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喪失4

     ◆


 宮下浅葱と名乗った彼女のことを、僕は本当に何も知らない。


 何も思い出せない、と言われて傷付いたらしい彼女は、悲しげな顔をしていた。いや、今日電車の中で初めて会ってから、悲しげな顔しか見ていないような気がする。


 自分のことを思い出してもらいたいらしい彼女は、僕との出来事を話し出した。しかし、その話は頭痛のせいであまり耳に届いてこない。


 そもそも、彼女の顔を見ているだけでおかしな感覚に陥る。見ず知らずの人間がどんな顔をしていようが僕には関係ないしどうでもいい、と思うのに、彼女の泣き出しそうな目を見ていると自分に苛立ってくるのだ。僕は彼女をどう思っていたのだろうか、と記憶を遡ろうとしたが、脳を締め付けるような痛みが激しくなって舌打ちをした。


 はっとして顔を上げたら、彼女が動揺していた。いきなり不機嫌そうに舌打ちをしたのだから、訳が分からないだろう。謝らないと、と思ったのに、口から零れたのは謝罪とは程遠いものだった。


「君、なにがしたいの」


 激しい頭痛に苛立って、あろうことかその苛立ちを彼女にぶつけてしまった。「え……」と声を震わせた彼女を見て申し訳ない気持ちが湧き上がったが、そんな気持ちが湧いたことにすら苛立つ。


 何故こんなにも苛々しているのか理解が出来なかった。痛みなんて慣れているだろうに、たかが頭痛程度で不機嫌になる自分がみっともない。少し前まで泣いていた相手に八つ当たりをするなんて、どうかしている。


 けれど一度冷たく吐いてしまえば、もう止まれなかった。


「君はあの世界を終わらせたいだけじゃないの? 僕に、どうして欲しいわけ」


 非難するように彼女を冷たく睨む。問いかけたというのに、彼女に黙っていて欲しかった。彼女の声を聞いていると、彼女の顔を見ていると、頭痛はどんどん増していく。彼女に立ち去って欲しいとまで思っていたら、それを汲み取ったみたいに彼女が立ち上がった。


「……先輩。私達、先輩後輩であり、協力者であり、友達だったんです。だから……ただ、前みたいに、戻りたいだけなんですよ」


 散る直前の花のような微笑を残して、花弁から零れる朝露のような涙を落として、彼女は小走りに店を出て行った。その姿が見えなくなり、いつの間にか立っていた僕は座り直す。思い通りになったというのに、僕は彼女を引き止めようとしたのだ。なにがしたいのかと自問したくなる。自嘲的に笑って水を飲み干し、僕も店を出て学校に向かおうと思った。だが、今出て行けば彼女に追いついてしまうだろう。もう少し時間を潰すために、携帯電話を開いた。


 僕は何故かメールの受信ボックスを表示していて、何故か『宮下浅葱』からのメールを見ていた。


『文化祭、楽しかったです! 来年も一緒に回れたら嬉しいです。紫苑先輩、いつもありがとうございます。今度、クッキーを作って持っていきますね』


『待ち合わせ時間は十時にしましょう! 待宵に行くの、楽しみにしていますね!』


 本当に楽しそうに書かれているのを見てすぐに、携帯電話を仕舞い込む。心が掻き乱されていく感覚に耐えられなかった。


 僕は、彼女と一緒に文化祭で何をした? 楽しかった? 僕といて、彼女は本当に楽しいと思えたのか?


 文面から感情なんて読み取れない。明るく楽しそうな文面でも、本心は違うかもしれない。それなのに、言葉通りの感情がそこにあるのだと信じたくなっているのは、どうしてだろうか。


 待宵。なぜ、僕が彼女とそんなところに行くのだろう。僕はこれを見てしまって、どうすればいい。気付かないフリ、知らないフリをして、なかったことにすればいいのか、それとも見てしまったからには、行くべきなのか。どんなに悩んでも、結果的に選ぶのはなかったことにする方だ。そちらしか選べない。


 僕は、彼女を知らない。彼女が知っている僕を知らない。今の僕と行っても、彼女も僕も楽しめないだろうし、そもそも彼女が目の前にいるだけで頭痛が酷いのだから、僕が八つ当たりしてしまう可能性が高い。多分、僕は彼女と出来る限り接触をしない方がいい。だというのに、『あの笑顔』が僕から遠ざかるのだと思うと息が詰まりそうになった。


 ――あの、笑顔?


 違和感に眉を寄せる。彼女が楽しそうに笑った顔など、見たことがない。初めから彼女が僕に向けていたのは、悲しげな顔だけだ。僕が今瞼の裏に映した、白い花のような笑顔は、記憶のどこにもない。それに気付いてしまってから、鮮明に思い浮かべられたはずの笑顔は思い出せなくなる。残っていた硝子の欠片が粉々に砕けていき、僕は、ただ煌くだけで何も映してくれないそれを掻き集めようとした。


 もちろん粉々になったそれを元に戻す術などなく、ただ喪失感と痛みだけが手の平に残る。そんな比喩に近い苦痛は、脳髄を軋ませた。


 頭痛はもしかしたら、彼女を苦しませている僕を、『彼女の友達だった僕』が罰しているのかもしれない。などと馬鹿馬鹿しい考えをして苦笑する。


 十分ほどぼうっとしてから、ようやく店を出た。十分も経っていれば流石に追いつくことはないだろうとも思うが、念には念を入れて、普段は通らない路地裏の方を歩いていく。


 この道も普段通る道に繋がってはいるが、少しだけ遠回りになる。そのせいか人通りも少ない。静かな自然の音に耳を傾けながら歩いていると、人の声が音に混ざった。


 同じ学校の男子生徒のようだった。三人で一人を囲んで、暴力を振るっている。この道を通ったのは失敗だったなと思いながら引き返そうとして、けれど嬲られている彼がかつての親友と重なり、足が止まってしまう。


 嫌なことを思い出して僅かに気が立った僕の靴音は、やけに高く響いた。おかげで彼らの視線がこちらに向く。


 ブレザーの胸元に目をやって、同学年か、と溜息を吐いた。見覚えがないからクラスは違う、と思う。


「なんだテメェ」


 不機嫌そうな低い声を出しながら、一人が僕に近寄った。あの日のことを思い出しながら、きっとこいつがリーダー格なのだろうなと思えば不思議と笑いがこみ上げてくる。僕は彼に微笑した。笑ってみると、先ほどの彼女の悲しげな笑顔を思い出し、頭が痛んだ。


 ああ、苛立つ。


 苛立ちに任せて発した声は、思ったよりも低くなった。


「邪魔なんだけど」


 僕があの時と同じことをしようとしていることにも、脳を捻られるような痛みにも、怒りに似た感情が湧き上がる。八つ当たりみたいに見ず知らずの彼らを死なない程度に傷付ければ、気分は晴れるだろうか。その答えが否だということは分かっているが、今更引き返せない。


 どうせ誰も通らないような路地だ。三人共逃がさず気絶させてしまえばいい。被害者の彼はわざわざ他人に言いふらすようなことをしないだろう。


「は? テメェこいつのダチかなんか? こいつみてぇになりたくなかったらとっとと立ち去れよ」


「意外と挑発に乗らないタイプか。それとも弱そうな相手以外に向かっていけない臆病者なのかな、君」


「あぁ?」


 ぐい、とネクタイを引っ張られる。僕を睨み付ける彼を睨み返すと、舌打ちが響いた。そろそろいいか。そう思って、視線を彼の腕に移す。


「テメェそんなに殴られてぇのか? いいぜ、その綺麗な顔を台無しに――」


「〈曲がれ〉」


 何かを言っていたがそんなことは気にせず、僕を掴んでいない方の手を曲げ始めた。彼が呆然と自分の腕を見下ろしていく。その目がしかと腕を映したのを確認してから、曲げる速度を上げる。


「なっ、なん――……あ、ぁあああ、うああああ!!」


 形容しがたい音を立てた腕は、滅茶苦茶に捻られていた。震えて膝を突いた彼の背後で、青ざめた顔をしてこちらを見ている二人。


「〈折れろ〉」


 素早くその二人の足を折り曲げる。片足が折れていれば逃げられないだろう。耳を貫く悲鳴に、苛立ちが増す。自分は何をしているんだ、と呆れるよりも、己の腕も折ってしまいたくなっていた。


「――キミ、ちょっとそこで大人しくしてて」


 軽く肩を引かれた僕は、反射的に振り返る。長い髪が、視界を通り過ぎた。


 彼女が着ているのは白いコート、ではなくどこからどう見ても白衣だ。医者なのだろうかと思いつつ、その進行方向に目をやって、自分が今し方してしまったことを想起する。


 その女性は腕を折られた男の目を手で塞ぐと、何かを呟く。すると彼が倒れ込み、それを見届けた彼女はもう二人の方へ近寄った。僕は倒れた彼をじっと見つめる。眠らされたのだろうか、と思いながら見ていると、雑巾のようになっていた腕が独りでに動き出した。


「な……」


「そうだ。一応言っておくけど、キミが傷害罪に問われたりすることはないし、彼らに傷が残ることもないよ。あと仕返しされることも勿論ない。ちなみに彼ら、十分くらいしたら目を覚ますから安心して」


「……へぇ」


 三人共寝かせると、彼女は僕の目の前に立った。凛とした細い目が優しそうに細められ、真っ直ぐに僕を見る。視線を逸らして、あの三人組に暴行を受けていた彼がいないことに気が付く。逃げたのだろう。まぁいいかと思っていたら、手を取られた。


 音を立てて、銀の輪が僕の右手に嵌められる。


「…………は?」


 それが手錠だと理解して顔を上げてみれば、彼女の猫みたいな笑顔がそこにあった。彼女が片手を持ち上げる。その手首には、本来僕の左手に嵌められるべきものが嵌められていた。


「さて、これでキミは逃げられないね」


「何してるんだお前」


「ありゃ、なんだい少年。随分不機嫌じゃないか。犯罪者になりそうだったキミを助けてあげたのに。っというかごめん、もしかして少年じゃなくて少女だったりする? 綺麗だし細いし身長低いし」


「僕は男だ。大体助けてとか言ってないんだけど。なんなのこれ。壊していい?」


 とは言ったものの、壊せるかは分からない。とりあえず鎖の部分を何回も捻れば千切れるだろうかと捻ってみたが、すぐに目を覆われてしまう。


「やめてよ、壊したら新しいの買わないといけないじゃない。それとキミ、あんまり暴れたり能力使ったりするようなら、目隠しして連行するか眠らせるけどどうする?」


「連行って……あんたさっき罪に問われることはないから安心しろって言ったよね」


「生憎私は警察じゃないよ。そうだね、分かりやすいものを見せてあげよう。えーっと……」


 ショルダーバッグの中に手を突っ込んで、何かを探す。片手では探しにくいだろう。何故僕だけではなく自分にも枷を嵌めたのか疑問だ。逃げられるかもしれないといっても、普通の人は手錠を外してもらう前に逃げないと思う。


 ようやく何かを見つけられたらしい彼女は、パスケースを僕の前に突き出した。そこに入っていたのは名刺だ。書かれている文字を目で追っていると、彼女が自己紹介を始める。


「初めまして。『能力者保護協会』の、篠崎しのざきそらと言います。ってわけで、よろしく、少年」


 僕が息を呑んだ音は、涼風に攫われた。

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