あの月にウサギはいない5
◇
突然、何かが剥がれ落ちたような音が響いて、私は夢から現実に引き戻される。
「な、なに……?」
驚いて体を起こすと、部屋の扉が室内に倒れ込んできていた。壊れてしまった、という一般的な考えに至る前に、壊されたのではないか、という普通ではない推測の方が先に立てられる。
その扉を、見知らぬ人物が踏み付けたからだ。
それだけでも戦慄が走るというのに、西洋の刀剣のようなモノを手にしているのを見れば、すぐさま総毛立ってしまう。
そんな彼が廊下から室内に入り込んできたところで――人ではないことにようやく気が付いた。その手も、その体も人であるのに、その頭だけが動物のそれ。私を捉える赤い瞳を、震えながらも直視する。
「兎?」
それはゆっくりと、確かに私を目指していた。これは夢だと思い込むようにして呆然と見ていたけれど、はっとして叫ぶ。
「お母さん! お父さん!! 萌葱、いないの!?」
助けを求めたくて張り上げた声は、甲高く響いてから室内の静寂に呑まれていく。それきり誰の声も聞こえない。いつもと変わらず時を刻む秒針の音が、ひたすらに恐怖を掻き立てていた。
おかしい。静かすぎる。時間のせいか、それとも――。
「まさか……」
みんな、死んでしまったのか。
想像したくもないことを想像して、けれどそれ以外に考えられず、慄く。そんな私に、兎のような人は剣を振り上げた。そしてそのまま振り下ろし、鮮血を散らすのだろう。
しかしそうなる前に、不気味に煌いていた剣先も、その柄を握り締めていた人物も視界から失せていた。
「……え」
衝突音と共に舞い落ちて床を濡らした血液は、私のものではない。左方の壁に叩きつけられたのであろう彼の様子を窺いたかったが、硬直した全身は動かない。ただ、私に影を落とす存在を見上げるのが、精一杯だった。
私の目の前には今、兎のような人ではなく白い髪の男性が立っていた。違和感を覚えるのは、まだ若く見える顔立ちと白い髪が、不相応に見えたからだと思う。けれどそれは綺麗でもあった。
彼は長い刀を鞘に収めると、礼儀正しく頭を下げる。
「申し訳ございません。人兎が現れる前にあなたのもとを訪れるつもりだったのですが」
「どういう……」
「とりあえず、この世界の説明をしましょう」
混乱している私を置いて、彼は無味乾燥な声で紡いでいく。
この世界には、彼と八人の能力者と兎の化け物――人兎だけが存在し、人兎は人の匂いに反応して襲いかかってくるらしい。まるで小説か漫画の中のような話に、やはりまだ夢の中にいるのではと思い始める。
それでも、今の私はこれを現実と受け入れるしかなく、狼狽えながらも口を動かしていた。
「能力者? 私、能力なんて」
「あるはずですよ。自分で心当たりを探してみて下さい。説明を続けます。……ああ、自己紹介を忘れていました」
彼は月白といい、この世界を造った能力者により創られた存在だという。
それだけの短い自己紹介が終わると、説明は再開される。
招かれた能力者達は毎夜零時から朝の六時までこの世界にいることとなる。死ぬことで元の世界に戻ることも出来るが、代わりに記憶を失ってしまう。全てかもしれないし、少しかもしれない――つまりどの程度記憶を失うかは分からないようだ。そして能力が無くなるわけではないため、再びここに招かれることもある。
そんな嘘だと言って欲しいような説明を聞いて、震える体を抱きしめる。こんなのは、物語の中だけの話だと思っていた。何故か、電車に跳ねられようとしていた時よりも死への恐怖を強く感じた。
「な、なんですかそれ……」
「この世界を消すためには、人兎の中または八人の中に混ざっているこの世界の創造主『ウサギ』を見つけ出して殺さなければいけません。と、皆さまに説明しているため、他の能力者があなたを襲ってくることもあるでしょう。気を付けて下さい」
「気を付けてって……!」
「戦いたくなくとも戦う術を身に付けておくことをおすすめします。この世界で受けた傷は元の世界に戻れば跡形もなく消えますが、死んでしまいたくはないでしょう?」
何もかもが突然過ぎて、理解が追いつかない。
つまり私は、記憶を失わないためにこの世界で死なないようにしなければいけないという事。しかし何故こんな事になってしまったのだろう。そもそも能力とは一体……?
私の能力は、なに?
ふと顔を上げてみたら、そこにはもう月白さんはいなかった。時計を見ると、針が指すのは一時。朝の六時までは、まだまだ時間がある。
彼の説明を聞く限り、両親や萌葱がいないのも、この世界に私だけが来ているせい。きっと皆、普通に寝ている頃だ。元の世界で私が何をしているのか気になってしまう。存在していないのかもしれないと考えたら更に恐慌が込み上げた。
現状から逃げ出すように寝てしまいたいけれど、怖くて眠れない。起きていても、どうやってあの兎の人――人兎を倒せばいいのか分からない。
人兎が来ないことを願って、部屋の隅でびくびくと怯えていることしか、私には出来なかった。
いっそ寝てしまえば、突きつけられた現実が全て夢の中の出来事になってくれるかもしれない。普通にベッドで目を覚まして、朝食を食べて、電車に乗って、紫苑先輩と話をして――。
もし私が今の状況のことを話したら、紫苑先輩は信じてくれるだろうか。――いや、仮に信じてくれたとしてどうだというのだ。月白さんの説明を聞く限り、この世界にいる人は私を含めた八人だけ。
教室だけではなくて、ここでも私は一人ぼっちだ。一人で孤独と恐怖に震えなければならないのだ。
ねぇ、神様。あなたはどうしてこんなにも、私を苦しめるのですか?
私は、平凡に笑って生きることを許されないのですか?
友達と笑って、先輩と笑って、高校生活を終える。そんな『日常』を求めることは、そんなにも許されないことですか?
「……ふ、…………う……っ」
涙が、薄暗い室内を滲ませる。どうして、と呟こうとしても、嗚咽に呑まれた声は絞り出すことすら出来ない。泣くつもりなんてなかったのに。こんな、嫌なことばかり思い浮かべるつもりなんて、なかったのに。
どうしてこんなにも、私は弱いのだろう。
つよく、なりたい。少しでも、つよいこころが欲しい。
「ぅ、あ……っ……」
苦しい。胸が。喉が。声が。息が。
うまく呼吸が出来ない。喘ぐように、口が、肺が、酸素を求める。
苦しめるのも、泣けるのも、私が生きているから出来ること。今生きているのは、私がしあわせだということ。それでも、自分が不幸だと、甘えてはいけないだろうか。
今だけでいいから、甘えの涙を流させてください。ごめんなさい。ごめんね、桜。あなたはもう、泣くことすら出来ないのに。こんな私を、許して下さい。
◆
勢いを衰えさせずに振り下ろした傘は、しかし男に止められた。もちろん、彼が一切の負傷をせずに平然と止めてみせたわけではない。顔を庇った彼の右手の平は出血さえしていないものの、ほんの少し皮膚に沈んだ傘の先へ向けて、深い皺が刻まれていた。
「ストップ! タイム! もうやめましょう!」
「……やめると思う? それほど僕は甘い人間じゃないよ。それに、始めたのはお前だろ」
「たっ、確かにそうですが! 分かりましたから!! 君が『ウサギ』じゃないことは分かりましたからもうやめましょうよ!」
焦り、動揺、苦痛への恐怖。血の気を引かせる類の感情で顔を青白くしている彼に、再び傘を振り上げようとした。けれど、それを察したように傘の先を掴んだ彼の両手が引き剥がせない。ただの狂人かなにかかと思っていたが、今の彼を見る限りそうではないみたいだ。
それとも、油断をさせて反撃の機会を得る為に演技をしているのだろうか。彼の顔を仮面だと疑い、その綻びを探ろうとしながらも、冷静な声を放った。
「……どうして僕が『ウサギ』じゃないと断言出来る?」
「能力的にですよ! 『ウサギ』の能力は創造、君のものとは違う!」
「『ウサギ』の能力は『そうぞう』だろう? imageとcreate両方を兼ね備えたもの。想像したことが創造される。それを利用して他の能力者を装うことは簡単だ」
男は、突然笑い出した。僕はその笑い声を警戒し、脅すように彼の右腕を曲げる。彼はそれに対して、顔色一つ変えなかった。先程まで冷や汗を浮かべていた顔は、戦闘時と同じような笑みを形作っていた。
「君が『ウサギ』だとしたら、弱過ぎる」
「弱い……だって?」
「君は自分で自分は甘くはないと言いましたが、甘いじゃないですか。結局目を潰さず、右腕も軽く曲げるだけで折らないのだから。それに、他者を傷付けることが平常心で出来ていない」
否定は出来なかった。彼の言うことは尤もで、僕に反論を許さない。舌を打つ代わりに奥歯を鳴らして、僕は盛大な溜息を吐く。
「イカレた戦闘狂かと思ったけど、まともな目と判断力を持っているようだね」
「君は思ったよりも冷静すぎる人ですね」
「怒鳴るように否定するとでも思った?」
はは、と漏らされる渇いた笑いが、図星だと打ち明ける。僕は能力を解いて彼の右腕を解放した。傘からも手を離す。離された傘の持ち手が重力に負けて地面にぶつかった。
「罠かもしれないと警戒していたのでは?」
「もういい。罠だったとしても六時まで足掻いてなんとか生きればいいだけだ。だから好きにしてよ。僕は甘くて弱いから、君との勝負に負けたのさ」
男は眼窩から眼球を零しそうなほど、瞼を上げた。それから腹を抱えて笑い出す。静かな世界に大きく響いた声が僕の耳を打った。
至って真面目に返したこちらとしては、これほど笑われると流石に苛立つ。
「いや、面白いですね」
「何も面白くないよね」
「……ああそうでした、君にしたいことがあったんです」
乾いた音につられて男の方を向くと、皿にした手へ拳を当てていた彼が、微笑んで僕を見ている。しかしその笑顔に含有されているのは、腹の底の黒さだ。
嫌な予感に口元を引き攣らせたのと、僕の左手が勝手に動いて右手の親指を折ったのはほぼ同時だった。
「ッく……!」
「足を折られた仕返しです。右手の指を一本ずつゆっくりと折っていくので、楽しませてくださいね?」
「この、サディスト……っ後で覚えとけ……――痛ッ!」
自身の判断を後悔した。彼の目は敵を見る目では無くなったが、滑稽な玩具を見る目に変わって更に危ない事になった気がする。
思ったよりもまともな頭脳と、高い観察力を持つ彼と和解し、協力者になれればいいと思ったが少し読み違えたかもしれない。
「いやー、指綺麗ですねぇ。ピアノでもしていましたか?」
「――――ッ!!」
痛みに慣れることはないから、気が狂いそうになる。皮膚の中で骨が擦れているような感覚も、折れた時に腕が痙攣して血管が跳ね上がるのも、気持ちが悪い。このまま痛覚と触覚がおかしくなって何も感じなくなればいいのに。
……数秒前まで何を考えていたか、思い出せない。そこまで頭が回らなくなってきた。
骨が折れる嫌な音が、やけに大きく響いたような気がした。
自分の悲鳴が不愉快なほど大きくて、容赦なく僕の耳を劈いた。