屋梁落月2
「やあみんなー、元気ー?」
陽気に歌でも歌い出しそうな空に答えた声は、複数だ。小学生くらいの子供達が「元気ー!」とはしゃいでいた。
引っ張られるままに室内に入ってみれば、そこは小学校というよりも保育園。学ぶスペースよりも遊ぶスペースの方が広く設けられている。
彼らの目が僕に向く。見知らぬ人間が入ってきたのだから、彼らが興味深そうな目をしても仕方ないだろう。ピアノの音も止んでいることに気が付いて部屋の隅を見たら、演奏をしていたと思われる少女が今は真っ直ぐ僕を見ていた。
僕は目のやり場に困って空に視線を送った。説明を求める意も込めたのだが、それが伝わっているかは分からない。彼女は僕の方など見もせず、十数人の子供達だけを見ている。
「このお兄さんね、お客さんなんだ。けど私は取りに行かなきゃならないものがあって、少し彼から目を離さなければならない。だからさ、キミたち、私が戻ってくるまでお兄さんと遊んでて」
「えっ、ちょっ……遊ぶって」
「少年、今のキミに拒否権はありません。ってわけでよろしくー」
文句さえ聞き入れてもらえず、僕は一人残される。空のにやけ面がむかつくくらい瞼の裏に残って、舌を打とうとした。しかし口元を歪めただけに留まる。堪えたわけではなく、腕を引かれたおかげで苛立ちが全て動揺に変えられたのだ。
「ねえねえ、にーちゃん遊ぼー! トランプしようよ!」
「あのね、わたしたちね、今お裁縫してたの! いっしょにやろー!」
左右から同時に腕を引っ張られ、僕の顔は引き攣る。苦笑していると、僕の右腕を掴んでいる少年が、僕の左腕を引っ張っている少女に口を尖らせた。
「女子は引っ込んでろよ!」
「なんでよ! わたしが先に話しかけたのに!」
「おれのほうが先でしたー」
「先っていつ? 何時何分何秒? 地球が何回回った時?」
こういうことを言う子供が小学生の頃にいたなと思いつつ、呆れてしまう。こんなことで喧嘩をしなくても、と思うが、子供だから仕方がない。とりあえず、早く空が戻ってくることを祈る。
僕から離れて喧嘩を始めた二人を止めるかどうか悩んでいると、他の子供達が寄ってきた。
「おにいさんも、のうりょくしゃなの?」
「え、ああ、まあ」
「どんなの!? みたい!」
曖昧に返しただけなのに彼らは目を輝かせた。この場所が『能力者保護協会』だということは、彼らも能力者だろう。というのに相当能力に興味があるみたいだった。子供は好奇心旺盛だから様々な能力を知りたいのかもしれない。
今ここで能力を使っていいのかどうか悩んで、僕は床に落ちているぬいぐるみを見つめる。何かを壊したりしなければ使っても問題ないと判断し、溜息混じりに呟いた。
「じゃあ、少しだけ。……見てて」
すっと、ぬいぐるみの方に手を向けた。子供達の視線がそちらに向いたのを視界の端で確認してから、「〈飛べ〉」と小さく命令する。
ふわりと飛び上がったぬいぐるみを見た彼らから、歓声が上がった。しかしその直後に、大きな音を立てて扉が開かれ、僕を含めこの場の全員が肩を跳ねさせた。
空が戻ってきたのかと思ったが、振り返って目にした人物は彼女ではない。僕は目を白黒させながら、彼をまじまじと眺める。どうやら僕が人違いをしているわけではなさそうだ。
「東雲?」
走ってきたのか、彼は壁に手をついて呼吸を整えていた。
「しののめさんだー!」と嬉しそうに子供が言っているから、彼らに好かれているようだ。
けれど彼らが東雲に寄り付く前に、東雲は僕の手首を引いて部屋を出た。廊下に出て、子供達がいた部屋の扉を閉めると、彼が不機嫌そうな声を絞り出す。
「君、何をしているんですか……」
「いや、それはこっちの台詞だよ。東雲、こんな所でなにしてるの?」
問いかけてはみたものの、子供達の反応からして予想はついている。ようやく落ち着いたらしい東雲が僕に真剣な瞳を向けてきた。
「仕事ですよ。言うつもりはなかったのですがね……私、『能力者保護協会』の者です。ここにいるということは君、能力を使った所でも見られました?」
はは、と乾いた笑声だけを返したが、それで充分伝わったらしく、長い息が吐かれた。絶対わざと、長く大きく吐いている。
「場所を変えましょう。君には聞きたいことがあるので」
「聞きたいこと?」
「ええ。付いて来てください。空さんもいますが……彼女は空気だと思って構いません」
◆
案内された部屋の椅子に座り、足元に鞄を置くと、空が目の前のテーブルにコップを置いてくれた。礼を言って、コーヒーを一口流し込む。
僕の正面には東雲が座っていた。空はというと、東雲の後方にあるソファに寝転んでいる。テーブル、椅子、ソファの他には棚くらいしか置かれていないが、台所があり、生活に困らなさそうな室内だなと見回していたら、東雲に咳払いを落とされた。
「それで、君……私のことを覚えているということは蘇芳さんのことも覚えています? ああいえ、質問が急でしたよね。君は昨日――」
「知っているよ。死んだんだよね。……誰かを庇って」
彼女の名前を言おうと思ったのだが、忘れてしまったため誤魔化すように言ってから視線を前に向ける。東雲の顔を見てすぐに、僕はなにか間違ったことを言っただろうかと心配になった。やるせない面貌で僕を見る彼が、どれほどの衝撃を受けたのか、理由さえ察せられない僕では推し量れなかった。
沈黙が重く感じる。掛け時計の秒針が音を立てる度、空気は重くなっているようだった。だんだんと俯いていく僕に、ようやく東雲の声がかかる。
「浅葱さんに、会ったんですか」
感情を噛み潰しているような声だった。だというのに刃を象っており、叫びでも怒号でもないのに耳を劈かれ、脳髄が震える。頭の痛みに顔を顰めながら、唇の裏で「あさぎ」と呟いてみた。
宮下、浅葱。確か、そんな名前だったはずだ。僕は軽く頷いた。
「そう、浅葱。会ったよ。どうやら僕は彼女のことを忘れたみたいでね、思い出そうとするたび頭が痛んで、思い出せなくてさ。その痛みに苛立って八つ当たりして……泣かせた」
どうしてか声が震えていた。泣き出しそうにではない、哂笑するように、だ。己を責めるみたいに嗤っていた。
そんな僕はどう見えたのだろう。東雲は苦々しい顔をしたままそっと視線を外した。
「紫苑くん。本当に君、馬鹿ですよね」
「……そうだね、知ってる」
「浅葱さんは、君のことを大切に思っているのですよ」
彼女が僕をどう思っているかなんて、東雲の口から聞かずとも、見ていれば分かる。友達に拒絶される気持ちがどんなものか、嫌というほど分かっている。僕は今更、何故彼女を泣かせ、突き放してしまったのかと後悔した。
けれどこれで良かったとも思っているのは、彼女を傷付けたくないからではない。自分が傷付きたくないのだ。それに気付いてしまって、自己嫌悪に陥る。
何が正しいのかなんて知らないし、恐らく正解はない。だが僕の判断は間違っていたのではないか、と思えば思うほど、自責の念は強くなる。
東雲がこんな顔をするということは、僕が思っている以上に、僕に抱く彼女の思いは大きかったのだと思う。いや、それとも逆だろうか。僕にとって彼女の存在が大きかったという可能性もある。口を噤んだまま頭の中で下らない思考を広げていると「ところでさ」と話が変えられる。
緘黙を攫ったのは空だった。
「東雲。蘇芳って子は確か、そうぞうの能力者……『ウサギ』だよね。その少年が記憶を失ったのってつまりキミの仕事が遅いからじゃない? いや、キミがその少年に『ウサギ』のことを任せたせい、かな?」
東雲を詰った彼女の語調は、刺々しい。そんな彼女に東雲が放ったのもまた棘だった。
「空気になっていて下さいって言いましたよね? 後で指折りますよ?」
「はは。善処はする、って言ったよね。好きなだけ折りなよ、治すから別にいいし……ってかさぁキミさぁ、ここまできたら全部話したら? キミが前に言っていた、『ウサギ』のことを救ってくれるかもしれない能力者って少年のことだろう?」
「……君に言われなくても、紫苑くんがここに来た時点で話さなければならないと思っていましたよ。いいから君は黙っていてください」
「はーい黙りまーす」
口にチャックをするように手を動かしてから、空は宣言通り黙り込む。数秒しんと静まり、彼女が喋り出す気配が全くなくなると、東雲はようやく開口した。
「私があの世界に招かれ、『ウサギ』の存在を知り、あの世界のルールを知り、当然放っておけるわけがなかったんですよ。……あー……いえ、まず私達の仕事のことから話した方がいいですよね」
ポケットから取り出した名刺を僕に差し出しつつ、東雲が続ける。僕はそれを手に取って眺めたが、もちろん彼の声から意識を逸らしはしない。
「私達は基本的に、能力を日常的に使っている能力者を……言い方は悪いですが、捕らえています。能力を犯罪に使っている者はもちろん処罰し、そうでない人とは話し合う。能力のせいで日常が過ごしにくい、家にいたくない、学校に行きたくない、そういう不満を抱いている人達を保護して養うということもしています。もちろん彼らの望みを聞いてです。今まで通り過ごしたいという人達には、あまり能力を使わないようにと釘を刺してから帰らせていますよ」
彼はコップを手に取り喉を潤そうとした。しかし中身がなかったのか口を付けずに戻して、ポケットから煙草を取り出す。その手元をぼうっと見ていたら、僕の視線をどう受け取ったのか、結局火を点けずにポケットへ戻してしまう。
「失礼。子供の前で吸うのは良くないですよね」
「別に僕は気にしないし、子供じゃないけど」
「空さーん、黙ったままコーヒー淹れてくれます?」
東雲の背中に舌打ちが投げつけられるが、彼は気にせず「ああ、そういえば」とにこにこしながら言った。空がわざと音を立ててコップを置いても表情一つ変えない。彼女が淹れてきたのは水道水のようだった。
コップに口付け、水を喉に流し込んでから彼は話を進める。
「君が菖蒲くんのことを相談してくれた後、私は彼と話しました」
僕は僅かに目を瞠って東雲に続きを促す。彼の微笑は苦笑に変わったように見えた。
「彼は親の傍を離れたくないと言っていたので、話しただけで終わりましたが……近いうちに彼の母親と話をするつもりでいます」
「……そっか」
菖蒲の意思が変わらない限り、彼とその母親を引き離すことなんて出来ないだろう。だから彼らの関係を変えるには話をしなければならない。僕のような子供ではまともな話を出来そうにないが、こういった職業に就いている大人の東雲なら、話をつけられるかもしれない。
東雲が菖蒲の母と何を話すのかは分からないが、良い方向に事が運んでくれることを願う。
「――さて、話を戻しますよ。我々の話でしたよね。能力を完全に使えないようにする、ということは出来ないので、基本的には保護し、悩みを聞き、支え、能力者が笑って日常を過ごせるようにするのが主な仕事です。だから私が初めて偽物の世界に招かれた時、実際に死ぬわけではないあの世界でまず『ウサギ』を殺して他の能力者を日常に戻してやらなければと思いました。巻き込まれた数人の能力者と巻き込んだ一人の能力者、どちらを先に助けるかは悩むまでもありませんでしたから」
主な仕事、ということは、他にもなにかしているのだろうか。気にはなったものの、東雲が言わなかったことをわざわざ聞くのも良くないかと思い、問いは咽喉の奥へ落とし込んだ。
「ですが、もちろん私は何も聞かずに蘇芳さんを殺したわけではありません。説得を試みました。悩みがあるなら聞かせてくれとも言いましたが、彼女は何も話してくれず、最終的に私を殺そうとしてきたので、説得を諦めて殺しました。諦めたことを、今でも後悔しています」
「……蘇芳は、どんな言葉を求めているんだろうね」
「それは、分かりません。ですがきっと欲しいのは言葉じゃないんですよ。気持ち、だと思いますよ」
気持ちなんて、目に見えない不確かなものだ。それでも、明確であって真実とは限らない『言葉』より、不確かだけれど確かな『気持ち』の方を人は欲しがる。
となると僕が蘇芳を説得できなかったのは、僕の気持ちが伝わらなかったか、彼女の求めているものとは違ったのか、そのどちらかだろう。出来れば、前者であって欲しい。後者であった場合、僕は彼女を説得できない。
あの時、自分が何を言葉に出来たか、何を彼女に語ったかは覚えていない。ただ、言葉に確かな気持ちを乗せたつもりでいた。視線に確かな思いを込めたつもりだった。それが彼女の心を揺らせなかったのなら、僕の中にある気持ちでは彼女の檻を壊せない。
蘇芳は僕を刺して狼狽していた。僕は死ぬ前に伝えなければと必死だった。そのせいで伝わらなかったのだと思いたい。




