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秋の夜の月5

「で、どこから回る?」


 紫苑先輩が、微笑む。先輩も私と回るのを楽しみにしてくれていたのでは、などと自惚れたことを考えてしまうくらい、素敵だった。


 真っ赤になっていく顔を慌てて先輩から逸らして、私は制服のスカートのポケットに入れていた文化祭パンフレットを出そうとするも――今着ているものが制服でないことにはっとして動きを止めた。


「あ」


 昨日、配布されたパンフレットと睨み合い、先輩と回りたい店に印を付けておいたのだ。だというのに私は今、そのパンフレットを持っていない。社会科準備室に荷物を置いているのだが、そこに行くべきかどうか悩む。


 石像みたいに固まったままの私の耳に、先輩の小さな笑い声が届いた。


「財布、教室に忘れた? いいよ、奢ってあげるから」


「え!? あっ、確かに財布も忘れてしまいましたが! えっと、どこを回るか考えたのに、パンフレットも忘れてしまいまして……」


「別にいいんじゃないかな? 紙なんかを見るより、実際に校舎中を見て回って、気になった店に入ればいい。歩き回るとか正直面倒くさいけど」


 面倒くさい。その言葉は彼の今の表情に合っていない。きっと心の声が聞こえたなら、そんなことは思ってもいないと分かるだろう。珍しいことに、今の先輩の微笑には、お祭りではしゃぐ子供みたいな無邪気さがあった。


 それだけで嬉しくなって、悩んでいたこともなにもかも吹き飛んでいく。私は突き放されるかもしれないと思いながら、けれどその腕に飛びついた。


「浅葱っ?」


「きょ、今日だけでいいですから、このまま歩きたいです。駄目、ですか?」


「いいよ。……って言うと思った?」


 期待して頬を緩ませるも、すぐに後悔する。紫苑先輩はこういう人だ。離れていく腕に寂しさを感じながら、仕方ないと自分を宥める。


 これくらいで凹むな、と激励するために手を握り締めようとした。しかし私の手は、そうする前に優しく握られる。驚いて目を丸くしていると、先輩が黒いドレスを揺らして歩き出した。


「これで我慢して欲しい。まぁ、嫌とは言わせないけどね」


「えっ、先輩っ――えっ!? えっと、いいんですか!?」


「早く三階行くよ」


 引っ張られるまま、私は階段を上がっていく。胸が早鐘を打っていた。嬉しさと恥ずかしさで私の手が熱くなっているのか、紫苑先輩の手がとても冷たくて、落ち着く。熱くなりすぎた体温を彼の手に奪われていくのが、心地よかった。


 階段を下りてきた人にぶつかりそうになって、手を離しかける。力が抜けた私の手は、紫苑先輩に強く握られた。痛いと思うほどではなく、私を気遣ってくれていることはその強さだけで伝わってきた。なんだか嬉しくなってどんどん口元がだらしなく緩んでいく。


 階段を上り終えて三階に着くと、先輩が振り返って悪戯っぽく笑った。


「離したら危険な駄犬をリードで繋いでいるだけだ、って言ったら、君は怒る?」


「怒りませんよ」


 にやけた顔のまま間髪入れず答えて見せれば、紫苑先輩は笑ったまま前に向き直る。本当は理由も問われたかったのだが、そこまでは聞いてくれそうに無かった。仕方なしに、私は自分で続けた。


「だって、今はもう、紫苑先輩がどういう人か分かっていますから。私、紫苑先輩が、好――……っ」


「え?」


「なっ、なんでもないです!」


 まだ、言えなかった。今この場の勢いに任せて告白する勇気は、無い。せっかくこれから楽しめるというのに、私の一言で楽しい気分を台無しにしてしまうかもしれないと思うと怖くて、好きというたった一言すら口に出来ない。


 慌てて誤魔化し、不自然に思われただろうかと心配になったが、紫苑先輩は「そう」とだけ返して辺りを見回す。


「浅葱、僕のクラスのケーキ、食べて行かない?」


「っ食べたいです!」


 そこは元々、紫苑先輩が嫌でなければ行く予定だったのだ。先輩から誘ってくれるとは思っていなくて、嬉しさのあまり大きな声で返事をしてしまった。文化祭の日でよかったと安堵する。周りが賑やかだから、それほど目立たずに済んだ。


 廊下を歩いて行って、一番端にある教室。そこが喫茶店をやっている教室だった。メニューが良いということで前日から多くの生徒に注目されていたこともあり、端という目立たない所にあるにもかかわらず、賑わっていた。


 店内を覗いてみると、満席だ。先輩もそれを見て小さく溜息を落としたが、幸い並んでいたのは五人ほどだったため、その後ろに並んだ。


「紫苑先輩のクラス、すごいですね」


「そうだね。僕がこんな服着て立っていなくても大繁盛じゃないか」


「――あなたが噂のメイドさん!?」


 私と先輩の前に並んでいたお客さんが振り返って、先輩に詰め寄った。芸能人にサインをねだるファンみたいだ。この学校の制服を着ているため校章に目をやって、彼女が三年生だと気付く。


「噂になってるのか……。今は仕事中じゃないので、放っておいてもらえるとありがたいです」


 困ったように紫苑先輩が浮かべているのは営業スマイルだろうか。引き攣ってはいるものの、その美貌のおかげで不自然さは際立っていなかった。むしろ綺麗だ。


 三年生の先輩も同じことを思ったのか、感激したように口元を押さえている。分かった、と何度も頷いてはいるが、声は出されない。紫苑先輩がアイドルかなにかのように思えてきて、苦笑が漏れてしまった。


 そんなことをしているうちに列は進んでおり、三年生の先輩が店内に案内されていった。受付の男子生徒が紫苑先輩の姿を認めると、友達みたいな気軽さで声をかけてくる。


「呉羽! お疲れ! お前のおかげで、沢山の人が超絶美人なメイドを見に来てくれてるんだぜ! お前いなかったけど満足してもらえてるみたいだ!」


「へぇ、良かったね」


「あ、その子前にも教室来てたよな? 部活かなんかの後輩?」


 人が良さそうな笑顔で私に手を振ってくる彼に、慌てて頭を下げた。私が先輩の教室に行ったのは一度きりな気がするから、まさか覚えられているとは思ってもいなかった。頭を上げて、黙っている紫苑先輩の代わりに口を開く。


「一年の、宮下浅葱といいます。よろしくお願いし――」


「で、まだ店内入れないの? 後ろ並んでるから無駄話してる暇とか無いと思うんだけど」


 これ以上話しかけるなと言わんばかりの鋭い声。こういう私以外の人に向ける目を見ていると、紫苑先輩の中で私は少なからず特別なところに位置しているのではないかと思える。本当に友達になれているのだなと実感するたび、嬉しさで頬が緩む。


 私と紫苑先輩はすぐに店内に案内してもらえた。一番窓際の一番前の席。そこに歩きながら他のお客さんが食べているものを見て、どれも美味しそうだと思った。同じものを食べている人があまりいないことから、メニューが豊富なのだとすぐに分かる。


 案内された席に腰掛けた。紫苑先輩と向かい合う形でケーキを食べるなんて、前にもあったなと思いながら彼を見つめていると、目が合った。笑いかけられて、相変わらず私の心臓はすぐに跳ねる。


「メニュー、こちらになります。お決まりになりましたらお呼びください」


 渡された厚紙に視線を移して、私はなんとか平静を保つ。チョコレートケーキ、ショートケーキ、チーズケーキにモンブランなどなど。ケーキ屋さんに来たみたいだなと思うくらいすごい。文化祭ではスーパーなどで買ったものを出す店も多いのだが、その厚紙の一番下に手作りと書かれていて目を瞠る。


 顔を上げてみると、私が動揺している姿を先輩が面白そうに見ていた。


「家がケーキ屋なんだってさ。女子の方の文化祭委員の人」


「す、すごいですね……」


 感嘆しつつ、私は先ほどメニューを持ってきてくれた人に声をかけ、苺のタルトと紅茶を頼んだ。紫苑先輩はレアチーズケーキと水を頼んで、メニューを店員に返した。


 先輩の目は窓の外に向く。賑やかな店内で、私達は無言のままケーキを待っていた。なにか話したいと思っても、話題が思い浮かばない。それでも沈黙に耐えられなくて、私はぱっと浮かんだ言葉を口にする。


「い、良い天気ですね!」


「え? ああ、そうだね」


「はっ、はい!」


 私も窓の外を見てみた。快晴ではないが、晴れてはいる。綿菓子みたいな雲が青空に沢山泳いでいた。曇りではなく晴れだけれど、良い天気と言っていいかは微妙なところだった。


 苦笑している私に、紫苑先輩が空を見つめたまま言った。


「曇りの方が好きだけどね」


「え、気分どんよりしません?」


「しない。晴れは眩しくて好きじゃない」


「光合成しないと駄目ですよ」


「人間は光合成出来ないと思うんだけど」


 そんなことないです、と口から出かかったが、よく考えてみれば、いや、よく考えずとも私が間違っていることは明白で、なんだか恥ずかしくなってくる。俯いた私の頭に、紫苑先輩の笑い声がかけられた。


「君ってさ、頭良いみたいなのに発言は馬鹿みたいだよね」


「そ、それを言うなら先輩だって! 頭良さそうなこと言うくせに馬鹿ですよね」


「……馬鹿なのは否定しないけどさ」


 言ってしまってから、いくらなんでも失礼だったなと申し訳ない気持ちが湧いてくる。けれど紫苑先輩はあまり気を悪くしなかったみたいで、微笑はその顔に残っていた。


 少しするとタルトとケーキ、飲み物が運ばれてきて、紫苑先輩が私の分までお金を払ってくれた。私はお礼を言ってから、本当のお店に並んでいそうな苺のタルトを一口食べてみる。美味しさのあまり笑顔で咀嚼していると、私の前で紫苑先輩もレアチーズケーキをおいしそうに食べていた。


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