屋梁落月3
話すことはもうないのか、それとも僕が思惟していたからか、東雲は黙っていた。粛然とした空気に耐えかねたらしく、東雲の後方で空が勝手に彼の台詞を奪う。
「んで、東雲がその後その子のことを色々調べて、その子をどう救うか考えた結果がこれだよ。偽物の世界にいる能力者で彼女の心を支えてくれそうな人、彼女が心を開きそうな人を彼女に近付ける。東雲が目を付けたのが、誰とも協力者になってなくて、彼女の兄と近い年齢の少年、キミだったわけだ。どうやらキミは元々彼女に好意を抱かれていたみたいだしね」
空の言葉を聞きながら、僕は東雲と初めて会った時のことを思い出す。つまりあの時既に目を付けられ、東雲が『ウサギ』ではない、と僕に確信させてから協力者になるつもりだった、ということだろうか。僕の信頼と協力を得たかったのなら、戦闘後に僕の指を折る必要はなかったと思う。
僅かに細めた目で東雲を見ていると、彼は小さく笑いを漏らした。
「空さんの言った理由もありますが、正直なところ、制服が――ああ、いえ。これはどうでも良いことですね」
「は?」
途中で話を中断されては気になってしまう。追求しようと思って研いだ視線で貫いてみても、彼は乾いた笑声を喉から搾り出しただけで、脱線した話をすぐに元のレールへ引き戻した。
「君が適任かどうか確かめるために色々癪に障るようなことを言ったと思いますけど、許してくださいね。漠然とですが、君なら彼女の心を開けるのではと思っていましたよ。初対面の時既に」
「初対面で何が分かったって言うのさ」
「能力、強さ、人柄、それが分かって十分でした。なにより、冷静すぎるところが好感を持てましたし」
「へぇ。……けど残念だったね。僕が期待外れの馬鹿で」
「ええ。なんだかんだ真っ直ぐで優しいので大丈夫だと思ったのですがね。私が思っていた以上に君は、君自身をなんとも思っていなかった」
僕は、表情を固めた。こちらを射抜く鋭い目は、僕に僅かな恐れを抱かせる。凶器を突きつけられているような気分だ。彼の静かな憤りが、目に見えない刃を形成していた。
「君、元々死ぬ覚悟で臨んだのでしょう?」
冷たい切っ先が、容赦なく僕を刺す。全てを見通した気になっている虹彩に凍り付いて一瞬言葉を失ったが、僕は俯くように点頭した。
「……覚悟は、していた。けど、死ぬ気だったわけじゃない」
「本当ですか? 君、他人は殺せないのに自分は殺せるタイプの人間でしょう?」
挑発と憤然を混ぜ合わせたような声遣いが耳を突く。その言い方に顔を顰めて嘆息を吐いてやった。
「ああ、僕もそう思っていたよ。でも違った。一回死ぬくらい良い、少し記憶を失うくらい構わないと思っていた。なのにいざ死を目の前にしたらさ、死にたくないって、死ぬわけにはいかないって足掻こうとしたんだ」
少し口を開いただけなのに、紡ぎ出すと止まらなかった。吐き出したいとでも思っていたのだろうか。僅かに震える唇は動くことをやめない。真剣に僕を正視する東雲から目を逸らせない。咎めるようだった瞳は今、全て吐いてしまえと訴えるように細められていた。
これ以上は自分の中だけに留めて繕えばいい。そう思っても、喉からは震えて掠れた音吐がせり上がってくる。
「どうしてかは、思い出せないけどさ。情けないことに、怖いと思ったよ。なにか……手放したくないものがあったんだ。傷付けたくないものが。忘れたくないことが……確かに、あったんだ」
「……紫苑くん」
「けど気付いた時には何もない。悲しさも空虚感も何一つなかった。忘れるって、こういうことなんだね」
情けなく歪みそうになる目顔を、どうにか動かして笑みを形作った。僕が笑ってみせたら、東雲はどうしてか目を瞠った。驚くほど酷い顔をしているのかもしれないなと思い、上手く笑おうとして口の端を少し上げてみた。笑い方が、分からなかった。表情を作ることを諦めて、誤魔化すように明るい声を発する。
「失くしたのがどんな記憶なのか、どれくらい大切なものだったのかすら、分からない。それでも、大切な記憶だったと思うんだ。だってそういうことだよね? 僕が失うのを恐れて必死になった何かは、その失くした記憶なんだろう?」
「……恐らく、としか言えません。私は君が考えていることを全て見通せませんから。ただ、君が忘れた記憶が君にとって大切なものだったのは確かです」
「そっか」
ふっと笑ってみると、ようやく落ち着くことが出来た。洪水みたいに溢れていた真情をようやく留められる。僕は出来る限り自然な微笑を浮かべて、淡々と続ける。
「まあ、忘れてしまったことにいつまでも頭を悩ませて時間を無駄にしている暇はないよね」
僕のその言葉が気に食わなかったのか、東雲が舌打ちをしそうなくらい唇を曲げた。
「吐き出したと思ったらまた仮面を付けるんですか君は。私は君に蘇芳さんを救って欲しいと思ってはいますが、急いではいません。君の心の整理がつくまで、動けと言うつもりもない」
「心の整理なんて出来ているよ。考えれば考えるほどおかしくなりそうだから、これ以上は考えない。いつまでも感傷に浸っているなんて僕らしくもない。僕は僕が動きたい時に動く」
ここまで言ってもまだ不満げな顔のまま、彼は水を飲む。テーブルに置かれたコップの音すらも、彼の思いを物語っていた。話を終わらせ空気を切り替えるよう、僕は立ち上がった。
「吐き出して少しすっきりしたから、礼を言っておくよ。ありがとう」
「君が勝手にべらべらと喋り出しただけですがね」
「吐かせるように誘導したよね?」
「なんのことやら」
嘯いているのか、それとも本当に誘導したつもりはなかったのか、東雲は真顔のまま頭を傾けた。
足元に置いていた鞄を手に取って、聞き忘れていたことがあったなと思い出す。
「そういえばさ、どうして東雲は、自分でもう一回説得してみようと思わなかったんだ?」
「蘇芳さんに言われてしまったからですよ、大人なんてどうせ優しい言葉をかけた後で裏切るんだ、と。だから私では駄目だと思ってしまいました」
「……そう」
ポケットから携帯電話を取り出して時間を確認する。今から学校へ行っても午後の授業に出るだけだ。わざわざ遅刻してまで退屈な場所に足を踏み入れるなんてしたくないなと思ってから、学校のことを考えるのをやめる。
偽物の世界のことが脳裏を掠め、作り笑いを取り去った。
「東雲。僕は、今日にでも蘇芳と話がしたい」
「……蘇芳さんの心の整理がつくまで、待った方が良いと思いますよ」
「悪い方向に整理される前に伝えないと、耳を塞がれるでしょ? ――ってもしかして、僕はもう向こうの世界に行けないのかな?」
当然のように、自分は夜あの世界に行くのだと思っていたが、今更はっとする。あの世界で死ぬとあの世界から解放されるはずなのだ。けれどきっと、死ぬ死なないに関係なく、蘇芳の意思で追い出したり留めさせたり出来るのかもしれない。
僕が悩んでいると、東雲も悩むように唸った。
「それは……どうでしょう。私の予想では、蘇芳さんは今回も君を解放していないと思いますよ。あの塔で、きっと君を待っています。彼女は、来るなと言うでしょうがね。本心は『来て』『助けて』だと思いますよ」
「知ってるよ」
即答してみせたら、東雲がきょとんとしたように僕を見た。僕がおかしいことを言ったみたいな気分になって、苦笑してしまう。
「……だから、行くんだ。友達が助けてって叫んでいるから、僕は今すぐにでもそこへ行きたいんだよ」
頭の中にあったのはあの日の会話だ。蘇芳と待宵に行った、あの時の会話。思えば、あれは彼女のSOSだったのだ。それを分かった今でも、返すべきだった言葉の正答は見つけられない。救いを求める信号を受けた直後にどう返していれば彼女の救いになれたのか、それが分からないでいたけれど、きっと正しい答えなんてないのだろう。
もし正答があったとしても、それに準えて言葉を並べたところで正答にならない。人の心に届くのは言葉ではなく思いだ。模範解答なんて探す必要がない。僕は僕の答えをぶつければいい。
決意に拳を固めて、小さく息衝くと、視界で東雲がすっと立つ。彼はテーブルに置かれたままになっていた名刺を手に取った。
「では今夜、三日駅で待ち合わせをしましょう」
「分かった」
「――紫苑くん」
呼ばれて、彼に顔を向ける。子供を咎める時の大人みたいな表情から無理やり苦笑いを作った彼は、ふっと吐息を落とした。
「もう少し、自分のことも大切にしてくださいね」
「大丈夫だよ。僕が傷付くと泣く人がいるみたいだからね。もう、あんな風に誰かを傷付けるような真似はしない」
「ならいいのですが……。学校か家まで送りますよ。どっちがいいですか?」
「家かな」
間髪入れず発した答えに、東雲が呆れたのはその顔を見るだけで分かる。それでも「分かりました」と言ってくれてほっとした。礼を言おうとした僕の声を遮って、不満げな声が東雲の背後で上がる。
「うわー、そうやって普通に少年を帰そうとするんだね、私が連れて来たのに」
「そりゃ帰しますよ。紫苑くんはこちらで保護する必要がないですから」
「そーですかぁー。――あ、いいかい少年? 次能力で人を傷付けたら数ヶ月ここで過ごしてもらうからね?」
空の言葉を最後まで聞かずに先に東雲が出て行った。その後を追おうとした僕の前に、彼女がステップを踏むような足取りで立つ。
僕の顔をじっと窺う彼女へ、薄く笑った。
「使わないよう善処するよ」
「善処って……まぁいいけど。あ、廊下にさ、絵が飾られてたでしょ? あれ、東雲が描いたものだから、見て酷評してやってよ」
「え。あれ、東雲が描いたんだ? へえ……」
手を振る空に軽く頭を下げてから、僕は部屋を出る。待っていたらしい東雲が僕を一瞥して歩き出す。廊下の壁に飾られている絵を見ながら、彼の後ろを歩いて行った。珍しく黙っている東雲の背中に、声を投げかけてみた。
「東雲ってさ、絵、上手いんだね」
「そうでもないですよ。ただの模写ですし」
「模写なのは見れば分かるけど、ただの、ではないよね。アレンジされてて、それが良い味を出しているから上手いと思うよ」
思ったことを言葉に出してみせると、東雲はどうやら笑ったようだ。肩が小さく震えながら持ち上げられた。けれど声を漏らさず笑っているのか、耳を澄ませても笑声は拾えない。
無言のまま歩いて数秒、ようやく東雲が苦笑交じりの声を放ってくる。
「紫苑くんに褒められると自信が付きますね。君、滅多に人を褒めないでしょう?」
「そんなことないけど」
「おや、それは意外です」
「意外か……?」
首を傾げながら、東雲の背より先へ目をやって、エレベーターを探す。さほど長くない廊下のため、それは既に目の前にあった。下矢印が書かれているボタンを押した東雲が、いつも通りの胡散臭い微笑を振り向かせた。
「さ、乗ってください。とりあえず待宵駅まで行きますよ。駅の駐車場に車があるので、そこからは車で送ります」




