いてて、お母さんが黙っているのがなんだか怖くて、クレヨンをもう一回手に取った。それをスケッチブックに擦り付ける。笑顔のままもう一度猫を描く。
お母さんは、猫が好きだと言っていたから。お母さんに喜んで欲しくて、笑って欲しくて、もう一回描いた。するとまた、黒い猫が紙から飛び出す。
「お母さん見て! また出てきたよ! 猫さ――」
「なんなのよ、気味が悪い……!」
信じられない。そう言いたそうに首を左右に振っていたかと思うと、お母さんは慌ててぼくに駆け寄って、スケッチブックを黒猫に投げつけた。黒猫はさっきと同じように崩れて溶けていく。
ちょうどその時、お父さんが仕事から帰ってきた。壁にぶつかって落ちたスケッチブックをじーっと見てから、お父さんがお母さんに怒鳴った。
「何やってるんだ! それ、菖蒲の誕生日プレゼントだろ! なんでこんな――」
「おかしいのよ! 描いた絵が出てくるの! さっきそこに菖蒲の描いた猫がいたのよ! きっと呪われてるんだわ……それのせいで菖蒲まで呪われたら嫌よ!」
「なにを訳の分からないことを……! 貸してみろ!」
何が起こってるのか分からないまま、ぼくが二人を見ていると、お父さんがクレヨンを手に取ってスケッチブックに絵を描き始める。お母さんが猫と言ったからか、猫を描いたみたいだった。
描き終えても、お父さんの描いた猫は紙の中から出てこない。お母さんの声が震えていた。
「え……? うそ、嘘よ……だってさっき、本当に……」
「疲れてるんじゃないか。少し休んだ方が――」
「菖蒲! 嘘じゃないわよね!? さっき猫が! ……ねぇ!?」
お父さんからスケッチブックを取って、お母さんがぼくにそれを差し出してくる。描け、と言われてるみたいだった。だからぼくは、わけもわからないままに、黒猫を描いた。震えた手でクレヨンを強く握りしめて、強く紙に押し当てて、ぐりぐりと黒を広げて猫を描く。
猫は、絞り出されるクリームみたいに、紙から出てきた。
すごいでしょ。さっきみたいにそう笑って良いのか分からなかった。何も言葉に出来なかったけれど、ぼくは無言で笑い続けた。笑ってるぼくの方が可愛いって、好きだって、そう言ってくれた人が目の前にいるから。笑い続けていた。
しん、としている中で、お母さんが悲鳴みたいな声を上げた。お母さんのこんな声は、初めて聞いた。
「なによ、これ……! どういうことよ!? この子がおかしいっていうの!? 菖蒲が、どうかしてるっていうの!?」
「俺に聞かれたって分かるかよ! 気持ち悪い!!」
「ちょっと、なによ気持ち悪いって! この子の前でそんなこと言わ――」
「お前が気持ち悪いんだよ! こんな、普通じゃない子供産みやがって……!」
「な、何言ってるのよ! 私のせいだって言うの!?」
「そうだろ! 俺が普通の人間で、呪われてもないんだから! お前が呪われてるんだよ! 普通じゃないんだよ! もういい、寄るな!」
近付いたお母さんを、お父さんが突き飛ばした。そのまま部屋を出ていってしまう。それから、どのくらいの間、ぼくとお母さんは黙ったままそこにいたんだろう。
気付いたときには、お母さんがぼくにスケッチブックを投げつけていた。「あんたなんか産まなければよかった」そんな言葉が、ずっと、ずっと耳の奥で響き続けた。
大好きなお父さんには、それから一回も会えていない。大好きなお母さんは、お父さんが残していったものを全部捨てて、仕事を始めて、ぼくとあんまり顔を合わせなくなった。
それが寂しくて、それでもお母さんまでいなくなったら嫌だから、朝はちゃんと「おはよう」って元気よく言うし、帰ってきたら「おかえり」って笑顔で言う。でもお母さんは、口癖みたいになった「うるさい」って怒鳴り声だけをいつも返してくる。ぼくと顔を合わせると、いつも頬を打ったり、物で頭を叩いたり、物を投げつけたりする。
いなくなってよ。消えてよ。死んでよ。何がおかしいの。いつも笑ってて気持ち悪い。あんたなんか死ねばいいのに。あんたのせいで。私はあの人と一緒になれて幸せだったのに。あんたのせいで。
何度も何度も、そんな言葉を聞いた。それは怒った声だったり、泣き声だったり、呪うような声だった。
幸せだった日々を思い出すと、辛くなる。でもそんな顔、浮かべられない。
お母さんが、笑った顔を褒めてくれたから。お母さんが、ぼくとまた笑ってくれるようになるまで、その時まで、ぼくが笑うってことを忘れちゃいけない。お母さんがぼくを好きだって言ってくれる時まで、ぼくもお母さんが好きだって気持ちを忘れちゃいけない。
いつかお母さんが笑ってくれた時に、ぼくも笑っていたいから。ぼくを好きになってもらえた時に、ぼくもお母さんに好きを伝えたいから。
お母さんを怒らせないよう、お母さんを疲れさせないよう、ぼくは、良い子でいないといけない。悪い子は叩かれるってよく聞くから、ぼくが叩かれるのはぼくが悪い子だからなんだって思い込む。
だってそうじゃなきゃ、なにになろうと思えば良いのか分からない。
ぼくがただ嫌いなだけなんだって認めちゃったら、何を目指したら良いのか分からないまま、愛される努力も出来ないままお母さんもいなくなっちゃうかもしれない。
だから、ぼくは悪い子なんだ。だから、良い子にならなきゃいけない。勉強が出来て、運動も出来て、偉くて優しい良い子。お母さんに褒められて、撫でてもらえるような良い子。そんな子に、ぼくはならないと。
そうしないと、愛してもらえないんだ。
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三日市のとある所にあるアパートに、私は仕事として訪れていた。その二〇三号室の呼び鈴を躊躇なく鳴らす。
蘇芳さんのことも気にかけていたため、なかなか菖蒲くんの方に手を回せなかった。偽物の世界がなくなって一週間が経ち、ようやく安心して動き始められる。
ここに住んでいる女性のことは調査済みだ。神屋敷愛莉。三日駅前のスーパーで週五日、朝七時から夜十九時頃まで働いている。休みは月曜日と火曜日。土曜日と日曜日に休まない理由は、子供と顔を合わせる時間を減らしたいからだろう。
今は月曜日の朝十時だ。早過ぎれば学校へ行く支度をしている菖蒲くんと会うことになってしまうだろうし、遅すぎれば彼が帰宅してしまう。早めに訪問し、早めに話を終わらせるつもりだった。
「はい」
気怠げな声と共に扉を開けてくれたのは、綺麗な女性だった。さらさらの髪と大きめの瞳をした彼女が童顔気味なせいもあって、菖蒲くんの顔立ちとよく似ていた。私が誰なのか問いかけようとしていた彼女に、名刺を差し出す。
「初めまして。『能力者保護協会』の東雲と申します。菖蒲くんについて、貴女とお話したいと思いましてね。長くなるかもしれませんし、他の方には聞かれたくないでしょうから、中でお話を伺っても構いませんか?」
怪訝そうに、形の良い眉が寄せられた。その顔色を目にして、追い返されることを覚悟したが、彼女は「どうぞ」と扉を開けたまま中に入ってしまう。
私は静かに扉を閉めてから、彼女を追いかけてリビングに足を踏み入れる。座るよう促された椅子に腰掛けると、彼女は私の向かい側に座って、凛とした顔を顰めた。
「菖蒲を、連れて行くつもりですか」
「貴女との話し合い次第です。もし彼を連れて行くと私が言った場合、貴女はどうなさいます?」
「……どう、するんでしょうね」
疲れたような顔をして、彼女はテーブルの上に置いた両手を見つめていた。悩んでいる様子に、ほっとしている自分がいる。一縷の希望を見付けた気分だった。予想していたよりも、酷くはない。
私は聞きやすいゆっくりとした声で、混乱させないよう優しい声色で、話し始める。
「菖蒲くんが能力者だということは、貴女も理解していますね? それに対して、貴女がどう思っているのかお聞かせ願えませんか?」
彼女は「能力者」と小さく呟いてから、目を細める。開いた口は、しかし声を発しない。様々な感情に喉を覆われているみたいだった。彼女が話を切り出してくれたのは、それから数十秒後のことになる。
「……ずっと、呪われているんだと、思っていました。私が産んだあの子は呪われてて、人なのに人じゃなくて……。あの子を見るたび夫のことを思い出して、あの子さえいなければ私はあの人と愛し合えたままでいられたのにって、八つ当たりじみたことをしてきました。あの子が、気味が悪くて、怖くて」
「貴女も、傷付いてきたのですね」
その傷を包み込むように、柔らかく。優しさ以外の感情を忘れたように、優しく、言葉を向ける。
だがそれだけでは同情を示しているだけで、まるで彼女がしてきたことを正しいと言ってやっているような、必要の無い優しさだ。私は僅かな鋭さを持って、これまでよりも低い声を落とした。
「私は、貴女と菖蒲くんの間にどういったことがあったか、詳細は知りませんし、尋ねません。ですがハッキリとしていることは、貴女だけでなく菖蒲くんも、その身と心に傷を負っているということです。それは、分かりますね?」
「そうですね……私は、あの子に暴力を振るってきましたから。でもきっと、あの子の心は傷付いてなんかいませんよ。いつでも笑っているんだもの」
「かけがえのない親である貴女にそんなことをされて、本当に傷付かないと思っているのですか?」
指を絡められた彼女の両手が、僅かな力を込められ、微かに震えた。険しさを増していく顔は、決して苛立ちを表しているわけでは無い。彼女はまるで自分を鎮めるように、或いは咎めるように、唇を噛み締めていた。
私は、彼女が能力者に抱いている嫌悪感に似た思いを、少しでも変えられるよう説明を始める。
「能力というのは呪いの類ではありませんし、能力者は人ならざる者でもありません。れっきとした人なんですよ。菖蒲くんにだって心がある。貴女は貴女の都合で産んだ子供を、簡単に捨てられるのですか? 彼は物じゃない。貴女が貴女の勝手で彼に与えた命も、覚えさせた心も、玩具のように壊せるのですか?」
「それは……」
「もしそのような心無いことが出来る人がいるのであれば、いつも明るく笑っている菖蒲くんのような能力者よりも、その人間の方がよっぽど人じゃない」
言ってしまってから、失言をしたことに気が付く。感情的になりすぎてしまった。彼女はただ俯いたまま顔を顰めていくばかりで、けれど私の失言に気を悪くしてはいなかった。しかし私情を持ち込んだことを詫びる。
「すみません、言い過ぎました」
「……いえ」
「……能力というのは、治療法のない、原因不明の病気のようなものです。貴女がもし菖蒲くんを医者に診せに行っていたなら、その医者にこう説明されたかもしれません」
「どういうことですか……?」
「能力者の子供を持つ多くの人は、頼る場所に病院を選びます。大きな病院にある脳外科または精神科を頼る人が多いようでしてね、それゆえ、保護協会の者がその市の一番大きな病院に一人か二人いるようになっています。そして私が今口にした説明をし、場合によっては能力者をその場で引き取ります」
驚いたように目が見張られる。私をようやく見てくれた彼女に、小さく笑いかけた。彼女は私を見たまま、ゆっくりと息を吐き出す。
「ということは……能力者って、沢山いるんですか?」
「どうでしょうね。少なくとも、貴女が思っているよりは多いでしょう。しかしその存在は公にはされない。それが何故か分かりますね?」
「……私のように、人として扱えなくて、恐れたりする人がいるから……混乱するから、でしょうか」
「他にもいくつかありますが……そう言った理由により、能力者であることを隠して、けれどその能力のことでやはり悩み、苦しんでいる人がこの世には大勢います。それはやはり、彼らが『周りとは違う』ことに、彼ら自身が悩まされているからです。そんな中で居場所まで無くなってしまったら、家族にまで拒絶されたら。自分で付けた傷が、治せなくなるくらい深く抉られるのですよ」
ここまで言って、彼女の気が何も変わっていないなら。彼女が何も感じていないなら。彼女と菖蒲くんの意思に関係なく、菖蒲くんを引き取るつもりだった。我々が大事にするのは能力者の心。だがそれ以上に私が大事にしたいのは、その命だ。
菖蒲くんが心から母親といることを望んでいたとしても、母親といることでいつか彼自身が壊れてしまう可能性がある。
私はただ、恐れていた。知り合って、助けようとした能力者を、死なせてしまうことを。
黙り込んだままの彼女に向けていた笑みを、取り去った。
「もう一度問いましょう。私が菖蒲くんを連れて行くと言った場合、貴女は、どうします?」




