秋の夜の月4
◇
ずっと楽しみにしていた文化祭。紫苑先輩と一緒に学校内を回ってお祭り気分でいられるのがとても楽しみで、一人で登校する寂しさはなんとか我慢出来た。
私のクラスはお化け屋敷をする。紫苑先輩に来てくださいと言ったけれど、本音を言うと来て欲しくない。お化けの役をするだけだから何もないとは思うが、もしクラスメートが私の悪口を言っていたらと考えると怖くなるし、それを先輩に聞かれたら嫌だ。
ブラックライトで薄暗くなった社会科室の中、私は血糊の付いた着物を着て、少し開いたままになっている掃除用具入れの中で待機していた。隙間から外の様子を窺いつつ、お客さんが来たら驚かす、ということをもう何回も繰り返している。ただ勢いよく扉を開け放って出ていくだけだから、私みたいな臆病者でもお客さんを驚かせることが出来ていた。声を上げて怖がってもらえると嬉しくなり、なんだか楽しくなってくる。
腕時計をちらと確認してみると、いつの間にか交代の時間まであと十分ほどになっていた。もうすぐで紫苑先輩に会いに行ける。一緒にどの店を回るか考えてにやにやしていたせいで近付いてきた足音に反応出来ず、出て行くという仕事を忘れてしまっていた。反応出来なかったことが分かったのは、掃除用具入れの戸が開け放たれたからだ。
「え」
「宮下センパイ何してんの?」
この薄暗い中にいるというのによく私だと分かったものだ、なんて感心している場合ではない。お客さんとして蘇芳ちゃんが来てくれたのはとても嬉しいが、お客さんならお客さんらしく早く通り過ぎて行って欲しかった。
「えっと、蘇芳ちゃん、またあとでね! あと十分で交代時間だから」
「あ、それ仕事だったんだ? じゃあ出口で待ってる。それと、今日甲斐崎は連れてきたけど、東雲さんは忙しいのですみませんって言ってたわ」
「そっか、東雲さん忙しそうだもんね……」
蘇芳ちゃんは頷くと、ひらひらと手を振って奥へ進んでいく。ツインテールを揺らして遠ざかっていく後姿。私は時間を確認した直後――それを追いかけることになった。
小走りで距離を縮めてその背中を軽く押そうとしたら、蘇芳ちゃんの体が傾く。踊るようにくるりと回った彼女は、空気を掻いた私の腕を掴んで引っ張る。動揺する私を背負い上げようとしていることに気付いた直後、慌てて声を上げた。
「す、蘇芳ちゃん! 私だから! 不審者じゃないからちょっと待って!」
名前を呼んですぐ私を引っ張る力が弱まったけれど、念を押すように言葉を続けた。彼女を振り払うように手足をばたばたさせようとするも、その必要は無かったらしく、あっさりと手を離される。
振り向いた蘇芳ちゃんの呆れ顔を見て申し訳なく思った。しかしそれは一瞬のことで、彼女と同じような顔をして見返した。
「私だったから良かったけど、ううん、良くないけど、もうしちゃ駄目だからね」
「いきなり背後から無言で寄ってくるのが悪いのよ。防衛本能が働いて『殺される前に殺さなきゃ』って思うに決まってるでしょ」
「思わないよそんなこと……」
短く息を吐き出すと、蘇芳ちゃんは溜息を吐かれたと思ったのか、むっとしたように下唇で上唇を僅かに押し上げた。
仕返しのようにわざとらしく「はぁー」と嘆息される。
「で? 宮下センパイなにしてんのよ。サボり? 仕事サボってんの?」
「違うよ! もう交代時間になったから、紫苑先輩の所に行こうと思ったの!」
「呉羽先輩と二人きりで回る気満々? まあそうよね、せっかくの文化祭、好きな人と二人で回りたいわよね」
不服そうにも見える瞳。蘇芳ちゃんが紫苑先輩を本気で好きなのかどうかは分からないけれど、好意を抱いているのは確かだ。彼女だって先輩と一緒に回りたいのだと思う。そもそも私が彼女と甲斐崎さんを呼んだのは、みんなで楽しみたかったからだ。
だというのに蘇芳ちゃんに言われて、二人を呼んだ理由が分からなくなってしまうくらい、自分勝手な思いが心臓を揺らす。友達みんなで楽しもうと思った。二人にも楽しんで欲しいと思った。友達が出来て、文化祭というイベントで舞い上がった勢いでその友達を呼んで。しかし私は、彼女の言う通り先輩と二人で楽しむことしか考えていなかったのだ。
みんなで楽しみたい気持ちよりも、二人きりで思い出を作りたいという、自分自身で嫌になるくらい自己中心的な気持ちが、息を苦しくさせていた。
「……なに酷い顔してんのよ」
自己嫌悪で唇を噛んでいた私に、優しい声がかけられる。蘇芳ちゃんが今この状況で、私を慰めるような声を出すなんて思ってもいなかった。そのせいで戸惑って、情けないことに泣き出してしまいそうだった。
必死に涙を抑え込んでいると、腰に手を当てた蘇芳ちゃんが強気そうな瞳でじっと見つめてくる。
「先に抜け駆けしたのはあたしなんだから、邪魔なんかしない。文化祭デート、しっかり楽しみなさいよ。あたしは甲斐崎と馬鹿騒ぎして、ストレス発散して、楽しかったなって気分で帰るつもりだから」
「本当にいいの? 蘇芳ちゃんだって――」
「いいって言ってんでしょ。それと、その……ありがと。誘ってくれて」
照れくさそうに、お礼を口にされた。先ほどから彼女が予想外の声ばかりかけてくるから、私の目はひたすら丸くなっていた。
きょとんとしたままの私の着物の袖を、蘇芳ちゃんがぐいと引っ張る。強めの力だったけれど、乱暴さはそこになかった。
「とりあえず出るわよ。他の客の悲鳴が近づいてきてるし」
「あっ……そうだね。早く出ないと邪魔になっちゃう」
まだお化け屋敷の中にいるということをすっかり忘れていて、私は蘇芳ちゃんと一緒に出口に向かった。
私のクラスのお化け屋敷は、積み重ねた机にダンボールを張って壁を作り、迷路のようになっている。とはいえ、流石に自分も少しは協力して作ったものだから、迷うことなく出口の方に歩いて行けた。
出てすぐに、私は受付のクラスメートに声をかける。
「あ、あのっ」
あまり話したことのないクラスメートの女子二人。その子達に声をかけることでさえ、勇気を振り絞らなければいけないほど臆病だ。しかも後ろで蘇芳ちゃんが見ているから、いつも以上に手が震える。
怖い。友達でもない人に話しかけるのが、とても怖い。
声をかけたにもかかわらず何も言わない私を、彼女達が不思議そうに見ていた。その目が私を蔑んでいるんじゃないかと思うと、怖くてたまらなかった。
一言、交代だって言えばいいだけ。勇気を出して声をかけたのだから、もう一度勇気を出して言えばいいだけ。それなのに、震えた口は動かない。
「――彼女、交代時間だそうですよ」
私の背後から、受付の二人に声が飛ぶ。それを聞いて、二人が顔を見合わせてから私に笑った。
「宮下さんお疲れさま! あ、四時にホームルームあるから、忘れないようにね」
「文化祭楽しんで!」
友達に向けるような笑顔が向けられ、動揺で目を白黒させた。どうやらたった数言だけで嬉しくなったみたいで、唇が震えながらゆっくりと弧を描こうとしていた。
嬉しさを胸の中に仕舞い込んで、私は二人に頷き、逃げるように歩き出す。
「ありがとう……っ」
ちゃんと大きな声で伝えるつもりだった言葉は、私の弱さを表すようにとても小さく消えていった。
社会科室から離れて、更に早歩きで階段を上がろうとしたけれど、着物の裾を後ろから踏み付けられて転びかけた。
「わっ!」
「ちょっと、あたし置いてく気だったでしょ。というかあたしの存在忘れてた?」
なんとか踏みとどまって後ろを向くと、蘇芳ちゃんが形の良い眉を吊り上げていた。正直に「忘れていた」と言えば、更に鬼のような形相になるのだろう。誤魔化すように笑ってみたけれど、それも良くなかったかもしれない。結局彼女の眉間に皺を寄せることとなった。
「うわーひっどーい。あたしが助けてあげたのにー」
「ご、ごめんね。さっきはありがとう」
「……あ、そうだ。あたしにも謝らせて。今更、だけど」
思わず、きょとんとしてしまう。蘇芳ちゃんに謝られるようなことをされた覚えがない。今更ということは結構前のことなのだろうが、思い当たることがなく、頭を傾けた。
「初めて会った時、宮下センパイを『ウサギ』の協力者だって疑って、呉羽先輩を脅す道具みたいにしちゃったし、その後置いてけぼりにしちゃったじゃない。あれ、一応は、申し訳なく思ってたのよ」
「でもあれは、仕方ないことじゃないの? だから気にしないで」
「仕方なくない。あれはあたしが、一目惚れしていた呉羽先輩と協力者になりたかっただけの、あたしの作戦みたいなものだった」
つまりは、初めから紫苑先輩を『ウサギ』だと疑っていなかった、ということになる。なら回りくどいことをせず、彼のもとに行って協力者になりたいと言えば良いのに。
けれど、そう簡単にはいかないのだろう。戦うなり能力を見せるなり、なにかしら『ウサギ』ではないことを明かす行為をしなければ、きっと協力者として受け入れてもらえない。
少しだけ驚いて、しかし同時に納得もしていると、蘇芳ちゃんが私から目を逸らした。
「それと、あんたが『ウサギ』だってことは、一ミリも疑ってなかったし今も疑ってないわ」
「え、そうなの?」
「ええ。あたし、あんたが来る前に知っていたもの。あの世界にいる能力者全員。今までも何人か死んで新しい能力者が招かれていたけど……。そういえば、招かれる前に死んだ能力者とあんたが、同じ学校の制服着てるのってすごい偶然よね」
彼女がさらっと口にした「死んだ」という言葉に、寸刻息が詰まる。私が偽物の世界に招かれたのは、あの世界で死んでしまった能力者がいるからなのだということを今更しかと理解して、両足が震えた。
「私の前にいた能力者って、どんな人、だったの?」
思わず口に出した問いかけさえも震えていたのは、今の話を聞いたことで浮かび上がった仮定を、認めたくなかったからだ。
私と同じ学校の制服を着ていた、能力者。少し前に死んでしまった、というのは、勿論偽物の世界で死んでしまったという意味なのだろうが、嫌なことばかり想像してしまう。
――舞島桜。高校生になって初めて出来た友達で、私の親友だった少女。どこか凛とした立ち振る舞いも、よく笑う顔も、交わした軽口も、鮮明に思い出せる。入学式の帰り道、二人で見上げた桜並木はもうとっくに花を散らせている。あの桜の木が再び花を咲かせても、私の親友はもう笑顔を咲かせてくれない。
まだ色褪せない桜色の記憶から想像を膨らませていたら、蘇芳ちゃんのやけに冷たい声が耳を撫ぜた。
「さあ。見かけたことがあるってだけ。誰かに殺されたとかじゃなくて元の世界で自殺して死んだみたいだから、馬鹿だったんじゃないの」
蘇芳ちゃんは不満げに吐き捨て、どこにもいないその能力者の代わりのように、自身の爪先を睨み付けていた。桜は自殺をしたわけではないはずだから、きっと彼女ではない。早鐘を打つ胸中に呟いて、呼吸を落ち着かせてから微笑んだ。
「蘇芳ちゃんってやっぱり優しいよね」
私よりも低い位置にある頭をそっと撫でた。自ら命を絶ってしまった人へ、嘲笑を交えず真っ直ぐに馬鹿だと言ってのけた彼女を、撫でたくなったのだ。
しかしすぐさま、私の手は振り払われた。一瞬触れた肌は体温を伝えることなく、乾いた音だけを響かせる。
咄嗟に、私は震えた声を漏らしていた。
「ご、ごめん、なさい」
打たれた手首が熱くて、今更彼女の手の温度が流れてきたように錯覚する。そう、錯覚だ。じりじりと手首を痛めるほどの熱が、優しい彼女の手にあっただなんて思えない。これはただの痛みでしかない。ただ触れて、なぜか痛んだだけ。彼女のせいではない。
叩いた側である蘇芳ちゃんが私以上に狼狽しているようだったから、私はいつもみたいに笑った。
「私は大丈夫だから。気にし――」
「あっ! 甲斐崎発見! ってわけであたしもう行くわね!」
早口で叫ぶように紡いでから、蘇芳ちゃんは駆け出して行ってしまう。追いかけるべきだと、真っ先に思った。甲斐崎さんを見つけたというのは、恐らく私の前から離れるために吐いた嘘。私の前から離れようと思ったのは、私を傷付けたと思ったからではないだろうか。だから追いかけて、違うと声をかけてやるべきだ。
けれども足が動かない。追いかける勇気が、私にはなかった。
手が振り払われた時、痛みを感じる前に恐れを覚えた。彼女の目は、本人が否定したとしても信じられないほどに、敵を見る目だった。あの一瞬、私は確かに殺意に似た何かを向けられた。
撫でられるのが、そんなに嫌だったのだろうか。
「……って、そうだよね。中学生だもん。子供扱いされたみたいで、嫌だったんだろうなぁ」
ぶつぶつ独り言を落としていたら、肩を軽く叩かれた。驚きのあまり双肩が跳ね上がる。
「宮下? そっか、お化け屋敷って言ってたもんな」
肩を叩いたのは甲斐崎さんだった。今し方の独り言はきっと周りの声に掻き消されて、甲斐崎さんには聞かれていなかったのだろう。私の格好がおかしいせいか、彼は微笑む。
「へぇ、和風な服も似合うな。今回はお化けだから仕方ないのかもしれねぇけど、もっと可愛い柄の着物姿を見てぇ」
「えっ、あ、ありがとう、ございます」
「――あのさ、階段の前で立ち話してるのって相当邪魔だと思うんだけど」
不機嫌そうな、聞き慣れた声。それを聞いて嬉しくなる。朝からずっと聞きたかった声だ。先ほどまで苦しかった胸が、別の意味で苦しくなっていた。
階段から離れて、声の方向――甲斐崎さんの背後に目をやり、私は声をかけるために開いた口をそのままにして固まった。
私から隠れようとしているのか、甲斐崎さんの後ろから顔だけを覗かせている紫苑先輩だが、着ているフリフリした衣装は角度のおかげでちゃんと私の目に映っている。甲斐崎さんが斜め後ろにいる先輩の腕を引っ張ったことで、袖にまでフリルが縫いつけられているのが見え、まじまじと見てしまう。
「おい、なに俺の後ろに隠れてんだ」
「はぁ? 別に隠れているわけじゃないんだけど? というか袖伸びるから引っ張らないでくれる?」
「なら大人しくとっとと前出ろよ」
「命令口調とか何様のつもりだお前」
甲斐崎さんの手から逃れた紫苑先輩の服が、ばさっと音を立てた。甲斐崎さんに対して舌打ちをした先輩は、わざわざ彼を押しのけて私に数歩近寄る。私の格好を見てすぐに、先輩が端正な顔を顰めた。
「……どんな格好をしているのかと思ったら、死装束じゃないか。それを似合うとか失礼にもほどがあるんじゃない?」
「そ、そうじゃねぇよ! 和服も似合うな、って思っただけだ!」
「ふうん」
細めた瞳で甲斐崎さんを睨むように見てから、紫苑先輩は私に視線を戻した。私の目がじっとメイド服を見ていることに気付いたようで、彼は咳払いを一つ落とす。
「一応言っておくけど、これはお菓子をもらうための仮装みたいな、仕方なく着ているものだから誤解しないで欲しい。好きでこんな格好しているわけじゃない。仕事だよ」
言われなくても、顔を見れば分かる。というのに説明してくれている紫苑先輩がなんだかおかしくて笑ってしまいそうになったけれど、堪えた。今笑えばきっと、その格好を笑ったのだと勘違いされてしまいそうだったからだ。
「分かってますよっ」
「……なら、いいけど。ところで、蘇芳と何かあった?」
問われて、息を呑んだ。どうして分かったのだろうかと不思議に思う。甲斐崎さんがそう問うてきたなら、私が心で彼女のことを考えていたのだろうから、とそこまで驚かなかったはずだ。
私はまた酷い顔をしていたかもしれない。そう心配したけれども、甲斐崎さんも驚いたように紫苑先輩を見ていたため、表情から読み取ったわけではないみたいだ。
小さく口を開けた間抜け面のまま何も言わない私の心の中を、紫苑先輩が察したように述べてくれた。
「蘇芳が浅葱のクラスに行くって言ってたからさ。合流して君と一緒にいるのかと思ったんだけど、いないからね。何かあったとしか思えない」
「言われてみれば、そうだな……」
「言われなくても気付くよね、普通。枯葉は浅葱にしか意識が向いていなかったから蘇芳のことを忘れていたのかな?」
「ち、ちげぇよ!!」
紫苑先輩と甲斐崎さんの短い言い合いの間に私は話すべきことを頭の中でまとめていた。二人の会話が途切れたタイミングで、俯いたまま話し出す。
「蘇芳ちゃんが優しかったので、つい妹にするみたいに撫でたんです。そうしたらそれが嫌だったのか、手を払われまして……」
「手!? 手、大丈夫か!? 怪我してねぇか!?」
「枯葉うるさい。人の話は最後まで聞きましょうって教わらなかった?」
冷たい声に凍り付かされて、甲斐崎さんが黙る。甲斐崎さんと紫苑先輩を忙しなく交互に見ていた私に、先輩が「続けて」と優しく言ってくれた。彼にこくりと頷く。
「それで、私は別に気にしていないんですが、蘇芳ちゃんが多分、悪いことをしたと思ってしまったみたいで。甲斐崎さんを見つけたって言って向こうの方に行っちゃったんです」
正面に伸びる廊下の先を指差す。人で溢れていて、蘇芳ちゃんがまだそこにいたとしても近くまで行かなければその姿を見ることは出来なさそうだった。
やはり追いかけるべきだったと後悔している私の横に、甲斐崎さんが立った。
「……宮下、気にすんな。撫でられんのが嫌だっただけだと思うぜ」
私を慰めるような声を吐き出してから、甲斐崎さんは蘇芳ちゃんが歩いていった方へ足を踏み出す。私が彼を追いかけようとしたのと、紫苑先輩が彼を引きとめようとしたのは同時だった。
「枯葉、蘇芳の所に行くなら僕と浅葱も」
「――なに言ってんだよ。お前らはそんな顔してないでとっとと色んな店回って楽しんで来い。蘇芳のことは任せとけ。あいつとは付き合いが……それなりに、長ぇから。すぐ機嫌直せると思うし、俺らは俺らだけで楽しむぜ」
紫苑先輩の声に足を止めたのは私だけ。甲斐崎さんは止まることも振り返ることもなく、「じゃあまたな」と手を振って、歩いて行ってしまった。
行かなくていいのでしょうか。そう問いかけるように紫苑先輩を見ると、小さく首肯を返される。
「事情が分からないし、枯葉はなにか知っているみたいだから任せていいと思う。むしろ任せるべき、かな。僕らが行っても多分邪魔になるだけだ」
「そう、でしょうか?」
「まあ、あの二人なら何とかなると思うよ。だから枯葉に言われた通り、楽しもう」
そう言われても私のせいで彼女に嫌な思いをさせてしまったのだから、謝らなければという気持ちが拭えない。だけど今は、行くべきではないのだろう。
あの二人は私があの世界に招かれる前から協力者だったのだ。だから、大丈夫。頭の中だけでなく唇の裏でも「大丈夫」と呟いてから、私は紫苑先輩に笑顔を咲かせてみせた。
「はいっ」




