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喪失1

     ◇


「紫苑先輩……! 紫苑先輩ッ!!」


 倒れたまま、紫苑先輩はなにも返事をしてくれなかった。伏せられた瞼は持ち上げられない。動かない唇の隙間からは息が漏れていない。


 なにもかも、勘違いだと思いたかった。この血は偽物で、先輩は私を驚かせる為に死んだフリをしている。そう、思い込みたかった。嘘だ。こんなのは、嘘だ。


 揺する気力さえ失った私の肩に、優しく手が置かれる。顔を向けてみたら甲斐崎さんと目が合った。やるせないその表情が、私の胸を締め付ける。


 どうしたらいいか分からないままに紫苑先輩を見つめた。無駄だと分かっているのに、彼の名を呼んでしまう。叫んでしまう。少し気を失っているだけで、いつか返事をしてくれるのではないかと、ありもしない希望に縋る。そんな私を甲斐崎さんが呼んでいたような気がしたけれど、彼の声は風の音みたいにすり抜けていった。


 力の入らない指先で紫苑先輩の手に触れる。この手が、私の手を握り締めてくれたなら。先輩が、私に「大丈夫だよ」って微笑んでくれたなら。私はすぐさまその胸へ飛び込むというのに。


「っ宮下」


「――紫苑くん!」


 響いたのは、東雲さんの声だ。怒声に近い叫びは私に息を呑ませる。東雲さんは先輩の傍に肩膝を突くと、動かない彼の肩を揺すって何度も声をかける。私は東雲さんに、首を振ってみせた。


「もう、だめなんです」


「……どこまで馬鹿なんですか君は……ッ!」


 静かな怒りを紫苑先輩に叩きつけて、東雲さんは舌打ちをしてから立ち上がった。彼の目が見つめているのは先ほどまで蘇芳ちゃんが立っていた場所だ。今、そこには円柱のような塔が立っている。


「朽葉くん、浅葱さんを任せましたよ」


「えっ、東雲さんはどうするんすか!?」


「私は、蘇芳さんのところへ向かいます。君達はここにいてください」


 甲斐崎さんと東雲さんの会話は、あまり頭に入ってこない。視界で先輩の髪が揺れて、私は彼に詰め寄った。もちろん、風の悪戯だ。期待した分だけ虚しさが胸を占拠して、うまく呼吸が出来なくなる。


「紫苑先輩……っ、ごめんなさい」


 私のせいなのだ。私が我侭を言わなければ、こうはならなかった。私がこの場にいなければ、蘇芳ちゃんはきっと誰かを殺そうとしなかった。彼女はただ救いだけを求めていたから。彼女は、優しい子だから。私がいなければこんなこと、しなかったはずなのに。


 紫苑先輩。起きてください。全部、全部嘘だって言ってください。その血も傷もなにもかも全部偽物なんだって、言ってください。


「紫苑先輩っ……!」


 声が、ひどく掠れていた。何回彼の名前を叫んだか分からない。何回叫んでも、彼の声は聞こえなかった。彼はなにも、返してくれない。私は認めたくなくて、もう一度叫ぼうとして――。


「浅葱!!」


 呼ばれた名前に、一瞬息を詰まらせた。私の両肩を掴んでいるのは、甲斐崎さんだ。私を浅葱と呼んだのも、甲斐崎さんだった。似ても似つかない声なのに、どうして紫苑先輩かもしれないと期待してしまったのだろう。


「かい、ざきさん……」


「もうやめろよ。大丈夫だから、そんなに自分を責めるんじゃねぇよ。誰も悪くねぇんだ。それに、こっちで死んでも本当に死ぬわけじゃない。安心しろ。元の世界で、ちゃんと呉羽は生きてる。忘れるのは死ぬ直前の記憶だって聞いたことがあるし、大丈夫だ」


「本当に、大丈夫、ですか……?」


「ああ。きっと……いや、絶対に大丈夫だ。だから、もう泣くなよ。朝になったら呉羽んとこ行って、謝ればいいだろ。そしたらきっとあいつも、お前のせいじゃないって笑うはずだぜ」


 潤んだ瞳で見つめていると、甲斐崎さんの目も泣き出しそうだった。それなのに、私を安心させるように笑っている。声を出そうとした私は、甲斐崎さんに抱きしめられた。


 大丈夫だ。そう、何回も何回も落とされる。溶け込んでいく声は、甲斐崎さんの堪えた涙が零れてきているみたいだった。


 温かい体に抱きしめられて、私は慟哭する。嗚咽を漏らしながらも、私はまだ、紫苑先輩を呼んでいた。


     ■


 紫苑の目が、昔からずっと嫌いだった。


 黙って俺の絵を凝望する硝子珠みたいなその目が、「綺麗だ」と言っているのは嫌でも伝わってくる。


 俺はそれが気に食わなかった。腹が立った。見下しているのか、馬鹿にしているのかと怒鳴りつけてやりたかった。弟の目は尊敬と言う名の絵の具でしか塗られていないのに、汚い絵の具で塗られた俺の目では、綺麗なその目も黒ずんで見えてしまっていたのだ。


 お前の方が綺麗な絵を描くくせに、お前の絵の方が輝いて見えるのに、お前の絵の方が、人を笑顔に出来るのに。どうして俺の汚い絵に羨望の眼差しを向けるのか全く理解出来なかったし、その視線が、憎くて堪らなかった。


 俺の絵を綺麗だとか褒める両親は、紫苑の絵を見ても「凄い」「よく描けたね」など、小さな子供にかけるような言葉しか与えない。それどころか母親は俺の部屋の前に来て「紫苑、紫土に憧れてるの。今度絵を描くコツとか教えてあげたら?」なんて言い出した。


 それが俺の耳を突き抜けた直後、繕い続けた心が軋み、隠し続けた泥まみれの絵の具が、罅割れた仮面から溢れ出す。


 俺は、止まれなかった。自分を止められなかった。口汚く母を罵って、そんな俺に怯えて後ずさったその肩を、突き飛ばした。


 ――あんたも親父も死ねばいい。俺の絵を褒める奴なんてみんな死ねばいい。俺の表面しか見ないくせに、俺を本当に愛せないのに、弟なんて産んでんじゃねぇよ。その弟の才能も認めてやれないあんたなんか、自分の才能に気付かない紫苑なんか、そのまま死んじまえばいいんだ。


 怒鳴って、喉が痛むくらい叫んで、気が付いたら目の前に母はいなかった。目の前は、階段。俺は銀色の光につられ、ゆっくりと階下を見下ろす。


 煌めいたのは、母の耳に嵌められたピアスだ。その銀のカードに、赤色が添えられていた。


 はっとして、階下をもう一度しかと見入る。血を流して倒れる母の姿と、何が起きたのか分からないような顔で俺を見上げる紫苑の姿が、そこに在った。


「……ち、がう」


 慌てて口から飛び出した言葉は、何を否定したかったのだろう。紫苑に死ねばいいと言ったことか、母を罵った自分の本性か、それとも――母を、突き落としたことか。


 紫苑がリビングの方へ駆けていく。それから少しして戻ってくると、今度は階段を駆け上がって、立ち尽くしたままの俺に震えた手を伸ばした。震えているくせに、怖がっているくせに、細い腕で俺を抱きしめる。


 やめてくれと叫びたくなる。今の俺は、こいつも突き落として壊してやりたかった。なのに突き飛ばせない。起き上がらない母を見つめたまま、体が動かない。


 そんな俺に紫苑が言った。


「救急車呼んだから、大丈夫だから。母さん、きっと助かるから。大丈夫……大丈夫なんだ」


 今にも泣き出しそうな情けない声。俺を落ち着かせるために強がっていることは、すぐに分かる。馬鹿にして笑ってやりたかった。けれどその声が、麻酔みたいに俺を鎮めていた。


 この時初めて弟を、家族を、愛おしいと思ったかもしれない。


 結論から言うと、母は助からなかった。階段から足を滑らせて死んだ、ということになっている。俺が突き落としたなんて言えなかったし、紫苑も俺のことは何も言わなかった。ただ、ごめんとだけ言われた。


 何について謝られたのか、当時の俺も、今の俺でさえ、分かっていない。


 それから父が自殺をしようとして、祖母に止められた。そんな父に対する祖母の説得を偶然聞いてしまっていたらしい紫苑は、母のことを忘れないように、ずっと背負っていけるようにと形見を身に付け始めた。父はというと、俺達に無関心になって、ただ仕事をする機械みたいに生きるようになった。


 俺は、母が死んだ時のことを、心の奥――黒い絵の具の中に仕舞いこんだ。


 俺がおかしくなったのは、中学三年生の頃だ。しかし中学時代は、落ち着いていたと思う。美術部に入り、そこで彼女が出来た。告白したのは俺の方で、彼女は「その言葉を待ってた」と笑ってくれた。


 好きになったきっかけは、初対面時に彼女が、俺の絵を汚れていると言ったことだった。言うつもりはなく、つい零してしまった言葉だったようで、すぐに謝られた。けれど俺は気を悪くせず、むしろ情けないことに目を潤ませてしまっていた。


 泣かせてしまったと思って慌てる彼女に、俺は笑ってありがとうと言ってから、一秒もかからず友達になっていた。


 聞いてみると、彼女は俺の絵を「勿体ない」と思ったのだという。一目見て上手いということは分かるが、筆遣いが泣いているようだと言われた。明るい絵の具を塗っているのに仄暗い。見ていて胸が痛む、あまり好きじゃないとはっきり言う彼女に、恋心を抱かないわけがなかった。


 彼女も絵は上手かったが、デッサンなど全く気にしない独特の世界観を描くものだから、教師も部員もあまりよく思っていなかった。俺は、その明るく幻想的な紙上の世界が、彼女自身の笑顔を見ているようで、大好きだった。


 彼女と交際してから、俺の絵は少しずつ変わっていったらしい。


 どんどん明るくなっていくね、今の紫土の絵、すごく好きだよ――そう言われると、もっと綺麗な絵を描きたいと思えた。


 中学三年の秋。中学生の絵画のコンクールが行われた。俺と彼女は、そこで勝負しようと言って、お互いそのコンクールの絵が描き終わるまで距離を置くことにした。多分、勝負しようなんて言ったことが間違いだったのだ。どれほど俺が彼女の絵を上手いと思っていても、どれほど俺が自分の絵を汚いと思っていても、周りはそうは見ない。


 俺は金賞、彼女は、入賞しなかった。


 何も言えず、何も出来ず、彼女と顔を合わせないまま冬になる。


 そして彼女が自殺したという話を顧問から聞かされ、俺は――その全てを切り離すことにした。


 彼女になんて『俺』は会ってないし、『俺』は恋人なんていなかった。これは俺の記憶じゃない。こんなこと、俺は知らない。何も、知らない。


 胸の奥深くに押し込んでいた黒い絵の具の蓋を開け、そこに彼女のことを全部詰めて蓋を閉めた。


 それから俺の絵はまた汚れ、彼女に教えられた本当の優しさすら分からなくなって、繕うたび叫び出したくて、家で堪えた全てを叫んだ。叫んで、叫んで、気が付いたら、紫苑を殺そうとしていたことが何度もあった。苦しげに、けれど俺を受け入れているその顔立ちが母とよく似ていて、血を流したまま動かなくなった母を思い出して、逃げ出す。そんなことを何度も繰り返した。吐き出すのも辛くなり、その代わりにノートに日記を付けるようになり――俺は、あの黒い絵の具が人格として形成されていたことを知る。


 絵を褒められるたび母を思い出し、女性を見るたび彼女のことが頭を過ぎり、弟を見るたび母の姿と重なり、吐きそうになる。堪えきれなくなると人格が入れ替わる。


 人格交代は、基本人格を心のダメージから守るために行われることが大半だ。自分を偽り、毎日のようにストレスを溜め込んでいる俺は、毎日のように俺じゃなくなって、弟を傷付け続けていた。


 いつも、弟だけは俺の味方だったのに。こんな俺の本性を知っても、弟だけは俺を突き放そうとしなかったのに。


 けれどきっと、そんな紫苑が俺と違いすぎて、眩しすぎて、怖くて。同じ人なのだと認めたくなくて。俺の汚さをこれ以上知りたくなくて。壊したいと――殺したいと、思い続けていたのだろう。


 毎晩過去に思いを馳せ、常々思う。どうやったら、また家族愛を感じられる? どうすれば、俺は弟を弟として見られる?


 答えはいつも同じだ。黒い絵の具を捨ててしまえばいい。その黒い絵の具の存在を、消してしまえばいい。俺の中からも、紫苑の記憶の中からも。


     *


 紫苑が死んだ。それを見てすぐに、俺は駆けていた。蘇芳が逃げ場として建てた塔の中へ、足を踏み入れる。薄暗いそこにあったのは、上へ続く螺旋階段だけだ。これを上り終えた先に蘇芳がいるのかと思うと、くそと吐き捨てたくなる。元の世界に戻される前にここを駆け上がり、蘇芳を殺す。そう自分に言い聞かせて、俺は階段に足をかけた。


 上って、上って、上って。俺は暇潰しのように過去を振り返っていた。主人格あいつが切り離した過去を脳裏に浮かばせて、まるで走馬灯のようだと苦笑する。蘇芳を殺せば俺は消える。主人格と一つになる。主人格がそう決めたのだから、俺は拒む必要は無い。俺は、主人格の為に存在しているのだから。


 捨てたくなるほど嫌な過去ばかりに思いを馳せて、気分は沈んでくる。狂気が湧き上がってくる。これでいい。別人格おれは主人格の望みを叶える凶器でいいのだ。主人格の思いが強くなって俺が消えてしまう前に、せめてこの世界から日常に戻してやりたい。


 上って、上って、上って。ようやく辿り着いた小部屋に、蘇芳が一人でいた。部屋の中にはなにもない。階段の正面――部屋の奥の壁に窓のような穴が空いていて、それに取り付けられた格子は檻を連想させた。


 蘇芳はその窓の外を眺めたまま振り向かない。すすり泣く声だけが響いていて、俺に気付いていないのかもしれないと思った。好都合だ、とばかりに影を操る。そうして無防備な背中に黒い刃を伸ばそうとしたが、鮮血を散らす前に俺の体が吹き飛ばされた。


 気が付けば俺は部屋の壁に背を叩きつけ、床に転がっていた。体を起こしてみると、流石に気付いたらしい蘇芳が涙の溜まった瞳で俺を見ている。


 それに舌打ちを漏らして階段の方を振り返れば、案の定、そこに立っていたのは東雲だ。奴は、くすり、と性格の悪そうな笑いを静かな室内に響かせた。


「君の計画は、どこから狂っていたと思いますか?」


 その問いは俺にかけられたものなのか、蘇芳にかけられたものなのか分からない。けれど、俺と蘇芳を凍りつかせるには充分すぎる冷たさだった。

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