喪失3
◇
元の世界に戻って来ても、涙は止まっていなかった。何回か止まったけれど、少しするとすぐにまた流れ出す。自分が弱くて泣き虫だということはよく知っているが、人はこんなにも涙を流せるのかと驚嘆してしまう。なかなか枯れない涙に、早く枯れて欲しいと思う。このままでは、学校に向かえない。泣き腫らした目で紫苑先輩と顔を合わせるなんて、したくないのだ。
目を擦って、何度も何度も拭う。早く、早く止まって。
どれくらいの間そうしていただろう。自分の止まらない涙の音だけに耳を傾けていたせいで、何回時計の針の音が響いたのか全く分からなかった。しかしノックもなしに扉が開けられたところを見ると、十数分は経過していると思われる。音につられて扉に目をやり、萌葱に泣き顔を見られてしまった。
「お、おはよ」
「……なに、嫌な夢でも見た?」
「眠くてあくびしただけだよ! 大丈夫! ねぇ、まだ遅刻しない時間だよね? ちょっと寝過ぎちゃった」
笑いながら早口で言い、慌てて涙を拭おうとする。けれどその手が萌葱に掴まれたせいで、拭えなかった涙が頬を伝った。
顔を上げてみたら、萌葱に瞳を射抜かれていた。
「目、擦らないで。腫れるでしょ。ご飯は落ち着いてから食べた方がいいよね……とりあえず着替えて下りてきて。タオル、用意しとくから」
「う、うん。ごめんね」
「何言ってんの姉さん。わたし謝られるようなことしてないんだけど。どうせなら他の言葉が聞きたいでーす」
「あ……ありがとう」
「うん。それでよし」
悪戯が成功した子供みたいな笑顔を残して、萌葱は部屋を出て行ってしまう。彼女のおかげで、少しだけ落ち着いてきた。制服に着替えながら、長い息を吐き出す。憂鬱な気分を今のうちに全て落としておきたかった。けれどそんなにすぐには気分を切り替えられない。また泣き出してしまうことがない程度に冷静になって、萌葱が待っていてくれているリビングへ向かった。
私は朝食を食べ、目を冷やして温めてから、家を出た。萌葱は心配をしてくれていたものの、なにも聞いてはこなかった。本当に、しっかりしている妹だと思う。私も彼女のようにしっかりしていれば、こんなことにならずに済んだのだろうか。そんな後ろ向きな考えを、首を振って掻き消す。
紫苑先輩に会うのが、少しだけ怖い。駅に向かっている私の足取りは重かった。夜、甲斐崎さんが言っていた言葉を思い出して気持ちは僅かに軽くなる。大丈夫だ。あの世界で死んでも、全ての記憶を失うわけではない。深呼吸をして、私は目の前の三日駅を見上げた。時間を確認してほっと胸を撫で下ろす。ゆっくり歩いてしまったから、電車に乗り遅れてしまうかもしれないと思ったけれど、まだ間に合う時間だった。
私のせいで、と思えば思うほど暗い気持ちになってしまうため、別のことを考える。駅のホームに着いて電車を待ちつつ、私は頭の中で紫苑先輩に何を言うべきか思案していた。まず、挨拶をして、それからあの世界でのことを謝る。どう謝ればいいだろう。これから私達はどうすればいいのだろう。思考を巡らせていると、待っていた電車が到着した。集中していると時間の流れは早いものだ。いつものように乗り込んだら、椅子の側面に寄りかかっている紫苑先輩を見つけることが出来た。
眠たげな美貌に見惚れている場合でも、緊張している場合でもない。早く声をかけなければ。
私は彼の隣に立ち、震える手を握り締めて、いつものように明るい声で挨拶をした。
「先輩、おはようございます」
私が乗ってきたことに気付いていなかったのか、声をかけられた彼は眠そうな瞼をはっと持ち上げた。涼しげな瞳がこちらを向く。騒ぐ心臓の音を五月蝿いと思いながら、彼に続ける。
「昨日は、すみませんでした」
私は、おかしかった。彼に見つめられたら、胸が高鳴って幸せな気持ちになることばかりだったのに、今日は違う。冷たい瞳が、どこか戸惑いを宿したその目が私を怪訝そうに突き刺していて、胸が締め付けられる。足が、震え出す。
私がなぜ謝っているのかすら分かっていないような顔のまま、紫苑先輩は冷たく、呟きのように一言だけを返してきた。
「人違いじゃないかな」
なんで。
――なんで、ですか、紫苑先輩。どうしてそんな目で私を見るんですか。
口に出して問いかけずとも、その理由は分かっていた。だからこそ、なんて無情で理不尽なのだろうと、運命を呪いたくなる。
氷で出来た刃みたいな視線を彼はそっと外して、流れていく景色の方に向いてしまう。いつものように私を見てくれない。笑ってくれない。おはよう浅葱って、言ってくれない。これは、自業自得なのだろうか。紫苑先輩が失ったのが私の記憶でよかった、そう思ったらいいのだろうか。
私は、そんなこと出来るわけがなかった。せっかく近付けたというのに、紫苑先輩が私と過ごした時間は全て夢だったみたいに、簡単に消えてしまった。あの思い出は、楽しかった日々は、全部私の中にしか残っていないのだ。
涙が溢れ出して、堪えられずにしゃくりあげる。それに気付いたらしい先輩の声が、更に呼吸を苦しくさせた。
「あのさ、目立つんだけど」
冷たい。声も、言葉も、そこに乗せられた感情も、全てが私を拒絶している。全てが、私を貫いていく。既に穿たれていた心はなおも抉られる。
逃げ出したい。けれど、逃げ出せるわけがない。ここで逃げ出せば、もう彼と関わることが出来ないように感じていた。これが最後になるような、嫌な予感がしていた。
嫌だ。紫苑先輩と一緒にいたい。先輩と行きたい場所が、まだまだ沢山ある。先輩に伝えたい言葉が、まだ伝えられていない。だから、離れたくない。もう一回、彼の優しい声が聞きたい。もう一回、あの声で「浅葱」って呼んで欲しい。そんな叶わないであろう願いを胸に抱きながら、私は顔を上げた。先ほどの彼の言葉を否定しようとしたけれど、嗚咽のせいでうまく言葉にならない。
「……じゃ、ない、です」
今、言わなければ。今否定しなければ。自分で自分を急かすせいで舌がもつれる。電車が揺れて、私は舌を噛みそうになった。ゆっくり冷静になり、すうと息を吸い込む。
「同じ高校だよね。とりあえず電車降りて別の場所で――」
「人違いじゃ、ないです……!」
停車の揺れに乗じて、私は紫苑先輩の胸に飛び込んだ。軽く突き放されて転びかけたが、手首をぐいと引かれたおかげで転ばずには済んだ。優しさの欠片もない力加減で引っ張られるまま、私は電車を降りる。
改札を抜けて駅を出るとすぐ、紫苑先輩に掴まれている腕を引っ張った。
「呉羽、紫苑先輩」
フルネームで呼びかけると、彼は私から手を離し、目を細めた。不審そうな目に、私の肩が小さく震える。
「なんで、僕の名前」
「――私の記憶だけがないんですか? それとも偽物の月の世界の記憶もありませんか?」
涙を拭ってから紫苑先輩に目をやると、彼は瞠目していた。今日初めて、彼が私に興味を抱いたようだ。さっきまで面倒くさそうに斜視されていたというのに、今は真剣な眼差しに射抜かれていた。
「君も能力者なのか」
「はい。私は、宮下浅葱と言います」
「……宮下、浅葱……」
紫苑先輩が小さく私の名前を繰り返す。名前を聞いて思い出してくれればいいと思ったけれど、そんな都合の良い話はないようだった。沈黙の後、私は続ける。
「私と紫苑先輩は協力者でした。夜のこと、覚えていませんか?」
「夜……、っ……」
思い出そうとして視線を彷徨わせてから、紫苑先輩は額を押さえる。夜のこと、だけでは思い出せないかもしれないと思い、私は詳しいことを話し出した。
「紫苑先輩は蘇芳ちゃんが『ウサギ』だと分かって、夜、彼女と話したんです。でも――」
「ごめん、少し、黙って」
どこか苦しげな声に、心配になる。先輩は額に手を当てたまま俯いていたけれど、少しして顔を上げると私を一瞥してから歩き出す。
どうやら駅前のファストフード店に向かっているらしく、懐かしいなと微笑してしまった。紫苑先輩は覚えていないだろうが、初めて会った時も話をするために入店したのだ。
彼との出来事を振り返ったら、虚しさが込み上げてくる。また泣きそうになっていることに気付いて、何とか涙を堪えた。
カウンターで水をもらってから窓際の空いている席に紫苑先輩が腰掛け、私は彼の向かい側に座った。彼は水を一口飲んでコップを置くと、小さく吐息を漏らす。
「……一応、覚えているよ。僕が蘇芳と話したことは。けど話したって言うより、彼女の話を聞いていただけに近い、のかな。その後どうなったかは……思い出せない。彼女が、叫んでからの記憶がすごく曖昧だ」
「蘇芳ちゃんが叫んだ後、彼女は私を貫こうとしたんです。先輩は私を庇って……」
「僕が、君を庇った? ……君のことは、なにも思い出せないな」
思い出せない記憶を無理に思い出そうとするたびに頭が痛むのかもしれない。紫苑先輩は、私が何かを思い出させようとすると顔を顰めていた。自分のことを思い出して欲しいけれど、彼を苦しめてまで思い出させたいとは思えない。どうすればいいか悩みながらも、それでも私は、私と紫苑先輩との間にあった出来事を何か一つでも思い出してくれればいいと思って、出会ってからの話を少しだけ話し始めた。




