秋の夜の月6
私は二口目を口に運び、じっくり味わう。口腔に広がる甘さで顔を綻ばせていたら、レアチーズケーキを見つめていた紫苑先輩が、何かを思い出したように真剣な顔をしていた。
「兎って声帯がないんだってね」
いきなりそんなことを言われても、きょとんとする他なんの反応も示せない。口の中のものを飲み込んだ後、私は首を傾げた。
「そう、なんですか?」
「らしいよ。……あの世界を造った『ウサギ』が兎を名乗ったのは、泣きたいのに泣けないことを、誰かに気付いてもらいたいからなのかな」
ぼうっとしたような目で、先輩はレアチーズケーキをつつく。白いクリームの上に乗せられた赤い苺。それにフォークが突き立てられる。
私は紫苑先輩を真っ直ぐ見据えた。
「紫苑先輩、もし『ウサギ』が分かったら、どうするつもりなんですか?」
「……さぁ、どうだろうね」
「紫苑先輩が月白さんになにもしなかったのって、やり返すなんて下らないと思ったからですか? それとも、月白さんにやり返しても仕方ないと思ったからですか?」
「君が何を心配しているかは知らないけど、僕は『ウサギ』を殺すつもりなんてない」
紫苑先輩は周りを気にしてか、溜息混じりの小さな声で言い切った。その言葉に嘘偽りはきっとない。しばし真剣な視線を交わらせ、先に先輩が目を逸らす。「ごめん」と唐突に謝罪をされて私は当然面食らった。
「せっかく楽しもうって言ったのに。何を話せばいいか、分からなくて」
「い、いえ。私の方こそごめんなさい」
「君といるのは気が楽なんだけど、どうしても黙ってしまうんだよね。喋らないのが癖みたいになっているせいでさ」
ケーキの甘い香りで満たされている中、紫苑先輩の声すらも甘い響きで聞こえてきた。今耳を通った言葉を頭の中で反芻して、つい彼に詰め寄ろうとする。もちろん机があるおかげで実際に詰め寄ることは出来ず、顔を寄せるだけに終わってしまう。
「私といるの、楽しいですかっ?」
「まあ……そう、かな」
「嬉しいですっ。私も、紫苑先輩といるの楽しいですよ!」
わざわざ言葉にせずとも、きっと伝わっていただろう。楽しい思いは私の顔いっぱいに広がるだけでは飽き足りなかったようだ。
紫苑先輩の顔が他所を向く。私のだらしなく緩みきっている顔を見ていたくなかったのかもしれない。けれど楽しいのだから仕方が無かった。笑うのをやめろと言われてもやめられる自信はない。それくらい、楽しい。
このままずっと紫苑先輩の傍にいられたら幸せだろうな。――その思いを、苺のタルトと一緒に飲み込んだ。
「食べ終わったら、どこに行く?」
「とりあえず、三階をじっくり見て回ってから、四階を見て、二階を見て……体育館も見に行きましょうね!」
「はは、疲れそう」
光が失せた瞳で乾いた笑いを漏らされる。むっとした私はついテーブルを叩いて立ち上がってしまった。
「……そんな顔しないで下さい」
周りから視線が飛んできて恥ずかしくなり、私はぽつりと零す。いじけた子供みたいな声が口から飛び出して、更に恥ずかしくなった。顔が赤くなっていくのを感じていると、先輩が席を立った音が耳を打つ。
「冗談だよ。校舎中を見て回ろうって言ったのは僕なんだから。――そろそろ行こうか」
紫苑先輩が手を差し出したのは何故か、すぐに分からなかった。理由を目で問いかけるために彼の顔を見ると、彼は不機嫌さと気恥ずかしさが混ざったような微妙な表情で自分の手を睨んでいた。
手を取った方がいいと判断して、悩みながらもその手に触れる。と、先輩が私の手をすぐさま握って店の外へ歩き出した。
「今日は繋いでてあげるって言ったの、忘れてた? 鳥頭はこれだから困る」
「あっ……わ、忘れてなんか無いですよ!?」
忘れていた、なんて口が裂けても言えない。先輩といられるだけで幸せだったから忘れてしまっていたのだ、なんてもっと言えない。慌てて「違うんですよ」などと弁解になっていない弁解を繰り返しながら、私はこんなやりとりでさえ楽しいと思っていた。
◇
それから一緒に色々な店を回った。飲食店が多かったため、食べ過ぎてしまった気もする。カレーもスパゲッティも美味しかった。今は一階で百人一首対決を終えて、賞金代わりのお菓子を食べながら廊下を歩いていた。
と言っても、勝ったのは私ではない。
「その煎餅、美味しい?」
私の横を歩く紫苑先輩は、疲れたような顔をしながら私の顔を窺ってくる。疲れているのは先ほど百人一首部の部員三人と戦ったせいだと思う。不機嫌そうにも見えるのは、三人目の相手に負けたことを悔しく思っているからだろう。
私は煎餅の入った箱を開けて、一袋取り出した。
「美味しいですよ。紫苑先輩も食べますか?」
「いらない」
「あはは……仕方ないですよ、だって部長さんだったみたいですし」
「一回戦目で負けておけばよかったよ」
多分、紫苑先輩は中途半端なことが嫌いだ。というよりも、負けず嫌いだということがよく分かった気がする。まさか百人一首で人兎に向けるような鋭い目をするなんて、予想外だった。
先輩にあげるつもりで出した煎餅を仕方なく私が食べる。箱を小脇に挟んでいない方の手を先輩に引っ張られ、階段を上り始めた。
文化祭の終了時間が近付いているからか、人は少なくなっていた。私は煎餅を飲み込み、先輩の不機嫌そうな横顔を思い出してつい笑ってしまう。
「先輩、百人一首得意なんですね」
「……まあまあ、かな」
「でも凄かったですよ。真剣な顔してる先輩、かっこよかったです」
「へえ、そう。浅葱、他に回りたいところはある? ないなら屋上に行こうと思うんだけど、いいかな」
どこか行きたいお店があるから階段を上っているのかと思っていたが、そうではなかったらしい。私は見て回った教室を思い浮かべて、首を左右に振った。後ろにいる私の首の動きなんて先輩は見えない、ということに気が付いて「いいえ」と声に出す。
「もう充分楽しみましたっ。美味しいもの沢山食べられましたし、射的と百人一首対決でかっこいい紫苑先輩を見られたので、幸せです!」
「射的でなにも取れなかったこと怒ってる?」
「お、怒ってないです! それにあれは紫苑先輩のせいじゃないですよ! 当たっても倒れなかったお菓子セットが悪いんですよ!」
「なら、いいけど」
階段を上り終えて、屋上に着いた。いつものようにその扉を開けようとして、鍵がかかっていたため、私は困ったように先輩に視線を送った。先輩は「あ」の形に口を開けたまま数秒固まって、扉の前に腰を下ろす。
「忘れてた。文化祭の日は屋上入れないんだった」
「去年はどうしていたんですか? 先輩、ずっと屋上にいそうなのに」
「担任に鍵借りてずっと屋上にいたよ」
紫苑先輩の隣に座り、膝の上に煎餅の箱を置く。まだまだ入っている煎餅をまた一袋取り出してかじる。
文化祭、夕方、屋上の三つが揃ったらロマンチックだろうなと思い、少し期待したけれど、予想通りにはいかなかった。今は私が煎餅を噛む音だけが響いていて、ロマンチックでもなんでもない光景だ。しかしこの雰囲気は、悪くなかった。紫苑先輩と二人きりなら、どこにいても、何をしていても良いとさえ思える。好きという言葉が吐息と共に出てしまいそうなくらい、私は彼が好きなのだと再確認した。
一人でにやにや笑っていると、紫苑先輩に笑われる。
「楽しそうで何よりだよ」
「先輩だって、いつもより楽しそうです」
「まぁ、授業がないからかな」
紫苑先輩らしい言葉が返ってきた。こう返してくれたら嬉しいな、という言葉はもちろんあったが、それすらどうでもよくなるくらい柔らかい彼の声が、私に笑顔をくれていた。
幸せを噛み締めるように煎餅を食べていたら、先輩が呟くように問いを投げる。
「明日はどうしたい?」
「明日、ですか?」
「面倒なことに文化祭は明日もあるからね」
今日が楽しすぎて、すっかり忘れてしまっていた。しかしどうするかは、悩む間もなくすぐに答えることが出来そうだった。私は幸せな気持ちを顔中に広げて、紫苑先輩に笑いかける。
「明日は、今日回っていない飲食店を回って、それからどこかでまたこうやってのんびり出来ればいいです。紫苑先輩とのんびり一緒にいられれば、それでいいなって思うので」
「……そっか」
柔らかくて優しい笑みを浮かべられ、私は頬を紅潮させた。けれどその直後、先輩の首がかくんと前に傾く。驚いて見つめて数秒、先輩が勢い良く顔を上げた。
「ごめん、今僕寝てた?」
「えっ!? 寝て……あっ、今の寝てたんですか!?」
「授業がないと楽だけど、眠れないのが難点だな……眠い」
そういえば、紫苑先輩はいつも授業中に睡眠を取っているのだった。それが日課のようになっているのであれば、今日みたいな日は辛いのかもしれない。
私は緊張で震える手をなんとか動かして、勇気を振り絞ることにした。先輩と肩が触れ合うくらいの距離まで近付いて正座をし、眠たげに顔を顰めている彼に声を振り絞る。
「寝て、いいですよ。その、膝……貸しますから」
「……は?」
細められている目が私を不思議そうに見つめる。私はもう一度同じ言葉を繰り返す代わりに、自分の膝を叩いてみせた。紫苑先輩はというと口元を押さえて欠伸を漏らしている。
「流石に、嫌だけど」
断られる可能性を考えていなかったわけではないが、実際に断られてみると言葉が出てこない。金魚みたいに口をぱくぱくさせてからようやく出せた声は悲鳴に近かった。
「な、なに言ってるんですか! こういう時くらい甘えてください! 私が恥ずかしい人みたいじゃないですか!!」
「――じゃあ肩借りるよ。おやすみ」
綺麗な声を空気に溶かしてすぐ、紫苑先輩の頭が私の肩にこつんとぶつかった。こんなに近い距離でじっくりと先輩を見るのは初めて――のような気がする。おかげで心臓が口から飛び出しそうだ。動揺したまま、ちらと先輩を見つめた。
さらさらの髪。白磁のような肌。女子の私が羨ましくなるくらい長い睫。毎日のように綺麗だなとは思っていたけれど、この距離で見ると息をすることすら忘れてしまいそうな綺麗さだった。服装のせいもあるだろうが、本当に女の子のようにも見える。
あまりにも心が落ち着かないから、紫苑先輩の顔から目を逸らし、視線を手元に落とした。視界の端に紫苑先輩の手が映って、その手に自分の手を重ねたいと思った。先輩がまだ起きている可能性もあるが、念のため起こさないよう、そっとその手に触れようとする。
ちょうど鳴り響いたチャイムに、慌てて自分の手を引っ込めた。紫苑先輩の頭がすぐに私から離れていく。
「あはは……鳴っちゃいましたね」
「一分も眠れてないんだけど」
つまり先輩は起きていた、ということになる。それが分かった途端、彼を見つめていたこととその手に触れようとしたことがとても恥ずかしくなって、私は慌てて立ち上がり彼に背を向けた。
「浅葱? 教室、行かなくていいの?」
「い、行きます! でも私のクラスのホームルームまではもう少し時間があるので、先輩は先に行っててください!」
「そっか。じゃあ、また後で。終わったら昇降口で待ってるよ」
階段を下りていく足音を耳にして、私はようやく彼の方に目を向けることが出来た。離れて行く後姿を追いかけたい気持ちに駆られる。本当は私のクラスも直にホームルームが始まるから、途中までは一緒に行くことが出来た。けれど、今の私はきっと顔が真っ赤だろうから、この熱が冷めるまではここにいたかった。
真っ赤な顔をして教室に戻るなんて、出来るわけがない。紫苑先輩にだって、こんな顔を見られたくない。
「……紫苑先輩、好きです」
誰にも聞こえないほど小さな声で、呟く。こんなことを言ったらもっと赤面すると分かっていたが、胸の内だけに留めているのが辛くなったのだ。
いつか、せめて先輩が卒業してしまう前に、伝えられたらいいなと思う。先輩は二年生だからまだ時間はある。といっても、その時間にいつまでも甘えてなんていられない。
勇気が、欲しい。
深呼吸をして落ち着いてから、私は階段を一段一段踏みしめていった。




