月光2
◇
偽物の月の世界に招かれることは、なくなった。あの夜、私は一人で建物の影に隠れて、人兎が来ないことを願いながら震えていた。ずっとそうしているうちに、気付いたら元の世界に戻っていたのだ。
蘇芳ちゃんの心境に変化があったのか、それとも、誰かが蘇芳ちゃんを殺したのか。そんなことばかり考えてしまって、彼女が無事かどうかずっと気がかりだった。その答えを一番知っていそうな人物は甲斐崎さんだろうと思い、私は彼に聞こうともしたが、なんだか気まずくてメールを送ることさえ出来ずにいる。
未だに心配を抱えたまま、けれど誰にも聞けぬまま、時だけが過ぎていく。もう、あれから約三週間が経過していた。
中間テストが先週終わって、今週はそのテストが返却されて、特にすることもなく落ち着いた時期に入った。おかげで、今日は金曜日だというのに学校は休みだ。
私は待宵駅の改札前で、紫苑先輩を待っていた。時間を確認する為に手にしていた携帯電話を、肩に下げた茶色い鞄の中に仕舞い込む。
淡い緑色のふんわりとしたワンピースに、裾がフリルで縁取られた浅葱色のコートを着て、薄く化粧までしてきた。そんな姿を見れば、私が今日という日をどれほど楽しみにしていたか、同性にはすぐに分かってしまうだろう。しかし気合いの入れすぎでおかしくないか心配になってしまう。
待ち合わせ時間の一時間前に着いてそわそわしているなんて、馬鹿みたいだ。手持ち無沙汰なまま改札の方に背を向け、張られたガラスから外を覗き見る。薄暗くなっている街並みをぼんやりと眺めた。
テストが終わった日に、私は彼にメールを送ったのだ。来週の金曜日、一緒に待宵に行きたい、と。まさか、分かったと返してもらえるなんて思っていなくて、あの返信内容が見間違いではないかと何度も確認した。勿論間違いなんかではなかったが、本当に来てもらえるのかと不安になってしまう。なにしろ、今の彼は私のことを友達とすら思っていないはずなのだから。
それでも私は構わなかった。ここからまた関係を築いていけばいい。けれど、紫苑先輩が記憶を失ったあの日以来顔を会わせていないため、どんな顔をして会うべきか悩んでしまう。
ガラスにうっすらと映った自分の顔は、困り顔だった。流石にこの顔で彼の前に立つわけにはいかない。両手を頬に添えて、口角を上げるように軽く引っ張る。傍から見たらおかしな人だ。だけど、今日からやり直して行くために、こんな顔のままではいられない。やる気と元気を出すように頬を抓って振り返ると、ちょうど改札を抜けてきた彼の姿があった。
「……え」
お互いに固まってそんな声を漏らす。本当に来てくれたことへの嬉しさよりも、待ち合わせ時間の四十分前に来てくれたことに対する驚きの方が勝っていた。
紫苑先輩も私が既に着いているとは思わなかったのかもしれない。目を逸らせない私とは反対に、彼は視線を彷徨わせている。彼の目がなかなか私を捉えない間、私は彼を凝視し続けていた。
先輩の私服姿につい溜息が漏れる。黒のズボンに灰色のワイシャツ、それよりも暗い灰色のカーディガン。その胸元に兎のシルエットが刺繍されていて可愛らしい。羽織っているコートは綺麗な紫苑色をしているが、その色の名称を分かっていて着ているのだろうか。そうだとしたら、私と同じように自分の名前を気に入っているのかもしれない、と、共通点を見つけた気分になって勝手に嬉しくなっていた。
そのお洒落な格好は普段通りなのか、私のように少しでも気合を入れてきてくれたのか――なんてことを考えてしまってから、きっと前者だと結論付けた。
ふと顔を上げると、ようやく私の方を見てくれた紫苑先輩と目が合ったため、挨拶をしようとした。しかし声を発したのは先輩が先だった。
「ごめん、遅くなった」
「いっ、いえ! 待ち合わせ時間まだですから! 私が馬鹿みたいに早く来過ぎただけですから謝らないで下さい!」
「……じゃあ謝罪はしない代わりに言うけど、本当馬鹿なんじゃないの。僕が待ち合わせ時間通りに来ていたら君は一時間近く待つことになったんだよ? その間立ったまま待ってるとか足疲れるでしょ。まったく、何のための待ち合わせ時間なんだか」
呆れたと言いたげに細められた瞳は、冷たくはない。あの日、私を明らかに拒絶していた表情はもうそこにはなかった。私の思い出の中にいる彼と同じ顔色をしているから、期待したくなってしまう。
思わず、思い出してくれたのかどうか問いかけそうになり、慌てて口元を押さえた。聞かない方がお互い良いかもしれない。そんな思いから、期待も問いも嚥下する。
「気分悪い?」
「へ?」
紫苑先輩に顔を覗き込まれて、心臓が騒ぎ出す。おかげで停止しかけた思考を働かせて、なんとか彼の言葉の意味に見当を付けた。はっとして、口から離した手を大丈夫だと証すように振ってみせる。
「っ全然! そんなことはないです!」
「なら良いんだけど……無理してない?」
「してませんよ! 紫苑先輩と久しぶりに会えて、これから二人で甘い物を食べられるんですから! 嬉しいに決まってるじゃないですか!」
「……そっか。じゃあ、行こう」
はい、と返事をしようとしたが、紫苑先輩が私の手を優しく握って引いてくれたから、一瞬息が止まるほど動揺してしまった。そのまま歩き始めた先輩の横に並んで、彼の手の冷たさのせいで赤くなってしまった顔を俯かせる。伝わる温度は、緊張で熱を帯びている私の手の平とは対照的だ。私と違って、彼はこの行為をなんとも思っていないのだろう。
デートみたいだ、なんて思い上がってしまいそうな自分を鎮めるため、手を解こうとした。しかしそれは叶わず、むしろ強めに握られてしまって目を瞠る。
隣を歩く紫苑先輩を上目遣いで見てみたら、視線に気付いたのか、彼は私を一瞥して前方に向き直った。
「店に入るまでは我慢して。君、人の波に流されるか、食べ物の匂いにつられて勝手にどこかへ行きそうだから」
どうやら、私が何故紫苑先輩を見たのかさえも気付かれていたらしい。先輩の言う通り、人の波に流されてしまうことはあるかもしれないけれど、食べ物につられることは無い、と思う。
帰宅する人が多い夕方だから、駅を出ても通行人が多い。確かに、手を離したらはぐれてしまうかもしれない。
駅に背を向け、歩道を真っ直ぐ歩いていく。今向かっているのは、ここから徒歩十五分くらいの所にあるカフェだ。蘇芳ちゃんのオススメのお店らしく、以前彼女が紫苑先輩と二人で行っていた場所。紫苑先輩が記憶を失う前、電話で私に言ったお店はそこのことだと思われる。もちろん、今の彼は私との電話の内容なんて覚えていないはずだ。私がそのお店に行きたいと言わなければ、別のお店に向かっていたかもしれない。
彼に、何かを思い出して欲しいという気持ちも少しだけある。思い出してくれなくても構わない。そう強がってみても、やはり悲しさは消えないものだ。
「浅葱」
大きく肩が跳ね上がってしまった。紫苑先輩が記憶を失う前のことばかり考えていたせいで、彼の口から、彼の声で『浅葱』と私の名が飛び出したことに、目が潤む。
駅を出てから一言も会話をしていなかったのは、私が何を話せば良いのか分からなかったからだ。そのせいで生じてしまっていた沈黙は、紫苑先輩が綺麗な声で攫った。
「――って……あのさ、本当に大丈夫?」
「え、っと、目にゴミが入っただけですっ!」
「……へぇ」
私の前髪に、そっと彼の手が触れた。泣きそうな顔なんて見られたくないのに、彼は優しく髪をかき分ける。ぎゅっと、潤んだ瞳を瞼の裏に隠した。
紫苑先輩の手が離れて行ったのを感じて、ゆっくりと目を開ける。前髪が視界に入らないことを不思議に思って、片手を持ち上げた。髪を撫でるように動かした指先に当たったのは、恐らくヘアピンだ。
丸めた目で彼を見上げると、視線が絡んだ直後に彼は背を向けてしまった。
「それ、あげるよ。好みじゃなかったら付けなくても良いけど」
「いっ、いえ! ありがたく頂戴します!」
「涙、引っ込んだ?」
「あ、えと……はいっ」
どんな形をしているヘアピンなのか気になって、それに触れながら肯定してみせたら、紫苑先輩が振り向く。私から顔を背けたのは気を遣ってのことだったのだろう。
彼の真剣な顔つきは見慣れているけれど、夕陽に淡い影を落とされた美貌はいつも以上に綺麗だ。息を止めてしまう程の雰囲気に呑まれ、その唇から言葉が漏れるまで瞬きすら忘れていた。
「君に言いたいことなんて沢山あるけど、今、これだけは言わせて」
柔らかで、だけどどこか寂しさを感じさせる語調に、自然と首が縦に動く。心臓が高鳴っているせいでぎこちなくなってしまった首肯を受けて、彼は微笑した。
「僕は、君の知っている僕じゃないかもしれない。けど、記憶は無くなっていても、君に抱いていた思いや好意は残ってる、と思う。そうじゃなかったら、初対面同然の君にこうして会おうなんて思わなかっただろうし、そもそも君に笑いかけなかっただろうし、一言も言葉を交わさなかったはずなんだ。僕の性格は変わっていないから」
通り過ぎて行く人達が、道の端に立ち止まったままの私達を横目で見ていく。その視線に何かを思うことすら出来ないくらい、今の意識は目の前の紫苑先輩の声だけに引き付けられていた。車の音や話し声、草木や風の音などが合わさった街の音色に、彼の声は掻き消されてしまいそうな儚さを孕んでいる。けれど紡がれる透明な響きは、雑音に溶けてしまう前にちゃんと耳に届いていた。
「だけど、君から待宵に行きたいと言われた時……考えもせずに返事を送っていたよ。なにがそうさせるのかなんて、悩まずとも分かる。記憶を失う前の僕が残した思いに、無意識の内に動かされてるんだろうな、って」
切なさと嬉しさが、胸の内で混ざり合う。胸を締め付けるような感情の塊が喉を覆っていて、相槌を打つことすら出来ない。私がなにも言わないままでも、彼は優しく語り続けた。
「そう思ったらさ、笑いが込み上げてきたんだ。君が知ってる『僕』は、宮下浅葱にこれほどまでの好意を抱いていたのかって、笑っちゃった。友達なんていらないとか言って他人を突き放してたくせに、記憶を失ってまで執着するとか滑稽だ」
まるで他人のことを語るように話す姿を見ていたら、本当に他人なのではと思ってしまいそうになる。その話を聞いていると、やはり忘れて欲しくなかったという気持ちが目の奥に熱を帯びさせる。
歪んだ視界の中で、紫苑先輩がどんな顔をしているか見えない。微笑んでいるのだろうなと思ったら悔しくなる。向けてもらえている微笑みを見せてくれない涙なんて、風で乾いてくれればいいのに。
「でも、だからこそ、かな。記憶を失う前の僕が羨ましくなった。そんな気持ちを抱けるほどの友達が傍にいたなんて、同じ僕なのに、ずるいんだよ」
照れくささを笑い飛ばすような言い方に、私も笑みが零れてしまう。零れたのは笑みだけではなかった。浮かべた笑顔に涙が伝う。
目を擦った。落ち着こうと思って僅かに開いた唇からは、感情が嗚咽として溢れた。鮮明になった視界で見えた紫苑先輩の顔は、初対面時、友達になってくれた時の微笑を彷彿とさせる。その表情に見惚れていると、彼は僅かに目を泳がせた後、私を真っ直ぐ見つめた。
「――浅葱。今の僕とも、友達になって欲しいんだ」
「言われなくても、私の中で紫苑先輩は、友達です。大切な……友達、ですから」
間髪入れずに返答していた。けれど、友達、と口に出してからだんだんと息が詰まっていく。友達でしかなかったことも、友達でしかないこともよく理解しているつもりだ。それでも、今全てを吐き出して、求めたくなる。
言える時に言っておかないと、伝える機会を逃してしまう可能性がある。だが今はまだ、口にしたくなかった。溢れそうになる思いを押し留めたくて、右肩に下げている鞄を軽く抱いた。
「でも、私も今日、話したいことがあるんです。まだ、言う勇気が、出ないので……もう少しだけ待って下さい」
「分かった。それと、ありがとう。……行こうか」
「はいっ」
次話は明日更新します。




