ウサギの声3
◇
昼休み、私はいつものように鞄を持って教室を出ようとする。いつもは一日中、先輩以外の誰にも声をかけられないから、「宮下さん!」と呼ばれて驚きのあまり猫みたいな声を上げるところだった。
教室の入り口の傍で足を止めて振り向くと、文化祭の一日目に受付をしていた二人の女子生徒が私に手を振っている。戸惑いつつも、私は愛想笑いを返して頭を傾かせ、呼ばれた理由を無言のまま訊く。どう言葉にすればいいか分からなかったのだ。臆病な心のせいで私はここから走り去りたいらしく、足が少しだけ震えていた。
「ねぇ、お弁当一緒に食べない?」
かけられた言葉に、私の震えが治まった。きょとんとしたまま彼女達を見つめたら、にこにこと微笑まれる。
とても嬉しい誘いだったが、私はこれを断らなければならない。もしここに紫苑先輩がいたらきっと、彼女達と食べたらどうかと言いそうだけれど、今はここに先輩がいない。それに、先輩と一緒に食べたいと思う自分がいて、せっかく向けてもらえた優しさのやり場に視線を彷徨わせた。
「えっと……」
どう断れば、嫌な奴と思われずにここを離れられるだろうか。良い言葉が出てこない。二人は優しい目をして私の言葉を待っていてくれているのに、今この空気が少しだけ苦痛だった。
「あ、ありがとう……。でも、その、私」
「あっ、もしかして他に一緒に食べる人いる!?」
私の言い方から察したように、はっとしたような顔をされる。私はゆっくりと、小さく頷いた。すると今まで黙ったまま微笑んでいてくれた方の子が、額に手を当てて「あちゃー」と大袈裟に言った。
「先約があったか~……。いきなり誘っちゃってごめんね!」
「う、ううん! 私こそ、ごめんなさい。誘ってもらえて、嬉しかったよ……!」
「そかそか! じゃあ、また話そうね!」
大きく手を振られた私は、小さく振り返して教室を飛び出した。教室の外に出て少し歩くと、あの二人の声が聞こえてくる。「宮下さんってさ」という言葉にどきっとして、足を止めてしまった。私の名前の後に、どんな言葉が続けられるのだろう。やはり断るべきではなかったのだろうか、などと後ろ向きにばかり考えていると、予想外の発言が聞こえてきた。
「ほんと可愛いよね!」
恥ずかしさで赤くなった顔を咄嗟に隠したけれど、昼休みは皆教室で昼食を食べているため、幸い廊下の人通りは少ない。しばし固まっていたら、あの二人はまだ私の話をしているようだった。
「私、一年生の女子で一番可愛いの宮下さんだと思ってるよ。あれはやばい、撫でたくなる」
「分かるけど! 撫でちゃ駄目だよ!?」
「じゃあ抱きしめる!」
「もっと駄目だから!」
流石にそろそろ耐え切れなくなって、私は早歩きでその場を離れた。紫苑先輩を待たせていることを思い出し、足を進める速度を上げていく。
頭が上手く回っていない状態で階段を駆け上がって、屋上の扉におでこをぶつけてしまった。そんな自分に苛立ち、「っ、もう!」とつい声に出してしまった。
ふうと深呼吸をしてから扉を開けると、フェンスを背にして座り、読書をしている紫苑先輩の姿を見つける。先輩は私の方を見もせずに本を閉じて、傍に置いていた鞄から弁当箱を取り出した。
「遅かったね。今すごい音がしたけど大丈夫?」
「だ、大丈夫、です」
「……顔、真っ赤だけど平気? 顔面ぶつけた?」
「ぶつけたのはおでこですから!」
紫苑先輩の隣に座って、頬を膨らませながら鞄を漁った。弁当箱を二つ出して、小さめの箱を先輩に差し出す。
「どうぞ。美味しくなかったら、すみません」
「ありがとう。ああ、食べたいもの食べていいよ」
私と紫苑先輩の間に、先輩の弁当箱がそっと置かれた。私はすぐさま先輩手作りの卵焼きに箸を伸ばす。食べた直後「美味しいです!」と感想を叫んでいた。私の家は甘い卵焼きを作ることが多いけれど、紫苑先輩の卵焼きはだし巻き卵だ。出汁の味と卵の味がいい感じに絡み合っていてとても美味しい。
「それは良かったよ。浅葱、料理苦手なのかと思ったけどそうでもないんだね。色も形も普通だし」
「いったいどんなものが出てくると思っていたんですか」
「蓋を開けたら真っ黒、みたいな」
「得意ではないですけど、そこまで酷くないです!」
「見れば分かるよ。それにちゃんと美味しいし」
美味しい、と言ってもらえて、私はほっと胸を撫で下ろした。母や萌葱の料理に比べたら劣るだろうけれど、本当に美味しそうに食べてくれている紫苑先輩を見ていると自惚れてしまいそうだ。
私はお茶を一口飲んで、ふうと小さく息を吐き出す。
「さっき、同じクラスの子に、一緒にお昼食べないかって誘われたんです」
「……僕のことなんか気にせず、一緒に食べてくればよかったのに」
「それは嫌だったんですよ」
私がはっきりした声で言うと、紫苑先輩は不思議そうな顔をして私を見ていた。今の先輩が考えていることは、なんとなく分かる。同い年の友人と一緒にいた方が良い、自分と仲良くするよりクラスメートと仲良くした方が良い、といったようなことを考えているのだと思う。
私は、真っ直ぐに伝える。
「先輩と、食べたかったんです」
「……そっか」
「私、その子達と、友達になれそうで……嬉しいです。教室でも、友達が出来るかもしれなくて、嬉しいんです。でも、それで紫苑先輩との距離が……開いてしまうのは、嫌なんです」
紫苑先輩に抱いている感情に気付いて欲しい。そう訴えるみたいに、訥々と続けていた。先輩は無言のまま、聞いていてくれていた。しんと静まったことで微妙な空気になっていることに気が付いて、私は話を変え始める。
「紫苑先輩、テストって来週でしたっけ?」
「……テスト? いや、来週がテスト一週間前で、再来週がテスト期間だった気がするけど」
「じゃあ、待宵に行くのは、テストが終わった後の土曜日でどうでしょうか?」
「いいよ、そうしようか」
やった、と心の中で喜びつつ、私は手帳に予定を書き込んでいく。じっと十月の予定を眺めてはっとしたように「あ!」と声を上げた。その声に目を丸くしている紫苑先輩に、ずいと近寄る。
「あと、その次の週の土曜日も、空けておいてもらえないでしょうか!」
「ああ、うん。まあ、用事とか入らないだろうから大丈夫だと思うけど」
「良かった……! 先輩との予定がどんどん増えていって、嬉しいです。楽しみにしていますね!」
先輩が頷いたのを見てから、私は食事を再開する。紫苑先輩は今日も何度か私に笑いかけてくれているけれど、何かに悩んでいるような表情が見え隠れしていた。夜、偽物の世界で何かあったのかもしれないと思うも、聞くかどうか迷いに迷って、結局何も聞かないまま昼休みは終わってしまった。
◇
授業を終えて、私と紫苑先輩は三日市を歩いていた。図書館まではまだ時間がかかる。着いてしまえばあまり大きな声で会話が出来なくなるため、楽しい話は今のうちに済ませておきたい。
私が何を話そうか考えていると、紫苑先輩から声をかけてきてくれた。
「浅葱はさ、どんな本が好き?」
「えっと……」
最近はあまり本を読まないから、今までに読んだことがある本を思い浮かべてみる。その中で好きだった本の共通点を探して、自然と空を見ていた。悩むと視線が上に行ってしまうのは私だけだろうか。すぐに前へ向き直る。
「優しい感じのお話が、好きです。紫苑先輩は、今日はどんな本を読もうと思って図書館に?」
「新聞」
思わぬ回答に、私は言葉に詰まった。新聞。きっと、新聞というタイトルの作品があるわけではないのだろう。本当に新聞を読むつもりなのだと思う。
紫苑先輩はよく暇潰しと言いながら国語の教科書を読んでいたりするから、新聞も普段から暇潰しとして読んでいるのかもしれない。
「えっと……紫苑先輩、お父さんみたいですね」
「は?」
「あ、いえ、その、なんでもないです。授業の課題かなにかで調べもの、ですか?」
「調べもの、ではあるけど、別に授業は関係ないかな」
授業以外で調べものをする理由は全く想像がつかなかった。
それから、他愛もない会話を交わしながら歩いて、私達は図書館に入った。後で合流することにして、紫苑先輩と別れる。
沢山の棚、沢山の本を見回す。新聞が置いてあるのは一階だから、私も一階で面白そうな本がないか探していた。けれど授業で疲れているせいか文字を読む気分にはなれなくて、ふと見つけた猫の写真集をぱらぱらと捲る。
この猫可愛いな、と思うのは普通だと思う。この猫は紫苑先輩に似ているな、と思って口元が緩み、私は慌てて写真集を閉じた。何をしていても彼のことばかり考えてしまうなんて、恋というものは実に厄介な病だ。
軽く額を押さえて自分に呆れてから、別の棚の方へ歩き出す。最近気になっている本などはなくて、並んでいる背表紙に手を伸ばそうとしなかった。こんなに本があるのだから面白い本も沢山あるのだと思う。けれど沢山ありすぎて、どれを読もうかと悩むだけだ。
本を選ぶ理由は、きっとなんだっていい。タイトルが気になったとか、あらすじが面白そうだったとか。けれど優柔不断な私は、どれも面白そうだなと思って、どれにも手を伸ばさない。背表紙を見ていくだけで満足してしまっていた。
今度紫苑先輩にオススメの本を聞いてみようと思いながら、先輩がいるであろう、新聞が置いてある棚の方に向かう。
ちょうど読み終えたのか、新聞を棚に戻している先輩の姿が見えた。どうやら目的の記事を見つけられたようで、他の新聞を手に取ろうとしない。私を探しに行こうとしてか、歩き出した彼と目が合った。
周りを気にしながら、囁くような声で私は問いかける。
「もういいんですか?」
「ああ、少し確認したいことがあっただけだからさ。君は?」
「私は、特に読みたい本とかなくて」
「そっか。じゃあ……外、出よう」
紫苑先輩は真剣な顔をしたまま足を進める。私はその背を追いかけた。真面目そうな表情を浮かべていることや無表情が多い先輩だけれど、今日はいつもとは何かが違う気がした。普段の先輩の目が研ぎ澄まされた刃なら、今日の彼の刃は欠けてしまっている。鋭さはあるけれど、時折垣間見える危うさが私を不安にさせていた。
図書館を出て、駅に向かって歩きながら、先輩が私を見た。少し伏せられた瞳に、長い睫が影を落とす。先輩は、眩しい夕陽に溶け込んでしまいそうな微笑を浮かべた。
「浅葱。……僕は今日、『ウサギ』と話そうと思うんだ」
言うかどうか、悩んでいたのだろうか。意を決したように私の名を呼んでから、不自然な間があった。
珍しく葛藤しているのがその目を見てすぐに分かり、私はどう返すべきかということに思考を働かせる。
「『ウサギ』が誰か、分かったんですか?」
「相当ヒントをもらったからね」
「……話すだけ、ですか?」
『ウサギ』は誰なんですか。とは聞けなかった。話してくれるのを待つことにして、質問を重ねる。紫苑先輩はすぐに首肯した。
「当たり前だよ。生憎僕は、他人を殺す覚悟なんて持ち合わせちゃいない」
隣を歩く紫苑先輩は溜息混じりに零した。その言葉から、嘘の響きは感じられない。
もし仮に『ウサギ』を殺すと言われていたら、私はどうしていたのだろう。咎めていたか、怖がっていたか。殺さないと言う言葉にほっとしている私がいた。
「――ただ、『ウサギ』の檻を壊す覚悟は出来た。……壊せる自信はないけどね」
ちらと先輩の顔を窺う。無理に笑っているように思えた。話すだけとは言っていたけれど、それだけでも相当な覚悟がいるのかもしれない。先輩は色々なヒントから『ウサギ』を特定した。それはつまり『ウサギ』のことを色々と知った、ということに繋がる。
『ウサギ』があの世界を造るに至った理由。私達能力者に何を望んでいるか。きっとそれらを理解した上で言葉を交わし、あの世界を消すよう説得するのだろう。『ウサギ』のことを全く知らない私は、先輩が何を一人で抱え込もうとしているのか察することすら出来なかった。
私と紫苑先輩の靴の音だけが沈黙を埋める中、勇気を振り絞って「紫苑先輩」と呼びかけた。
「私も、力になれませんか?」
「……君には遠くで元の世界に戻るのを待っててもらいたいんだけど」
「嫌です」
即答してみせたら、紫苑先輩は驚いたようだった。けれど先輩よりも自身の方が吃驚している自信がある。迷惑になることくらい分かっているのに、先輩を困らせたくないのに、私は我侭を連ねた。
「もう、そうやって遠ざけられるのは嫌です。目の届く所にいてって言ったのは、紫苑先輩の方です。それに私、先輩の傍にいるって言いました。先輩の前からいなくならないって、勝手に死んで記憶を失うこともしないって、言いました。だから――」
もう口を塞いで。それ以上喋らないで。それ以上紫苑先輩に迷惑をかけないで。――そう思うのは、本音なのかどうか、自分ですら分からなくなる。
「傍に、いさせてください。私だって、『ウサギ』と話がしたいです」
止まることは叶わなかった。きっと、これが本心だ。我侭なのが、私なのだ。利口な良い子でいることが出来ないくらい、私はこれ以上彼に離されたくないと思っている。
紫苑先輩の表情は一見無表情にも見えるが、私の目には困っているように映っていた。嫌われるかもしれない。前言撤回しなければ。しかし私の口は一向に動こうとしない。だというのに眼だけはひたすら彷徨っていた。
そんな私をどう見たのか、先輩の手が優しく頭に置かれて狼狽える。
「協力者として隠し事はするべきじゃないと思って話したけど、話さない方がよかったかな」
「そんなに嫌なんですか? 私と一緒にいるのが」
喋れば喋るほど、自分の嫌な部分が露呈していく。自己嫌悪のあまり口を縫い付けてしまいたくなる。自分の爪先を睨んでいると、優しい声が風に乗って耳を撫でた。
「今日は、君を連れて行きたくない。けど君を任せられるほど信用出来る人もいなくてね。一番安全そうなのは……東雲かな」
「私、夜になったらすぐに先輩のもとに向かいますよ。誰に止められても絶対に」
静かに叫ぶ。駄々をこねる幼子みたいな自分を罰するべく、私は手の平に爪を立てた。拳を震わせていたら、「じゃあ、さ」と諦めたように呟かれた。
顔を上げて見れば、紫苑先輩と目が合う。彼の口元は綺麗な弧を描いているのに、その目はどこまでも真っ直ぐで鋭く、吸い込まれそうなくらい綺麗だった。目を離せずにいると、先輩が顔を逸らす。
「もし僕が君の名前を呼んだら、その目を閉じてその耳を塞いで」
「え……?」
金木犀の甘い香りと一緒に、甘く柔らかな声が私に溶け込んでいく。けれども溶けたそれは、私の心臓を揺らがせ、私から言葉を奪う。もし。今夜、もし私が彼に名を呼ばれるとしたら、私は何を目にしているのだろう。彼は『ウサギ』を殺さないと、話すだけだと言った。だがもし説得出来なかったら、殺すつもりなのではないだろうか。
「君に、酷いモノを見せたくないから」
続けられた言葉は、私の不安を更に掻き立てる。返す言葉を見つけられないでいる私の肩に、紫苑先輩が触れた。迷子みたいな情けない顔をしている私に、先輩がくすりと笑って軽く肩を押す。
「浅葱、ここまででいいよ。駅までは一人で行けるからさ」
一度止まってしまった足は、釘が刺さったみたいに動かなかった。「それじゃあ、夜に」と言い残して離れていく背中に、手を伸ばすことすら出来ない。臆病な私は、渡された彼の優しさをどこに収めればいいか、定められずにいた。




