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月光4

     ◆


 待宵市で様々な店を見て回り、満足した様子の浅葱と電車に乗って、繊駅に着いたのは二十三時過ぎだ。零時に東雲の家に来るよう言われていたから、丁度良い時間かもしれない。というよりも、零時になる前に彼の家に着きそうだった。


 まさか時間になるまで外で待て、とは言われないだろう。そう思いつつ、人気の無い、街灯に照らされる薄暗い道を歩く。


 隣で鼻歌を歌っている浅葱は、猫のぬいぐるみを両手で抱きしめていた。まるで幼子みたいだ。彼女を横目で見ながら曲がり角を曲がらず直進すると、呼び止められた。


「紫苑先輩、こっちですよ」


「そうだったっけ。ありがとう」


 東雲の家までの道なんてうろ覚えだ。道を覚えるのはあまり得意ではない。普段通らない所となると尚更だ。


 浅葱の道案内のおかげで、迷うことなく、東雲の住んでいるマンションの前まで来ることが出来た。腕時計を確認してみると、零時まではまだ二十分くらいある。


 どうしようかと悩んでいたら、浅葱が「あっ」と声を上げた。それよりも大きい声が、マンションの入り口から響いてきた。


「あーっ! 紫苑さん! 浅葱さん! こんばんは!」


 マンションから出てきた菖蒲が、こんな時間でも元気そうな、近所迷惑になりかねない声量で挨拶をしてきた。今は声の大きさよりも、彼がこんな時間に外にいることを咎めたくなって、駆け寄ってきた彼に冷めた音吐を落とす。


「菖蒲、またこんな時間に……」


「もう帰りますよ! もう少しいたかったんですけど……お母さんが心配するから、帰りますっ」


 今まで見た菖蒲のどの笑顔よりも子供らしく、どこか嬉しそうに笑う彼を見て、僕は戸惑った。浅葱に撫でられて笑みを深めている彼と、彼の母親との間で何か変化があったのだろうか。


 気になりはしたけれど問いを口に出せずにいたら、菖蒲と同じようにマンションから出てきた空が彼のランドセルを軽く叩いた。


「夜中なんだから静かにね。っと、こんばんは少年。それと――浅葱ちゃんだったかな? 私が菖蒲君を家に送り届けるから、キミ達は心配せず、東雲の部屋に行きな。少し早いけど、東雲待ってるから」


 空に頷いた浅葱は、菖蒲に視線を戻してぬいぐるみで遊び始める。二人を横目で見た後、僕は空に真剣な表情を向けた。


「空、菖蒲は」


「――大丈夫。お母さんとは、きっと上手くやっていけるよ」


 空は囁くような声でそう言った。ほっと胸を撫で下ろした僕に、強めの語調で「けど」と投げかけてくる。そこから先は、今目の前にいる僕にしか聞こえないくらい小さな声で続けられる。どうやら菖蒲にはあまり聞かせたくないみたいだ。


「東雲の説得が効いた今は大丈夫なだけで、また亀裂が入るかもしれない。その時は、お母さんへのフォローは私達がする。でも菖蒲君へのフォローは少年がしてやってよ」


「言われなくても、そうするさ」


 言下に返してみたら、空は瞠目して数秒固まった後、猫みたいに笑って頷いた。すると他にも話したいことが思い浮かんだのか、もともと話そうと考えていたことを言うためか、どこか演技くさく両手を叩き合わせた。


「そうだ、少年。もし進路に悩んだらさ、保護協会で働かない? キミさえよければ会長にキミのこと話しとくし、私は歓迎するよ」


 突然の勧誘に驚いて、空の言葉を頭の中で反芻する。


 僕達能力者にはそういった就職先もあるのか、と思いつつ、思案してみる。期待の眼差しを向けられながらも、真剣に考えた結果、首を縦にも横にも振らずに一言だけ返した。


「兼業でも良いなら考えておくよ」


「うん、アルバイト的な感じでも大丈夫だから、いつでも来たい時に私か東雲に連絡してね。こっちから連絡することもあるかもしれないけど」


 空に頷いてから、僕は菖蒲の方に視線を向けた。空は今から彼を家に帰そうと思っているようで、僕とほぼ同じタイミングで彼の方に向いていた。


 空よりも先に、僕が「菖蒲」と名を呼ぶと、元気の良い声が返ってくる。


「はい! なんですか?」


 菖蒲は顔だけを振り向かせた。手ではまだぬいぐるみを触っているから、その年相応のあどけない姿に笑みが零れてしまう。僕は彼に近付いて、頭を優しく撫でてやった。


「また今度、食べたい物を作ってあげるよ」


「やった……! 絶対ですよ! 楽しみにしてますからね!!」


 空に手を引かれながらも、菖蒲は大きく手を振りながら嬉しそうな声を上げていた。マンションの地下にある駐車場の方へ歩き去って行く姿を見送り、僕は浅葱に苦笑する。


「元気だね、子供は」


「ですねっ。そろそろ行きましょう、紫苑先輩!」


 何かを楽しみにしているような、わくわくしている、という言葉が相応しいようなニヤケ顔に首を傾げながら、僕は浅葱とマンションの中に入っていく。


 階段を上っていると、後ろに付いて来ている浅葱が小さめの声で話しかけてきた。こんな時間のマンション内だから、迷惑にならないよう配慮しているのだろう。


「今日、楽しかったですか?」


 そんなことを問われて、思わず足を止めてしまう。けれどそれは一秒にも満たない短い間のことで、僕は何事もなかったかのように階段を上がり続けた。


「楽しかったよ」


 今日のことを思い出しながら口を開けば、勝手に言葉が飛び出していた。それくらい、楽しいと思えた一日だったのだ。しかし本音を口に出してしまうとなんだか照れ臭くて、俯きたくなる。浅葱が今の返答にどんな感情を抱いたかは知らないが、何気なく静まった中で息が詰まりそうだった。


「良かった……私も、すごく、楽しかったです」


 熱で溶けて消えてしまいそうな、甘く柔らかな砂糖菓子を連想させる声音せいおん。それだけで心が穏やかになっていく不可思議な感覚は、どうしてか心地良い。


 階段を上りきって、後は通路を進んで東雲の部屋に向かうだけだが、僕は浅葱が上がって来るのを待ち、その手を握っていた。


「へっ!? し、紫苑先輩!?」


「……特に、深い意味は無いよ。行こうか」


「え……あ、はいっ!」


 何か、適当な理由を取って付けても良かった。普段なら咄嗟に出任せを考え付くはずなのに、今は何も考え付かなかった。きっと冷たい夜風のせいだ。涼しい風に、思い付く限りの嘘を全て攫われていってしまった。吐き出した息さえも、すぐに風と混ざり合ってどこかへ流れて行く。


 溜息が浅葱の耳に届かずに消えて行ってくれたら良い。そんなことを考えたまま、東雲の部屋の前まで来てインターホンを鳴らした。


『あ、紫苑くんですか? どうぞどうぞ! 入ってください!』


 妙にテンションの高い東雲の声を朧気に聞きながら、重ねていた手をそっと離していく。今更、彼女の手を握った自分に呆れつつ、扉を開いた。


 まるでびっくり箱を開けた時のような気分になった。なにしろ開けた途端、いきなりクラッカーが鳴らされたのだから。


 目を白黒させながら、「は?」と漏らしたが、そんな僕の声を掻き消すくらい大きな声が鼓膜を震わせた。


「おめでとうございます呉羽先輩!」


「お誕生日おめでとうございます!」


「呉羽、おめでとう!」


 声を揃えて言った割に、言っている言葉は揃っていない。盛大に出迎えてくれたのは、蘇芳と東雲と枯葉の三人だ。叫んだ後に三人が――いや、浅葱を含む四人が拍手をし、その音が止むと、東雲が「数分早いですが」と付け足した。


 一体なんの騒ぎなのだろうと思いながら、彼らが今バラバラに口にしていた言葉を思い返してみる。それからすぐに、零時になったら何月何日なのか考えて、それが何の日なのか思い出す。


「なんで……」


 声が、酷く掠れていた。情けない。どうして自分の瞳から涙が零れそうになっているのか、理解出来ない。目の奥が、熱い。今の自分は酷い顔をしているのではないか、と思って咄嗟に俯いた。深呼吸をすると、喉まで焼かれているみたいに、息が苦しかった。


 誕生日おめでとう。その言葉を聞いたのは、いつ以来だろう。そういえば、誕生日は祝われるものだった。


 祝ってもらったことくらい、あるはずなのに。あったような気がする、という程度にしか思い出せない。だからだろうか。こうして祝われただけで、懐かしさや嬉しさといった、とにかく人の涙腺を刺激する感情が幾つもせり上がって来ている。


「あ、あれ……? 呉羽先輩?」


 不安げな声にはっとして、震えている唇を噛んだ。血の味が口の中に広がるくらい、強く噛み締めた。そうして笑顔を貼り付け、顔を上げる。


「ありがとう」


 表情は誤魔化せても、声は誤魔化せなさそうだった。だから、たった一言お礼を口にするだけで、今の僕には精一杯だ。これ以上喋ってしまったら、涙を引っ込めることが出来なくなる。


 蘇芳が僕の言葉を受け止めて笑い返してくれた。東雲と枯葉には、気付かれてしまったのかもしれない。彼らは慰めるような目で僕を見ながらも、微笑んでいてくれた。


 玄関で立ったままでいたら、浅葱に背を押される。


「紫苑先輩! ご馳走用意出来てますから! 沢山食べて下さいね!」


 靴を脱いで室内に足を踏み入れ、道を開けてくれた蘇芳達の前を通り過ぎて、リビングに向かう。

 そのリビングの壁には飾り付けがしてあった。折り紙を短冊形に切って輪を作り、その輪に通した短冊でまた輪を作る、そんな飾りだ。その飾りは簡単に作れるが、リビングの壁を一周出来るほどの長さを作るのは結構な時間を要しただろう。


 何の気なしに飾りを目で辿って行くと、今僕が歩いてきた廊下に繋がっている、扉が収まる空間の上方の壁に、画用紙が貼られていた。『しおんさん、おめでとうございます!』と、綺麗とは言い難い子供らしい文字が、一文字一文字色の違うクレヨンで書かれていた。と言っても文字数と同じ数の色はなかったみたいで、途中からで最初の文字に使った色に戻って、同じ順に色が使われている。


 大きく書かれたそのメッセージの下に、『わっか作るのがんばったんですよ!』という小さい文字を見つけ、自分の功績を大声で主張する菖蒲の姿を思い浮かべた。それを微笑ましく思いつつ、胸の内で彼に礼を言い、今度はテーブルの上に注目する。


 卓上にはオレンジジュースが入った一リットルのペットボトルと、紙コップが五つ。そしてショートケーキとチョコレートケーキ、レアチーズケーキが一台ずつ並べられていた。他にも、ミルフィーユと苺のタルトが三つずつ、大きな皿に載せられている。それを見て、思わず声に出して笑ってしまった。


「っはは……ご馳走って、甘いものしか用意されてないけど」


「えっ、やっぱりお肉とかお魚とかも用意した方が良かったですか!?」


「いや、いいよ。甘いものは好きだからさ。ありがとう」


 文句を言いたかったわけではない。この、嬉しい気持ちをどうしたら良いか分からなくて、笑い飛ばすように言っただけだ。しかしそれを真っ直ぐ受け取った浅葱が狼狽していて可笑しかった。安心させるために笑うと、彼女は落ち着いてくれた。良かった、と思っていたら蘇芳に腕を引かれて椅子に座るよう促される。コートを脱いで背もたれに掛けてから席に着いた。


「あ、宮下センパイは呉羽先輩の前ね」


「えっ、う、うん!」


 浅葱の席を口頭で指定した蘇芳はというと、その浅葱の隣に腰掛けた。僕の隣には枯葉が座る。四脚しか椅子がないため、東雲はどうするのかと思って彼の姿を探してみると、彼は浅葱から受け取ったと思しき猫のぬいぐるみを抱きしめて、僕達からは少し離れた所でソファに寝転んでいた。


 東雲の方に合わせていた視点を前に持ってきたら、浅葱が僕の隣――枯葉の方をちらと見て、落ち着かないような感じで視線を彷徨わせた。どこか変な空気を感じて枯葉の様子を窺ってみれば、彼もまた同じように落ち着きなく黒目を泳がせている。


 そんな枯葉から意識を逸らすように、浅葱が蘇芳ににこりと笑った。


「蘇芳ちゃん、よかった」


 今の一言だけでは何の話をしているのか全く見当も付かなかったが、声をかけられた当人は何かと結びつけることが出来たのだろう。複雑そうな、しかし嬉しそうにも見える顔をして、蘇芳は小さく頷いていた。


 僕は紙コップを手に取って、中身が入っていないことに気が付き、ペットボトルに手を伸ばす。


「あっ! ジュース入れますね!」


 僕の手がペットボトルに触れる前に、浅葱はそれを素早く取って、コップにオレンジジュースを注いでくれた。彼女が全員分のコップにジュースを注いだのを見て、早速飲もうとしたが、枯葉にその手を掴まれ止められる。


「とりあえず乾杯しようぜ、乾杯!」


「いいですね! 乾杯しましょう!」


「かんぱーい!」


 枯葉のノリに浅葱が乗っかったと思うと、蘇芳が勝手に掛け声を上げてコップを掲げた。流れに身を任せ、僕は無言のままコップを持ち上げて、コップ同士を軽くぶつける。軽快な音色が響いて、そこに三人のはしゃぐ声が重なる。


 楽しそうな彼らを前に、気が付けば僕も笑っていた。



 ケーキを食べ終え、東雲も入れて五人でトランプをしていた。大富豪をやって、一番初めに勝ち抜けた僕は、ベランダで夜空を眺めていた。


 確か、五日前が満月だった。今日は少しだけ欠けている。満月の五日後の月は、更待ふけまちづきという呼び名だったはずだ。月の出が遅いため、夜が更けるのを待つ――そんな意味を持っていたと記憶している。


 どれだけ待っても、どれほど夜が更けても、今夜の空を彩るのはその月だけだ。偽物の月は、もう二度と見られない。そう思うと、あの絵を見たくなる。


 協力者が出来てから今に至るまでの時間は、長いようで短かった。一月と数十日だ。夜になるたび偽物の夜のことを思い出し、月を見るたび偽物の月のことが思い起こされる。


 濃藍で塗り潰された夜空と、散りばめられた星々を見ていたら、色々と考え込んでしまう。暗く静かな空間が心を冷静にさせてくる。淡い月明かりが、意識を感傷に浸らせる。視線で星をなぞりながら、これまでとこれからを、秋空に思い描いた。


 もし、この先出会う誰かにあの世界での出来事を話したら、馬鹿げた作り話だと笑われるかもしれない。それでも確かに、偽物の月は僕達だけに光を見せていた。誰にどう言われてもそれは紛れもない事実で、そこから繋がった僕達の縁は誰にも否定させない。


 あの月のことも、あの世界のことも、僕達はきっと忘れられないだろう。


 そっと手を持ち上げて、顔の前に持ってきた。この手が血に塗れていた日々のことを思い出すと、自分がこのまま日常を歩んで行って良いのか、不安になる。


 そんな不安ごと、手を握り締めた。不安を押し潰すように、強く、強く握り締める。


 僕がこんなことではいけない。胸を張って、前だけを見据えて、自分が正しいと思う道をひたすらに進んで行く。そうしたいから、後ろ向きな考えを心の奥の方へ追いやった。僕がどう在りたいのか、そんなものは曖昧にしか定まっていないが、少なくとも下を向くことはその在り方に含まれない。


 自分が、過去の自分を笑えるように。その時、自分を誇れるように。前へ、進んで行く。


 力を抜いて開いた手の平は、冷え切っていた。十月の後半となると、空気も風も冷たい。はぁ、と吐いた息が白くならないのが不思議なくらいだ。秋風で揺らされた木々が涼しげな音色を奏でる。深夜一時を過ぎた街は、夜空に落とされた藍色に包まれて、街灯と月明かりだけに照らされていた。


 そろそろリビングに戻ろうかと思い、夜景に背を向けた。振り向かせた顔のすぐ傍にあったのは、淡い紫色のマフラーだ。僕が振り向いたからか、それを手にしている浅葱は「あ」の形に口を開けたまま固まっていたが、すぐさまそれを僕の首にかける。


「さ、寒いですよね! どうぞ巻いて下さい!」


「ありがとう。……ここは冷えるから、中に戻ろう」


 マフラーを軽く巻きながら、リビングの方に戻ろうとした。けれど浅葱が僕の手首を掴んで、引き止める。


 何か話したいことでもあるのだろうか。そう思って浅葱の顔を覗き見ると、彼女は泣き出しそうなくらい目を潤ませて、けれど幸せそうに笑っていた。その笑顔と涙は不釣合いで、彼女の胸の内の相反する感情が、複雑に絡み合っていることを明かしているみたいだった。


「ちゃんと、私が作ったんですよ、マフラー。ケーキ作りは上手く出来なくて、早苗さんに助けてもらいながら、頑張ったんです。マフラーと、もう一つ何かをプレゼントするって約束しましたから」


 無理して象られた幸福の微笑に、彼女にそんな意思は無いと分かっていても責め立てられている気分になる。今の僕を責めているモノが本当にあるとすれば、それは『僕』の彼女への慕情だ。マフラーをそっと持ち上げて、意図的にと思われないよう自然な動作で口元を隠した。


 辛そうな顔をさせてしまっている申し訳なさから、記憶を思い出さなければと思ったが、脳が小さな悲鳴を上げるばかりで過去の情景は見えてこない。おかげで歪んでいく唇を、今の彼女に見られたくなかった。


 なるべく目を細めず、眉を寄せず、平静を装って浅葱の双眸をひたすらに眺め入る。


 僕が何かを口にすれば、彼女はその頬を濡らすだろう。しかしそれは、何も言わなくとも同じことのように思えた。それゆえ自分がどうすればいいのか、分からなくなる。


 何も言葉に出来ないまま、何も顔に出せない時間は、時が止まっていると錯覚する。動かなくなった時計の螺子を巻いて、無理矢理針を進めたのは、浅葱の方だ。


「っ……なんのことか分かりませんよね。でも、それでいいです。紫苑先輩、お誕生日、おめでとうございます」


 錆付いた螺子は嗚咽に似た音を鳴らすのだろう。彼女の苦しげな声を聞いてそんなことを考えていた。


 意を決するように、浅葱は大きく息を吸おうとした。しかし静寂に響いた呼吸音は、しゃくりあげる時のものだ。それを僕に勘付かれたくないからか、彼女は僕が喋る間を与えず明るい声で告げていく。


「夕方に言った話したいこと、今言わせていただきますね。私……記憶がなくても、紫苑先輩のことが、好きです。友達以上になりたいなんて言って先輩を困らせたくないのに、それでも特別な存在でいたいと思ってしまうくらい、好きで好きで……どうしようもないくらい、好きなんです……っ」


 気持ちを吐き出せば吐き出すほど、浅葱は綺麗な瞳を揺らしていく。声までも震わせていく。今彼女が溢れさせている思いは、被せられていた蓋を失くしてしまったかのように、止められることなく流れ続けていた。


 夜が静かなものであることを忘れるくらい、彼女は必死に『伝われ』と喉を泣かせて叫んだ。


「恋、してるんです。愛してるんです……! 紫苑先輩の隣に居続けたいんです……! 紫苑先輩と、お付き合いしたいんです! 先輩が私を思い出してくれなくても、私は何度だって先輩が好きだと叫べるくらい、恋心を捨てられないくらい、紫苑先輩が――!」


 誰かを思う気持ち。思ってはいけないと、自分を咎める気持ち。それでも求めたくて手を伸ばそうとして、自分でその手を押さえつけて。叫んだことで出来てしまった後戻りの出来ない状態から、どうにかして逃げ出そうとして。


 そんな、絡まった糸を思わせる葛藤は、浅葱の涙が零れる度に色濃く伝わってきていた。迷いながらも前だけを真っ直ぐに見据える姿が、弱々しくも美しい。


 滲んだ視界の中で、月光が眩しく思えた。目を閉じた時間と、冷静さを欠いてしまった時間は、どれくらいの長さだったのだろう。


 僕らしくもなく取り乱し、冷静になった頃には、か細い体を掻き抱いていた。


 浅葱の泣き顔を見たくなくて、自分の今の表情を見せたくなくて、わけも分からぬまま唇を動かす。


「さっき、約束って言ってたけど……約束した覚えはないよ。沢山もらうと僕が迷惑だって言ったのに、あんなに沢山ケーキを作ってくれて、ありがとう」


「せ、んぱい……記憶、思い出して……」


 尋ねられて、すぐさま「違う」と断言した。思い出した、とは言えないからだ。彼女と過ごした日々の映像は思い出せないが、彼女の声や交わした言葉は、ふとした時にぼんやりと想起される。それだけでしかないからだ。


 僕は、彼女の声の余韻を聞きながら問いかける。


「……だから、待っててくれる?」


「待つ、って……?」


「返事を」


 自然と微笑が零れ出し、僕は浅葱からそっと離れた。


 今すぐに、その返事を出しても構わなかった。けれどそれでは、本当に抱いていたかも分からない不確かな恋心の残り香に――つまりは以前の自分の心に惑わされているようで、そんな曖昧な思いに乗じる僕自身を許せそうになかったのだ。真っ直ぐな気持ちには真っ直ぐに返してやりたい。今伝えられた思いには、今の僕の思いを伝えてやりたい。


 落涙し続けながらも僕から目を逸らさない浅葱へ、苦笑して手を伸ばした。


「僕が君に抱いていた感情が、確かに恋心だったと感じた瞬間を思い出せるまで――待ってて」


「……はいっ」


 花を咲かせるように笑顔を見せた浅葱の頬は、夜の冷たさに掻き消されない確かな熱を持っていた。押し当てた指に、夜露が伝う。煌いたそれに相応しい言葉が頭の中に浮かんで、微かな笑声を漏らしてしまった。


 ――月の雫。


 月が雫なんて零すはずがない。初めてこの単語を目にした時はそう思ったけれど、そもそもその考え方が違ったのだ。実際にそれを見てみなければ、納得のいく自分なりの解釈を見付けられなかったと思う。


 それはきっと、月夜に流される涙のことだ。


完結です。最後まで読んでくださりありがとうございました。

この作品でこんなに感想等頂けるとは思っていなかったので……とても嬉しく思います。励みになっていました。ありがとうございます。この作品を気に入って頂ければ幸いです。

本編に関しましては、恋愛、ミステリー、能力バトル――この三つを絶妙に交錯させることが出来ていたら良いな、と思っていますが、どれもお楽しみ頂けたでしょうか。

作品を通して、登場人物達の心を通して、何かを感じてもらえたなら嬉しいです。


本編は完結となりましたが、番外編を二つ用意しております。一つは菖蒲の話(東雲と空も絡んできます)、もう一つは朽葉の話です。その二編を明日の午前と午後にささっとこっそり更新してから、完結済設定にする予定です。気になった方は是非番外編も覗いてやって下さい。

また、先日、二次創作作品(http://ncode.syosetu.com/n1972dw/)を頂きました。洗練された文章で綴られる、呉羽兄弟の微笑ましいお話です。是非是非ご覧になって下さい。

ここまで読んで下さった方、長い後書きにまでお付き合い下さり、本当にありがとうございました。


以下、イラストを載せさせていただきます。↓






挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


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