月光3
◆
約束の時間が夕方だったから、早起きをする必要もなかったのに、今朝はいつもより早く目が覚めてしまった。偽物の月の世界が消えてからは、夜十一時頃に就寝し、朝六時に起床するようになったが、今日起きた時間は朝の四時だ。朝食を作ったり読書をしたりして時間を潰していても、落ち着き無く時計ばかり見てしまう。
昼食を食べて、待ち合わせの時間までどうしようかと悩みながら何気なく自分の部屋を出ると、何故か僕の部屋の前にいた紫土にじっと見られた。
頭の先から爪先までをじっくり観察するように見られては、顔を顰めたくなる。眉を寄せながら口を開き、不満に塗れた低声で彼を刺した。
「何」
「紫苑さ、今日デートなんじゃないの? そんな格好で行くわけ?」
「デートって……。友達と会うだけだよ。というかなんで知ってるの」
「今日のお前の様子を見てたらなんとなく外出するんだろうなってことは分かったし、この前珍しく可愛いヘアピン買ってきてたよね? しかも俺に、綺麗な包装紙持ってないかって聞いてきたんだから、近いうちに好きな女の子にプレゼントするんだろうなーって思うでしょ」
外出についてはなかなかの推理、と言いたいところだが、僕はリビングにいても時計に何度も目をやっていたから、分かりやすかったのだろう。しかし包装紙に関する昨夜の問いかけに素っ気ない顔をして「ない」とだけ返していた彼が、まさか胸中でそんなことを思っていたなんて想像もしていなかった。僅かに吃驚していると、笑声が耳を打つ。
「にしても……ははっ、青春だねぇ」
人をからかうのがそんなに面白いのか、ひたすらニヤニヤしている彼に苛立ってつい舌打ちをしてしまった。
楽しみとでも思っているような、どこか柔らかだった気分をこれ以上掻き乱されたくなくて、僕は部屋に引っ込んだ。しかし閉じた扉はすぐに紫土が開いて、僕の部屋に遠慮なく入り込んでくる。
「弟の恋愛くらい応援させてよ。ってわけで、まずそのラフすぎる格好なんとかしようか」
今僕が着ているのは、白いパーカーに暗い色のジーンズだ。もちろんこれだけでは寒いだろうから、冬の通学時に着ている紺色のコートを羽織っていくつもりだった。服装なんて適当に選んで適当に着たもので良いだろうと思っている僕の前で、紫土が勝手に人のクローゼットを漁り始める。
「というかお前、いつもはもう少しマシな格好してるでしょ。なんでデートの日に限って、持ってる中で一番ラフっぽいのを選んだの? 山登りでも行くの? それとも遠足かな?」
「うるさいな。目に付いたのを着ただけだよ」
「分かってないねホント。少しでも、気合い入れたのかなーとか着る服悩んだのかなーって思うような格好で来てもらえた方が、女の子は嬉しいと思う。――ってわけで、これ着てね。あぁ、ちなみにコートはそれで決定、良い?」
「はぁ? なんで僕があんたの指示に従わなきゃならないわけ。とっとと出て行ってよ。まともなの選べばいいなら自分で選ぶから」
差し出された服は、シンプルだけれどきっとお洒落ではある。しかし紫土の言う通り気合いを入れた格好の方が喜んで貰えると言うのなら、兄に決められた服を着ていくなんて嫌だと思った。
不服そうな顔をしている紫土を押して追い出そうとすると、彼はあっさり扉を開けて廊下に出ようとした。だが出て行く前に足を止めて、珍しくまともな微笑を振り向かせてくる。
「紫苑。大切な人にはさ、たっぷり愛情向けて、これくらい君のことが好きなんだって気持ちを、言葉か態度でちゃんと示してあげて」
「……出来るなら、そうしてるさ」
「まぁ……愛の形、みたいなものは人によって違うしね。お前のその控えめすぎて伝わりにくいものも、ちゃんと好意なんでしょ。それがちゃんと、彼女に伝わると良いね。伝えたいことを伝えられないとさ、いつか失くした時に、後悔するよ」
軽い声色で投げかけられる言葉は、どこか重い雰囲気を落とす。歪じゃない笑顔の紫土を見ていられなくなって、彼に背を向けてしまった。どうしてか、痛ましく見えてしまったのだ。
「それと。手放したくないものは、しっかり見守っていてあげなよ。……じゃ、頑張って」
音を立てて閉まった扉をちらと見てから、僕はクローゼットに向き直る。中に入っている服を一通り見て、紫土に文句を言われなさそうな服を選んだ。お洒落なんてものは分からないから、とりあえず仕事に行く時の紫土の格好を真似てみただけだ。それに着替え、派手すぎず地味すぎないコートを手に取り、携帯電話を開いて時間を確認する。表示されている日時は、十月二十八日、十五時二十一分。待ち合わせの時間までまだ一時間半ほどあったが、彼女を待たせたくはないため、家を出ることにした。
しかし駅に着いてみると、先に待っていたのは彼女の方で、自分の情けなさと彼女の生真面目さに頭を抱えたくなった。
「はぁ……」
思い出してみても、溜息が出る。先ほど浅葱にベラベラと語ったことを全部忘れるように、言わば現実逃避をするように、家を出るまでのことを思い返していた。
渇いた喉にコーヒーを流し込んで、顔を上げた。苺のムースケーキを口にしていた浅葱が僕の方を見て、柔らかく目を細める。
「十回目です」
「え、なにが?」
「お店に入ってから、溜息を吐いたのが」
「……ごめん」
店に入ってからまだ二十分も経っていないはずなのに、十回となると結構な回数だ。そんなに何回も目の前で溜息を吐かれていたら、嫌な気持ちになるだろう。だから謝罪を口にしたのだが、彼女は気にしていないのか、笑ったまま首を左右に振った。
「冗談ですよ。まだ三回くらいですから」
「三回でも充分鬱陶しかったと思うけど」
「そんなことはないです。紫苑先輩、さっきの恥ずかしかったんでしょう?」
「むしろあんなことを言って恥ずかしくならない奴がいるなら、そいつは羞恥心をどこかに置き忘れているんじゃないかな」
また溜息を吐きそうになったため、カップに口を付けてコーヒーと一緒に飲み下した。まだ食べていなかったショートケーキにフォークを向け、一口大に切って食べる。浅葱はもう食べ終わってしまったのか、鞄から鏡を取り出して前髪を撫でていた。
だんだんと緩んでいく彼女の口元を見ていると笑ってしまう。どうやら、髪留めは気に入ってもらえたようだ。けれどその目は、どこか寂しそうに、何かを懐かしむように細められていた。かと思うと、鏡を置いた彼女はそれが見間違いだったと思うほどの笑みを顔いっぱいに広げ、テーブルに身を乗り出してくる。
「先輩っ、お揃いですね! 可愛いです!」
「お揃い?」
彼女の言っていることがいまいち分からず、首を傾ける。僕は髪留めなんて付けていないから、なんのことか思い当たるものが無い。きょとんとしたまま見つめ合っていると、彼女は僕の左耳を指差した。
「兎のシルエットです! 同じブランドなんですか?」
「え」
言われるまで気付かなかった。僕のピアスのカードには兎のシルエットが描かれている。そのシルエットと同じ形をした桜色の飾りが、浅葱の髪留めに付いていた。待宵から三駅先の立待駅にあるショッピングモールで、色々な店を回り、なんとなく彼女に似合うだろうと思って買ったものだ。
嬉しそうに僕を見る彼女から、目を逸らして答える。
「同じ、みたいだね」
「……もしかしてたまたまですか?」
「たまたまじゃない、って言った方が嬉しい? まぁ残念ながら、偶然なんだけどさ」
「えへへ……それでも嬉しいです。紫苑先輩とお揃いって考えたら、嬉しくなります」
甘い物の食べすぎでおかしな思考回路になっているのではと心配になるほど、甘ったるい吐息を浅葱が零した。こんなことで嬉しくなれるなんて、彼女の機嫌を取るのは簡単そうだ。
そんな捻くれた考え方をしてしまうのは、剥き出しの好意から目を逸らしたいからだった。
好意を向けられるのは慣れない。何をどう返せばいいのか分からなくて、結局見て見ぬフリをすることしか出来ずにいる。「そう」とだけ言葉を返し、間を埋めるようにコーヒーを飲む。
お互いそれほど話題が無く、度々沈黙が訪れていた。その度カップを手にしていたため、中身はもう無くなってしまった。カップの底を見つめたまま、思考を巡らせて話題になるものを探す。
「テスト、どうだった?」
「テストですか? 私はですね、クラス一位で学年四位でした!」
「……へぇ」
真面目だから成績優秀なのだろうとは思っていたが、学年で一桁の順位に入れるくらい勉強が出来るなんて予想もしていなかったから、驚嘆してしまう。目を丸くしていると、浅葱が澄ました顔でコップに口付けた。
「紫苑先輩、一番点数が高かった教科はなんでした? 数学ですか?」
「数学はまぁ九十は超えた。他は平均四十くらいかな。あ、そういえば現代文は一問間違えただけだったんだよね。記号問題全部勘でやったのに」
「えっ! すごいじゃないですか!」
「露の異称、三文字。なんだか分かる?」
「い、いきなり言われても、天才じゃないので分からないですよ……なんなんですか?」
「忘れちゃったから君に教えて欲しかったんだよ」
おかしいことを言ったつもりは無いが、浅葱が声を上げて笑う。その声が耳朶を打っても、楽しそうな響きは全く不快ではなかった。聞いていれば不思議と表情が緩む。口元に手を添えた彼女は、小さくなっていく笑い声をティーカップに零して、紅茶と一緒に喉に流し込んだ。
再び静まった中で、ソーサーに置かれたカップの音色がやけに大きく聞こえた。食器の音色と他の客の声だけが聴覚を刺激する中、僕は腕時計に視線を向ける。
「浅葱、時間大丈夫?」
言ってしまってから、もう少し他の話を振ることが出来なかったのか、と自分に呆れるあまり眉を顰めてしまう。待宵に来てから一時間経ったか経たないかという時間だというのに、こう言ってしまったら、早く帰りたいと思っているのではと誤解されかねない。
その誤解を生じさせる前にもう一言ほど付け加えようとしたが、その必要は無かったようで、破顔一笑したままの浅葱が縦に首を振った。
「はいっ! だって今日はパー……ぱ、ぱーっと! 朝まで! 楽しみますから!」
「……夜は、零時に東雲の家に来るよう言われてるんだけど」
「私もですよ! 待宵で沢山遊んだら、一緒に行きましょうっ」
東雲が僕を呼んだのは、偽物の月の世界が消えたこととなにか関係があるのかと思っていた。けれど浅葱も呼ばれているとなると別の理由があるように思える。わざわざ零時に呼び出すあたり、良識ある大人らしさが珍しく欠けている。
まぁ良いかと考えるのをやめ、浅葱に頷きながら、彼女の手元に目をやった。ティーカップの中身は空になっていた。テーブルの上には空いた皿とそのカップだけが並んでいる。
皿の傍に手を置いて、浅葱はふわりと髪を揺らしながら立ち上がった。
「先輩っ、どこに行きます?」
「どこでも良いよ、君が行きたい所なら」
悩むように小さく唸った浅葱の目が、窓の外をじっと見渡す。僕も考えた方がいいだろうかと思い、彼女と同じように窓から見える範囲の街並みを眺めた。既に日が落ちており、街灯がなければ真っ暗だったろう。そんな藍色の街の中で一際目を引く看板がカフェの向かい側にあったが、そこは次に行く場所の候補から外す。
しかし、浅葱はどうやらそこに興味を持ったようだ。
「じゃあ、ゲームセンターに行きたいです! この前久しぶりに行ったんですけど、私は何も取れなかったので……クレーンゲームをリベンジしたいなって!」
引き攣らせた微笑を顔に貼り付けたまま浅葱の方へ向き直ると、彼女はゲームセンターのネオンサインと同じくらい目を輝かせて、僕の返答を待っていた。
正直、騒音に塗れた建物の中に足を踏み入れるなんてしたくないが、どこでも良いと言った手前、そこはやめようなんて言えるはずも無く。渋面をなんとか表に出さないようにしながら席を立ち、鞄を手に取った。
「分かった。行こうか」
カフェを出て、嬉しそうにしている浅葱の手首を引っ張って横断歩道を渡り、ゲームセンターの前まで来る。まだ中に入ったわけでもないのに、建物内から音が溢れ出ていた。小さく息を吐いた後、浅葱の手を引きながら中に入る。
中学生の頃、友人と一緒に何度か行ったことがあるが、自分から進んで「行きたい」とは思えない所だ。今でもその思いは変わりそうにない。様々な音で溢れる中を浅葱と歩きながら、僕は僅かに眉を寄せていた。
けれども、「紫苑先輩!」と浅葱に呼ばれて、少しだけ低い位置にある彼女の笑顔を見下ろしたら、疲弊したような顔色はすぐにどこかへ行ってしまった。無邪気にはしゃぐ彼女を見て、その笑った顔が伝染する。口元に微笑を携えて、彼女の指差す方へ歩み寄った。
「あれ、取りたいです!」
浅葱が言っているあれとは、クレーンゲーム機の景品だ。抱き枕か、と思うほど大きい猫のぬいぐるみ。それを取るのは至難の業だと思われる。そもそも、取れたとしてどうやって持ち帰るつもりなのだろう。疑問は湧いて出たが、相当欲しいようなので何も言わないでおく。
挑戦している横顔とクレーンを交互に見る。それを繰り返して数分が経過し、浅葱が約十回目の挑戦を試みようとしていたから、僕は止めるようにその肩に手を置いた。
「諦めよう。君じゃ無理だ」
「なっ、なんでですか! 少し動きましたよ! もうすぐ取れますって!」
「無理だって。君、いいように金を取られているだけだよ。そんなに欲しいなら僕が能力で落としてあげるけど」
「それは駄目ですからね!?」
もちろん冗談で言ったつもりだが、冗談には聞こえなかったらしい。全力で僕を止めるためにか、思いきり腕に抱きつかれた。浅葱を引き剥がしてどかしながら、僕がクレーンゲーム機の前に立つ。
クレーンを操作して、猫のぬいぐるみの頭を持ち上げた。もちろんそのまま持ち上がって穴まで運ばれるわけもなく、アームから滑り落ちた頭の重さで倒れる。倒れたぬいぐるみは穴に近付き、ゆっくりと傾きながら落ちていった。
落とすまでもう少し時間がかかると思っていたから、気付かないうちに能力を使ってしまったのではないかと心配になる。落とすことが出来たぬいぐるみを手にして振り返ってみれば、浅葱が目を瞠って、阿呆みたいに口を開けていた。
「……浅葱、君ほんとに頑張ったんだね」
たまたま僕が落とせただけで、そもそもそれは穴の目の前まで近付けることが出来ていた浅葱のおかげだ。口元を緩めて、そのぬいぐるみを浅葱に差し出す。彼女が受け取ったのを見てから、初めに抱いた疑問を投げかけてみた。
「それ、どうやって持ち帰るつもり?」
「えっ? えっと、鞄……には入らないので、抱きしめて東雲さんの家に持っていって、東雲さんにプレゼントします」
「……は?」
彼女の顔面から一瞬だけ「しまった」という心情が見て取れた。下手な作り笑いを慌てて浮かべたところで、上手く笑えていないのだから繕えていない。それは自分でも分かったのか、ぬいぐるみを持ち上げて顔全体を隠してしまった。
「えっと、色々ありまして! 東雲さんの家のリビングにあった猫型クッションをクリーム塗れに……ってなんでもないです! つまりですね、お詫びの品、みたいな、ものです!」
「……あのさ、カフェにいた時から思ってたけど、何か隠してるよね?」
「隠し事なんてないです! あっ、紫苑先輩! クレープ食べに行きましょうクレープ! 美味しいんですよ!」
「ちょっ、まだ話は――」
ぬいぐるみを片腕で抱いた浅葱が、空いている方の手で僕の手を握る。そのまま歩を進め始める彼女が振り向かせた顔は、どこか子供っぽく、可憐な微笑みを湛えていた。そんな顔を見たら問い詰める気なんて失せる。絡められた指を解くことも出来なくなる。
冷たい手の平に、彼女の体温が伝わった。夜風に奪われることのない熱は、どこか心地良かった。




