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水月鏡花4

「……え?」


 なんとか搾り出したような短い声は、涙の音色みたいに痛ましくて、しかし綺麗だった。


 冷静になろうとしなくても彼女の顔を見ていれば、彼女の声を聞いていれば、自然と心は鎮まっていく。


「一人で生きていけなんて、誰も言ってない。人間なんて欠陥だらけで、一人じゃ何も出来ない弱い生き物だ。どれだけ自分は強いって思い込んでも、一人で大丈夫だって信じ込んでも、一人ぼっちじゃ前に進む事だってままならないんだよ」


 蘇芳に聞かせているようで、それは自分自身に言い聞かせているようでもあった。彼女の心へ届けたい言葉は、自分の胸を締め付ける。僕も彼女と同じで、孤独な弱さを強がりで隠し切れなかった、人間だから。


 きっと、この世界での出会いがなかったら、僕は人生なんてものになんの希望も抱くことなく、己の心の成長をとどめたまま、向き合うべきモノとも向き合わないまま、のうのうと終わりまで歩んで行ったのだろう。


 拒まれるから能力を知られることを恐れ、一人で生きていこうとした。


 こんな能力なんてなければ良かったと嘆いて、けれども時にはそんな力に縋って、普通になりきれない生き方しか出来なくて。人と関わることをいつしか諦めていた。


 人とは違う。だから、一人でも生きていける。どこかでそんな風に考えていたのかもしれない。


 けれど、人と違うのは能力が使えるという点だけだ。どうやったって、化け物と呼ばれたって、怯えられたって、心は人となにも変わらない。誰に否定されても己では否定しようがないほどに、僕達は人間でしかなかった。


 心がもっと強くなれば、能力者でもない人とも積極的に関われるようになるのだろう。だけど孤独で強くなることなんて、そう簡単には出来やしない。だから、孤独から抜け出すために足を前へ踏み出す。それが一人ぼっちだった僕達に出来る第一歩。傷の舐め合いと思われたって構わない。そこから前へ前へと進んでいければ、それでいい。


 ぎこちない歩き方だったとしても、例え転んだとしても、前へ進もうと足掻きもしないよりは良いだろう。そうして先へ進んで、振り返って自分の過去を笑えばいい。僕達は人間らしく生きてきたんだ、と、誇れるように。


 そんな風に思い描いた未来の中で、蘇芳も笑っていてほしいと思う。本物の世界で、本物の居場所で。


「だから――僕がその手を引いてやるって言ってるんだ。僕が偽物なんかじゃない居場所をくれてやるって、そう言ってるんだよ」


「呉羽先輩……あたしを、救ってくれるんですか?」


「君を救うのは君自身だ。君が自分で自分を救えばいい。自分を救える道を、君が選んで」


 何故、と言いたげに揺れる彼女の虹彩が、僕の手をじっと映していた。指先に注がれる不安はありありと伝わってくる。僕を信じられないから生じる不安ではない。自分が救われて良いのか、という葛藤から生じる不安だろう。助けてと瞳の奥で叫ぶのに、口では拒絶と死にたい思いばかりを溢れさせていたから、そう推察出来る。


 夜風が、彼女の綺麗な髪を揺らした。震えた吐息を風に運ばせた彼女は、小さく掠れた問いを零した。


「どうして、そこまでしてくれるの……? あたしは、呉羽先輩を傷付けたのに」


「友達だと思っているからね」


 悩むことなく答えてみせたら、彼女は俯いてしまった。おかげでどんな顔を浮かべて僕の言葉を受けてくれているか分からない。その顔を上げさせたくて、真っ直ぐこちらを見て欲しくて、僕は続けた。


「誰だって、無意識のうちに誰かを傷付けてしまうから、君がしたことは仕方のないことなんだよ。けど他人に付けた傷を見て傷付くことが出来るんだから、君は優しい。そんな君と、友達でいたいんだ」


 仮面を剥がす、というのは、多分こういうことだと思う。自分に正直になって、本当の思いを口にする。誰かに伝わって欲しい思いがなければ、僕は仮面を剥がせなかっただろう。


 けれど今剥がした虚勢は、後になってまた繕うはずだ。本心を隠して、平静を装って、強がる。それでも今は、隠すことも装うこともしていられない。


 本当に伝えたいことは、遠回しにではなく真っ向からぶつけなければならなかった。


 普段の僕らしくない心からの言葉を、微笑と共に深まる夜へ溶かしていく。


「僕は、君の優しい所もそうじゃない所も、全部否定しないで受け入れる。君が道を間違えたなら引き止めてやりたい。君が助けてと叫ぶなら、駆けつけてみせる。――そういうものでしょ? 友達って」


 柔らかく細めた瞳の先で、蘇芳が顔を上げた。歪められた唇を噛み締めているのは恐らく、震えを誤魔化したいからだ。溜まったままだった涙は、留めるものがなくなったみたいにゆっくりと落ちていた。彼女の心を覆っていた氷は、きっと砕け始めている。淡い月光を映して煌きながら零れていく雫が、その様子を表しているようだった。


 伸ばしていた手をほんの少しだけ持ち上げる。おいで――そう呼びかけるように、口元を綻ばせた。


「蘇芳、君の居場所を、君が決めてよ。どこに行くのにも資格なんていらないから、好きなようにその手を伸ばしていい。君が笑っていられるのは、どこ?」


 問いかけは、蘇芳を再び俯かせた。落涙し続けている彼女の足元に、雫が染みを作る。


 どれくらいの時間が流れたのだろう。返答を待ちきれなくなって、促すように口を開くかどうか悩み始めた頃に、ようやく蘇芳が面を上げた。


「……呉羽先輩は、あたしから、離れていきませんか?」


「生憎、一度繋いだ縁を自分で切るのは苦手なんだ」


 僕の微笑を見ても、彼女は泣き顔を酷くさせるばかりで笑ってはくれない。止まることを知らない涙を、拭ってやりたかった。向日葵のような笑顔を咲かせる彼女に、涙なんて似合わない。孤独な夜だって、似合わない。


 太陽は眩しすぎてあまり好きではないが、その下で友達が咲かせる眩しい笑顔は、嫌いではなかった。


 僕が自然に笑っていられるように、僕がつられて泣いてしまう前に、よく似合う眩しい笑顔を見せて欲しい。


 歪みかけてきた口元でなんとか弧を描き続けながら、彼女の問いを受け止めた。


「呉羽先輩は、あたしを、捨てませんか?」


「そもそも捨て方を知らないし、知りたくもない」


 蘇芳は、しゃくり上げて嗚咽を漏らし始める。ひどく震えた声で、ひどく掠れた声で泣きながら、一歩前へ足を踏み出した。


「っ、ずっと、あたしの友達で、いてくれますか?」


「僕が友達でいることを許してくれるのなら、もちろん」


 優しい声をかけたつもりだ。僕が今どんな顔をしているか、どんな声を投げかけているか自分では分からない。蘇芳の痛みを少しでも和らげることが出来るような、柔らかな声を出せていれば良い。冷たく傷付けてしまっていないか心配になってくる。


 けれどその心配は、余計なものだったようだ。彼女は偽物の月の光から遠ざかるように僕の方へ駆け出した。


 短い距離を駆けた彼女を抱き留める前に、抱きしめられた。


 僕にしがみついたまま、蘇芳は僕を見上げる。ぼろぼろに崩れた顔だったが、潤んだ瞳は揺らぐことなく真っ直ぐに僕を映していた。


「約束、してください。あたしの友達でいてくれるって、約束してください」


 やり場がなくなって下ろしていた僕の右手に、蘇芳の手が触れる。彼女の意図を汲み取れたから、彼女の手を持ち上げながらそっと体を離した。視界に入る位置まで持ち上がった手を見つめつつ、彼女は小指以外の指を折り畳んだ。僕はその小指に、自分の小指を絡める。約束の証をその目でしかと確かめさせるように、指をぎゅっと丸めた。


「約束だ。これが破られたら、僕を殺すなり好きにするといいよ」


 指は、離れて行く。けれど彼女の小指から伝ったその微かな熱は、確かに残っていた。


 蘇芳は指切りをした手を自分の胸元に寄せて、もう一方の手を重ねていた。約束の証を心の奥にまで残そうとしているみたいで、僕は思わず微笑を落とす。大切な宝物を手に入れた子供みたいな顔をされたら、誰だって破顔してしまうだろう。


「もう二度と、出来ません。呉羽先輩が亡くなるところ、もう二度と、見たくないです」


「じゃあ、君より先には死ねないな」


「死んだら、許しませんから」


「分かってる」


 やっと、安心してくれたみたいだった。蘇芳は今、とても綺麗に笑っていた。ステップを踏むように僕から離れて、月明かりの濃い方へと舞い戻る。


 踊るような靴の音が夜空に吸い込まれていく。彼女は偽物の月を見上げて、僕に背を向けたまま明るい声を響かせた。


「呉羽先輩。また明日、です」


「時間はまだだよ?」


「なに言ってるんですか。偽物の世界なんてもういらないんでしょう? あたしは、踏み出さなきゃいけないんでしょう? だから、もう、壊します」


 振り向いた彼女は、もう泣き止んでいた。とはいえ涙腺は緩んだままのようで、またすぐに泣き出してしまいそうな顔をしている。


「ありがとうございました。あたしを、前に引っ張ってくれて」


 それでもなんとか笑顔を作った蘇芳が、小さく頭を下げる。僕は首を左右に振ってみせた。


「君が自分で進んだんだよ。だからお礼なんていらない」


「でも」


「蘇芳、頑張ったね」


「えっ……」


 目を丸くした蘇芳は、この言葉をずっと求めていたのかもしれない。そう思ってしまうくらい、今の一言は胸を打ったようだ。恐らく堪えていたのであろう涙は、また溢れて流れ出す。


 何かを、誰かに認めてもらいたかったのだと思う。小さな努力でも、見てもらえないことは辛いだろう。多くの人は、家族がいて、友達がいて、そんな人達に『自分』を認めてもらえている。だけど、蘇芳はそうじゃなかったはずだ。彼女をしかと見てくれる人は、居てくれなかった。


「こんな、こんなの、頑張ったなんて言えないですよ」


「何言ってるの。自分で認めてあげなよ」


 小さな息を吐き出すと、今まで無意識の内に張っていた気が削がれた。普段通りに毒を吐きそうになって、手を握り締める。月白の刀を掴んだ時に出来た傷が痛んで、なんとか言葉を飲み込めた。


 沈黙にすすり泣く声だけが響いていて、気まずくなった僕は夜空を見上げた。そこにあるのは偽物の月と星屑だけだ。星をいくら数えて待っても、彼女は泣き止んでくれないような気がした。


 だからか、気付けば僕は沈黙を取り去っていた。


「前に進むのってさ、勇気がいることだから。でも君はちゃんと自分で前に進めた。やれば出来るじゃないか」


「……あたし、もっと、進んで行けると思います?」


「行けるよ。それにもし君が道に迷っても、僕が引いてやるって言ったでしょ」


 今笑っている僕の瞳は、きっと、冷たい絵の具で塗られてはいないと思う。そうであればいい。もし僕の中の弱さが未だに暗い色を落としていたとしても、月光で霞んでいたら良い。


 そうでなかったら、夜色よりも美しく笑っている蘇芳に申し訳がなかった。


 蘇芳は涙を拭おうと持ち上げた手を、顔に近付けただけで触れることなく下ろした。小さな声で僕に礼を言うと、彼女は儚い幻のような綺麗な笑みを浮かべていた。それは紛れもない、本当の笑顔だ。


「今度また、一緒に美味しいものを食べに行きましょう。甲斐崎とか宮下センパイも誘って、みんなで」


「そうだね。……それじゃ、また明日」


「はいっ」


 微笑んだ彼女と僕を、月光が淡く照らす。


 もうこの景色を見ることはない。そう思ったら、視線が自然と窓の外へ向いていた。描かれたような偽物の月は、本物の光を纏って夜を彩っている。その輝きを瞳に宿して、ゆっくりと目を伏せた。


 協力者達と出会った時の事、この世界での出来事を、瞼の裏に映して思い返していた。忘れたくない、大切な思い出の欠片。今度はもう二度とそれを手放さない。


 ふと脳裏を過ぎったのは、白いカーネーションだ。それを受け取って微笑む誰かの声が、耳の奥で残響みたいに聞こえてきていた。


 ――そこまで言われたら、私、傍にいますよ。先輩の前から、いなくなりません。


 聞き覚えのある声。聞き覚えのある言葉。目を開けばその『誰か』の姿を見られる気がして、瞼を持ち上げていた。


 視界に広がるのは、見慣れた自分の部屋だった。風の音を聞いていたはずなのに、気付くと、聴覚を刺激する音は聞き慣れた秒針の音色に変わっていた。確かめるようにカーテンを引いて、窓の外を覗き込む。


 夜空に浮かんでいる本物の月。当たり前の夜景に不思議と空虚感を覚え、苦笑が零れた。


 偽物の夜の帳は、もう下ろされないだろう。


水月鏡花(すいげつきょうか)

【意味】儚い幻。又は、目には見えるが、手に取ることのできないもののたとえ。


皆様、読んで下さりありがとうございます。唐突に後書きを書きましたが、まだ完結ではありません。ご安心(?)下さい。

この作品は全十五章(恐らく残り四話)で完結になる予定です。失速することなく、この作品らしい終わりを書けたらなと思っていますので、もう少しお付き合いいただければ幸いです。

次回更新は一ヶ月後くらいになります。早まることはあるかもしれませんが、遅れることはありません。今後ともよろしくお願い致します。

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