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水月鏡花3

 僕の言葉に、強気そうに眉を吊り上げる。弱さを見せないような、意思の固さを見せ付けるようなそれが、強がりだと気付かないわけがなかった。その瞳が今にも泣き出しそうに揺れていたから。


「出てってください」


「……ごめん。君、本当に僕が好きだったんだね」


 普段よりも低めの声で拒絶された僕は、苦笑して謝罪した。脳裏を掠めるのはあの夜の記憶。僕への気持ちが確かなのだと訴えていた表情。あの慟哭も全て、僕への好意が本物だという証だった。


 それを思えば思うほど申し訳ない気持ちは湧き上がり、過去の自分の行いを咎めたくなるが、あの時はああする他に方法がなかったのだ。思考を巡らせていたら、彼女の叫びが鼓膜を刺した。


「過去形にしないでよ。あたしは! まだ好きなのに!!」


「うん、だからごめん。その手で僕を殺させたこと、申し訳ないと思ってる」


「……っ」


 もう一度、小さくごめんと呟いて俯く。頭を下げたいくらいの申し訳なさが胸の内に蔓延っているが、そんなことをしても彼女の気は治まらないだろうし、気を立たせてしまうかもしれない。過度な謝罪は相手に不快感を抱かせるか、謝らせていることへの申し訳なさを覚えさせてしまうものだ。だからこれ以上の謝罪は紡がない。


 僕は顔を上げて、真剣な瞳で彼女を射抜く。敵意を向けたつもりはないが、鋭く細めてしまったせいか、彼女は怯むように小さく肩を震わせていた。これ以上怯えさせたくはないため、声色に棘は混ぜなかった。


「けどさ、それで分かったよね。目の前で菖蒲が死んで、どれだけ辛かったか。どれだけ、痛かったか。……君も、痛かっただろう?」


 これは質問じゃない。僕はこの答えを知っている。僕を刺した彼女の痛みはきっと、刺された胸に宿った痛みと同じくらいだ。それ以上、とも考えられる。物理的な痛みと心理的な痛みは比べられないうえ、他人の痛みなど推し量ることすら出来ないが、彼女が痛みを感じていたことは確かだ。


 思うに人間は、心が痛んでどうしようもなくなって、自分を責めてしまった時にあんな顔を浮かべるのだろう。そしてその悲痛な表情は、見た人の胸を刺す。


 今も、強がりの裏にその顔を浮かべているのだと思う。時折垣間見える壊れそうな表情は、僕の胸を掻き乱そうとしていた。


 不満げに歪んでいた彼女の唇が、ゆっくりと開かれていく。


「うるさい。だからなんなの……なんなのよ! 呉羽先輩も宮下センパイも甲斐崎も東雲さんも! なんなのよ! 結局あたしから解放されたいだけのくせに、あたしを救いたいとか嘘ばっか!! 救ってくれないくせに! 助けてくれないくせに!! あたしを……っ、一人にするくせに……!」


 室内に響き渡って空気を震わせる叫声。それは怒声というには弱く掠れていて、悲鳴にしか聞こえなかった。


 震えるその体を抱きしめたなら、彼女は落ち着いてくれるだろうか。閉ざした心を開いて、他人の言葉を素直に受け止めてくれるようになるだろうか。


 そう思えど、しかし行動には移さない。彼女が言葉で伝えてくれているのだから、僕も、言葉で伝える。人の心を開くのは、それに対応した思いだ。行動で示すのも言葉で示すのも苦手だけれど、今は彼女に伝えたいことが沢山あった。言葉でなければ伝わらない思いだってこの世には沢山ある。行動で示すのなら、言葉で伝えきったその後だ。


 格子が嵌められた窓から、風が舞い込んでくる。冷たいそれを小さく吸い込んで、冷静に微笑するようにふっと熱を吐き出した。


「人ってさ、自分勝手なんだよ。だから君みたいにこんな世界を造る人もいれば、こんな茶番に付き合うのが嫌だから壊したいと思う人もいる。君を救う救わないに関係なく、ただ日常に戻りたいだけの人もいる。僕はどういう人だと思う?」


「……わかんないわよ」


「そっか。……そうだよね」


 蘇芳と過ごした時間を、頭の中で思い出していた。そうしていると自然と笑みが零れてしまう。彼女がどう思って僕と過ごしていたのかは分からないけれど、自分の気持ちは分かる。


 友達という言葉すら嫌いだった時期もあった。だけど、それは孤独だったからだ。


 今の僕なら、素直に受け入れられる。蘇芳が――協力者達が、友達なのだと。


 利己的なこの手で身勝手な救いを押し付けて、関係を破綻させるのは二度と御免だった。もう選択を間違えたりしない。感情に流され、激情に呑まれたりはしない。正義のヒーローを気取るつもりなんてない。僕はただの人間で、僕以外にはなれないから、今の僕に出来ることを余すことなくやり尽くす。


 ――蘇芳。これが僕の答えだ。


 作り笑いなんかじゃない自然な笑顔を、彼女へ向けてみせた。


「僕は――ただ、普通の世界でみんなと過ごしていたいだけだよ。もちろん、君とも」


「嘘。嘘よ。どうせ一緒にいる意味がなくなったら捨てるのに。やめてよ。捨てるなら始めから優しくしないでよ!!」


「僕は捨てない」


 叫びの余韻に被せた声は、蘇芳に息を飲ませる。信じられないと言いたげな彼女の瞳孔を貫いたまま、その視線を引き付けたまま、しかと思いをぶつける。


「この世界が壊れても、ここであったことを僕は忘れたくない。君や枯葉と友達になれて、柄にもなく嬉しいとか思った。ずっと繕ってきたものが剥がされていくように感じた。僕が、僕らしくなれていっているように、思えたんだ」


 そこまで言ってもなお、信じたい気持ちと信じたくない気持ちの狭間で唇を震わせている彼女を見ていると、奥歯を噛み締めたくなる。人の思いが信じられなくなるほどの深い傷を負わせた悪意に、柄にもなく報復したくなる。


 気付かれないように握り締めた拳から、そっと力を緩めた。


 心無い悪意で、簡単に人は傷付く。心の傷を癒すのは容易じゃない。けれど、心から友を思う気持ちで、傷として巣食った悪意を覆えないなんて思いたくはない。彼女の心の痛みを時間が拭い去ってくれないのなら、取り去らせてみせる。


 蘇芳の瞳を、水の膜が覆っていた。雫が零れて月影がそれを照らしたように見えたのは、気のせいだったろうか。そう思ってしまうくらい、彼女は強がっている。僕をまだ拒絶しようとする。その拒絶の顔から僅かに覗いた弱さは、幻ではない。僕は、彼女の弱さを知っている。


 知っているから、彼女の慟哭から目を逸らしはしない。


 淡い月の光に目を細めて、唇で弧を描いた。


「だから僕は、僕を思い出させてくれたこの世界の出来事の記憶を、この世界での出会いを、これ以上失いたくない」


「もう、黙って!」


「黙ると思う? 残念ながら饒舌なくらい口が回る時がたまにあってね。それが今なんだ」


「るさい……うるさいうるさい!!」


 彼女はきっと、もう限界が来ている。繕い続けても、仮面なんていつかは壊れるものだ。優しい彼女の仮面は初めから脆かった。泣かないように、泣かないようにと裏側でずっと泣き続け、仮面は更に脆くなっていったのだと思う。他人の感情という熱で、脆いそれはどんどん欠けていく。


 もっと、壊せばいい。自分を隠す必要なんてない。その身と心が壊れる前に、堰を切ってしまえばいい。


 より決壊させるために、伝わりきっていない思いを全て伝えるために、僕はまだ口を閉ざしてはいけなかった。


「蘇芳。僕は、友達として君の傍にいたいと思うよ」


「黙れって言ってんでしょ!!」


「黙らないって言ってるだろ。いつまで自分の造った檻に閉じこもっているつもりだよ。いつまで、偽物の道で立ち止まってるつもりだ」


 先ほどまでよりも幾許か低く響かせた声は、鋭さまでも帯びていたようで、蘇芳は悲鳴を飲み込むように呼吸を止めていた。その顔から指先までがぴたりと動きを止めたのは一瞬のことだ。


 弱々しく首を左右に振った彼女は、僕達を包んだ静寂を、すぐさま嘆きで出鱈目に切り払った。


「誰も受け入れてくれないなら、受け入れてもらえる世界にいるしかないじゃない!! それのなにがいけないの!? 偽物のなにがいけないのよ!? 本当の世界は、いるだけで壊れそうになるのよ! あんなところいたくない! 帰りたくない!! 本当は、ずっと、ここにいたいのに!!」


「じゃあ一人で閉じこもっていればよかっただろ。それでも僕達を招いたのは、同じ能力者なら分かり合えるかもしれないって思ったからだよね。僕を解放しなかったのは、檻を壊してくれるかもしれないって、期待したからだよね」


「違う」


「どうかな。『ウサギ』は寂しいと死んじゃうんでしょ?」


「違う!!」


 細く鋭い否定は針に似ていた。けれどそれに突き刺された程度で顔を顰めることは出来ない。


 彼女の悲哀を、痛みを受け止めたい。だが分かったような気になりたくはなかった。その痛みを全て理解した気になって表情を歪めたくなかった。


 僕は彼女の悲しみに微笑を投げかける。静かに、彼女の否定を肯定する。


「そうだったね。君はウサギなんかじゃない」


「……は?」


「蘇芳、自分で自分を縛るのはいい加減やめなよ。泣きたければ泣けばいい。口にしたいことは全部口に出していい。堪える必要なんてない。君は人間なんだから」


 革靴が二度音を響かせただけで、彼女のか細い肩は跳ねていた。だから、近付くことをやめて立ち止まる。詰められた距離を開くべく彼女は後退するが、その背はすぐに壁へぶつかった。


「っ、来ないでよ」


「ああ、これ以上は行かない。僕からは、行かないよ。だから――その檻から出たいと思ったら、この手を取ってくれる?」


 傷を負っていない方の手を、そっと出した。蘇芳が目を見張ってその手を見つめる。簡単に取ってくれるとは思っていなかった。それゆえ、彼女が僕に向けて放つ言葉は予想することが出来ていた。


「馬鹿じゃないの。取るわけないでしょ」


 こう返されるということは、まだ彼女の心に触れることが出来ていないということ。その心を覆う氷を溶かせていないということ。けれど僕は、それを溶かせると確信しているからこそ言葉を続ける。


 良心や優しさが残っている限り、人は何度だってやり直せると思う。蘇芳が自分を『ウサギ』だと認めたあの日、彼女は「もう遅い」と言った。僕の傍にいたいなんて、望みたくとも望めない、そうも言っていた。


 彼女が自分で望むことを恐れるなら、変わることを恐れるなら、こちらから手を差し伸べるまでだ。


「蘇芳、僕も君と同じだ」


「なんの、話よ」


 聡明な彼女は、心のどこかでこの手の意味を理解していると思う。僕が偽りなんかじゃない心からの思いをぶつけていることも、理解しているはずだ。なおも目を逸らして、自分の檻に閉じこもったままでいようとする彼女をひたすらに凝望した。


「あの世界は、能力者にとって生き辛い。けどさ、だからって、逃げていても何も変わらない。能力者だったとしても僕達は――人間なんだよ。普通の、人間なんだ。現実と向き合って生きていかなければならない。逃げているだけじゃ、生きているなんて言えない。立ち止まったままじゃ、どこにも行けない」


「っじゃあ、どうしろっていうのよ!」


「――この手を取れって言ってるだろ!」


 伝われ。伝われ。そう念じるほど、語調が強くなってしまう。思わず声を荒げてしまったことにはっとしたが、発言に取り返しはつかない。取り乱したことを後悔したものの、蘇芳は怯えるでもなく拒絶の色を強めるでもなく、ただ、泣き崩れそうなほどに崩れた表情のまま固まっていた。


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