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屋梁落月5

     ◆


 零時ちょうどを告げた針の音を聞き、窓の外に目をやる。そこから見える景色は、いつもと変わらない。濃藍の空に浮かんでいる月も、いつも通りの満月だった。それを見てここが偽物の月の世界だと確信し、僕は家を出る。


 一秒でも早く三日駅へ向かいたくて、駆け出した。冷たい風が、空気が、心地良かった。感情的になってしまいそうな僕を、冷静にさせてくれる。闃寂に、自分の呼吸音と靴の音が五月蝿く響いている。けれどそんな音にばかり耳を傾けてはいられない。


 風が上げた悲鳴に思わず足を止める。銀色の刃が僕の眼前を通り抜けていった。眉を寄せて左方に目をやると、包丁を片手に握っている人兎がこちらへ歩いてきていた。応戦するためバタフライナイフを取り出そうとするも、ポケットの中に突っ込んだ手は何も掴めない。ナイフを枯葉に預けたままだったことを思い出し、慌てて戦闘方法を切り替える。


 放たれた弾丸みたいな速さで距離を詰めた人兎に、手を向けた。空気を握り潰しながら静かな叫声を放つ。


「〈歪め〉」


 人兎が振るった刃は僕を裂くことが出来たのだろうか。視界を満たすほどの夥しい血液が散っていて、それが人兎の血なのか僕の血なのか分からなくなる。


 数秒経っても痛みがやって来ないため、僕の手と頬に塗られた血液は全て返り血だと判断した。足元に出来た深緋こきひの水溜りを一瞥してから、再び駆け出す。手を伸ばせば触れられる距離で潰したことを後悔しながら、しかしどうしようもないため気にせず走ることしか出来ない。


 血に塗れた姿で蘇芳のもとに行きたくないと思ったし、血で汚れた手を彼女に伸ばしたくないと思ってしまう。この血が乾いて固まればきっと蘇芳色になる。血液を表す色と同じ名を与えられた彼女は、その色が塗られた僕を見たいなんて思わないだろう。確実に嫌なことを思い出させてしまうなと考えながら馳せて、この赤を誤魔化す術を見つけられないまま、気付けば三日駅の前まで来てしまっていた。


 三日駅の傍に、高い塔が建っていた。見覚えがある。消えかける意識の中で、確かにそれを見た覚えがある。


 この塔の上に蘇芳がいるのかと思えば、わけも分からず胸が締め付けられる。孤独に泣いて救いを叫んだ彼女の寂寥感を想像しただけで、己を呪いたくなる。檻から引っ張り出すつもりだったというのに、彼女は檻の中に檻を創った。今彼女を襲う寂寞が僕のせいならば、それをすぐにでも霧消させたい。


 塔を眺めていると、背後で靴の音が響いた。東雲が来たのかと振り返ってみたら、そこにいたのは彼ではない。枯葉が、僕を真っ直ぐ見つめていた。


 彼らしい雰囲気がそこになく、何故か落とされた不穏な空気に眉を顰めた。


「……呉羽、お前、どうすればあいつのことを思い出してくれる?」


「は?」


 阿呆みたいに相貌を固めた僕の前で、枯葉は銀の軌跡を描いた。突きつけられたのは、バタフライナイフだ。彼の視線という糸を辿ってもその意図が分からず、ただただ静かに彼の言動を待ち受けることしか出来ない。というのに、いくら待っても彼は一切の動きを見せなかった。


 彼の表情は、簡単に名状することの出来ない色をしていた。冷静さと覚悟の下に塗られているのは憤りだろうか。それを視認した直後、僕の口は勝手に動いていた。


「ごめん」


 落としたのはただ一言。そのたった一言だけで、どうしてか彼の眼は揺らめき出す。


 彼の憤懣が僕に向けられたものでなかったなら、今こうして刃を向けられている理由が掴めない。だから僕は謝るべきだと思った。けれどこんな言葉を彼は求めていなかったのか、だんだんとその顔に怒りが発露していく。


「誰に、謝ってんだよ」



「君しかいないでしょ」


「謝る相手が、本当に俺で合ってると思ってんのかよ」


「今謝る相手は君しか――」


 投げ捨てられたナイフがアスファルトと短い合奏を響かせた。そちらに目をやったものの、胸倉を掴まれた僕は視線を枯葉に引き付けられる。


 先ほどまでの冷静さはどこへ行ってしまったのか、彼は抑えきれなくなったように感情を溢れ出させていた。


「俺じゃねぇだろ!! 今すぐ宮下を探しに行って謝れよ!!」


「……っ君になんの関係が」


 言い終える前に、衝撃を受けて一瞬息が詰まった。バランスを崩して倒れかけた僕は、殴られて痛む頬を引き攣らせて口角を上げる。この状況で笑ったのが気に食わなかったのか、彼は再び拳を振り上げた。抵抗も反撃もせずに頬を打たせると、彼の怒号が耳を突き刺した。


「ざけんじゃねぇよ……俺もお前も、宮下も友達なんだよ! 協力者で、友達なんだ! なのになんで関係ねぇみたいな言われ方されなきゃならねぇんだよ!!」


 人間は、耐え切れなくなったら物理的な力に感情を乗せることしか出来ないのだろうか。そう思いながら、何度打たれたか分からない。


 仕方がない。きっと誰だって、言葉だけに乗せ切れない感情を拳に乗せるのだ。だったら、それを受け止めてやる以外に出来ることなんてない。


 好きなだけ殴ればいいと思う。気が済むまで、感情が鎮まるまで全部好きな形にして吐き出せばいい。


 一瞬歪んだ視界の中で、目の前にいる枯葉が紫土に見えた。瞠った目に映ったのは確かに枯葉で、苦笑してしまう。僕が表情を変えたからか、彼は握って持ち上げた拳を、震わせながら体の横に下ろした。


「お前……なんで、そんな顔してられんだよ。なんでそんな、当たり前みたいに受け入れてんだよ。なんで、やり返さないんだよ。なんで! 宮下のことを言われて取り乱しもしねぇんだよ!!」


「……枯葉、僕が死んだことは申し訳ないと思ってる。だから君の怒りも受け入れている。けどさ、彼女のことに関して、君に何かを言われる筋合いはないはずだ」


 これ以上殴る気がないらしい彼に背を向けて、塔へ向かおうとした。けれど肩を掴まれ、再び彼の方を向くことになる。


 彼を見てすぐに、僕は目を逸らす。怒りと悲痛に塗れた彼の眼は『思い出せ』と叫んでいた。そんな訴えを向けられても僕はどうすることも出来ないというのに、それと同じ思いを塗りたくられた怒声が鼓膜に打ち付けられる。


「テメェ……宮下がどんな気持ちだったと思ってんだよ! 目の前でテメェが死んで、どれだけ悲しかったと思ってんだ!? 勝手に死んで勝手に記憶を失くして、あいつを泣かせてんじゃねぇよ!!」


「っ……もう黙って」


「あぁ!? 好きな女を泣かせられて、黙ってられると思ってんのかよ!! そうだろ!? お前、俺があいつを泣かせたって言っても何も感じねぇのか!?」


「は?」


 枯葉が、彼女を泣かせた。だからどうした、そう思うのが普通なはずだ。彼女と係うことのない僕が、彼女を泣かせられて何を思うというのだろう。


 それなのに、訳も分からず感情が揺さぶられる。堪えきれないくらいの何かが、胸の奥から込み上げてくる。


 そんな僕の顔色から何かを察したのか、それとも心の声を聞かれたのか、枯葉は僅かに笑っていた。


「なぁ、なんも思わねぇのかよ? 俺が、宮下に無理矢理キスして泣かせたん――」


「ふざけるなよお前」


「……あ?」


 気付けば、僕は彼の胸倉を掴んでいた。視線だけを上に上げて睨むと、枯葉も僕を睨んでいた。僅かに目を細めたら、彼の鋭い目に一瞬怯えの色が混ざる。


 何をしているのか、自分に問いかけたい気分だった。そもそも先に彼女を泣かせた僕が、彼女を泣かせられたことに対して怒るのはおかしいだろう。それなのに、苛立ちは収まらない。口を開けば尖った低声が彼を刺す。


「好きだからって、何をしてもいいと思ってるわけ? お前が好きだったとしても彼女はそうじゃないんだろ。それなのに何勝手なことをしてるんだよ。というかさっきから、何も知らないくせに勝手なことばかり」


「――何も知らないくせにだと? 本当にそう思ってんのかよ。全部聞こえてんだぜ。テメェの心の声も、宮下の心の声も、全部聞いてきたんだよ俺は! だからそのムカつく仮面を剥がしてやろうと思ったのになんなんだよ! そんなに自分を隠していてぇのか!? 誰かを好きになるって気持ちが、そんなに恥ずかしいことかよ!! それとも口に出せない程度の好意しか抱いてなかったって言うつもりか!? その程度の思いしかねぇくせに、なんでテメェなんかが宮下に好かれてんだよ! ふざけんなよ!! 俺がどれだけあいつのこと好きだと思ってんだ!! テメェ、心の奥の奥で宮下のことも俺のことも笑ってんのか!?」


「っどうして僕がお前と浅葱のことを笑わなければならないんだよ!!」


 こんな声を出したのは、いつぶりだろう。喉が悲鳴を上げるくらい、叫んでいた。真っ直ぐ貫いた枯葉の瞳が見張られる。僕は止まることなく、自分の喉を潰しそうなくらい叫び続けていた。


「なにが全部聞いてきた、だ! 何も分かってないじゃないか!! それとも僕が心まで嘘で固めていたとでも言いたいのかよ!? 全部聞いていたなら知っているはずだろ!? 僕だって浅葱が――!!」


 胸の奥深くで息を潜めていた感情が全て流露しているようだった。それなのに、全てを吐き出す前に声が出なくなる。叫ぼうと思えばまだ叫べた。声が出ないのは、理解が追いつかなかったからだ。


 今の僕は、宮下浅葱になんの感情も抱いていないはずだ。だから先ほどの叫びは全て、記憶と共には消えずに残っていた思いの号哭。しかしその思いは、勝手に声として出て行ってしまった。それでもまだ胸の中に残っているはずなのに、自分で探そうとすると見つけられない。


 脳裏を過るのは、ぼやけた記憶。思い出そうとする声は全部、水の中で聞いているみたいで聞き取れない。記憶と思いを引っ張り出して、言葉を続けようとした。


「浅葱、が……っ」


「呉、羽?」


「……見えない……」


 続けられない。曖昧な記憶の中にいるはずの彼女が、僕には見えない。泣き出しそうに震えていた呟きは、枯葉に聞こえてしまっただろうか。聞かなかったことにしてもらいたい。


 思い出せない過去にしがみついて泣き叫ぶのはやめたのだ。以前も、何かを必死に思い出そうとして、思い出せない何かに何度も呼吸を苦しくさせられた。失くしたものにいつまでも執着するなんて意味がない。そんなことは既に知っていたというのに、未だに諦めようとしない自分が愚かとしか思えない。


 けれど今度こそ、大切な記憶を思い出したいと思う。今度こそ、大切な人のことを覚えていたいと思うのに、遡る記憶の中で彼女が見えない。


 瞬きする度にその姿を瞼の裏で探しながら、記憶を手繰り寄せるようにぶつぶつと彼女の名を零す。


「浅葱が――……浅葱の、こと、が……」


「っおい呉羽! 思い出せそうなのか!? なあ! 宮下のこと、思い出せよ!!」


「……る、さい」


 酷く、頭が痛かった。割れそうだ、なんて言葉では足りない。髪を撫でる風に、冷たい空気に、原型も留めぬほど潰されてしまいそうだった。凄烈な痛みに襲われているというのに、枯葉は必死な顔をして、指が食い込むほど強く僕の両肩を掴んだ。


「痛っ……」


「宮下と出会った時のことも、宮下と過ごした時間も! 全部思い出せ!! お前、宮下が風邪引いた時看病しに行っただろ! 蘇芳と待宵に行った日、宮下と二人でデートしたんじゃねぇのかよ!? 文化祭にあいつと二人で回って楽しかったんじゃないのか!?」


 掴んだ力を緩めないまま、枯葉が僕を揺さぶる。揺らされる度に脳まで激しく揺れているようだった。彼の手を払おうと振り上げた手は、力が入らず落ちていく。それを視界の端で捉えた直後、目の前が真っ黒になった。それは一瞬だったが、胸を撫で下ろすことは出来ない。視界がだんだんと黒で塗られていく。


「おい! 思い出せ! 思い出せよ!!」


「っ、く……」


 枯葉の叫びが耳鳴りのようだった。いや、実際に、耳鳴りがしている。真っ黒になった目の前に、枯葉の姿はない。まだ声は聞こえてきているから、そこにいるのだろう。


 どこにいるのか、探すように手を伸ばそうとした。実際に伸ばせたかは分からないし、枯葉に触れられたかも分からない。ただ、手が震えていたことだけは、なんとなく分かった。


 ひどい孤独感に押し潰されそうで、僕らしくもなく怯える。


 ずっと、孤独なままなら良かった。孤独なまま生きていたなら、なにも感じなかった。それなのに気付けば友達なんてものが出来ていて、誰かと共にいることの楽しさを知ってしまって、孤独になるのが怖くなった。――そんな弱さなど、かつて捨てたはずなのに。失うのが怖いなんて思い、とっくに忘れたはずなのに。忘れたと思っていただけで、ずっと、残っていた。


「……浅葱」


 震えた手で暗闇を掻く。ただ、探していた。彼女の姿を求めていた。記憶の一欠片だけでも構わないから、この手に掴ませて欲しい。一度だけでいいから、記憶の中の彼女に会わせて欲しい。


「いなく、ならないでよ……」


 情けない声をぽつりと落とし、僕は濡羽色の暗闇へ身を委ねた。



屋梁落月(おくりょうらくげつ)

【意味】友人を心から思う切ない心情のこと

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