秋の夜の月2
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自動販売機で炭酸飲料を買って、顔を顰めながらそれを喉に通していく。駅前のコンビニエンスストアに備えられているベンチで、僕は中身が全く減らないそれを、本当に睨みたい奴の代わりにして睨みつけていた。
もう動いたのか。東雲のその一言だけで、どういうことか予想は出来ていたはずだ。東雲は自分を責めろというような言い方をしていたが、冷静に考えてみれば彼を責めるのも筋違いに思えた。この苛立ちを誰に向ければいいのか悩んでも答えは出ず、八つ当たりみたく缶を強く握る。軽く潰れた缶の口から、少しだけ中身が溢れ出て、仕方なくそれを飲んだ。
『菖蒲くんは、偽物の月の世界から解放されたいから殺してくれ、と私に頼んできたんです』
どういうことだ、と問いかけた後の東雲の返しが、頭の中で再生される。菖蒲に吐き捨てたいと思った言葉はあの時月白に吐いたものと同じで、ふざけるな、だった。けれど同時に合点がいった。菖蒲がこれでいいと言った意味の正解をようやく知る。あの世界から解放されたい、記憶を失いたい。その二つは、あの世界で死ぬことを決意するには十分すぎる理由だったのだろう。
自分で手を下すことを嫌がった東雲は、菖蒲に『ウサギ』の正体を教え、脅してみたらいいのではと提案したらしい。『ウサギ』が動くかどうか、動くならどう動き、今後どうするつもりなのか、それらに興味があったと東雲は言った。
『だから言ったじゃないですか。あまり私を、信用しない方がいいと』
淡々と菖蒲との間にあった出来事を話し終え、最後にそれだけ呟いて電話は切られた。僕を嘲笑うかのように言ってくれれば苛立ちの矛先を東雲に向けられた。けれど申し訳なさそうに、言い難そうに説明してくれた彼を責めることなど出来ず、僕はわけもわからず自分自身に苛立つ。
結局、東雲はまた『ウサギ』の正体を話してくれなかった。だが菖蒲が『ウサギ』のことを知っているのなら、彼に聞けばいい話だ。これ以上、『ウサギ』の茶番に付き合わされるのは御免だった。
ちなみに菖蒲がどこにいるかは東雲も分からないようで、僕は奇跡的に菖蒲に会えればいいと思いながら弓張駅前にいた。暫く近場の店を適当に回って過ごしていたおかげで、陽は傾きかけている。東雲と話してから数時間は経つが、それでも波打っているやり場のない憤懣が時折臓腑から込み上げてくる。それを、炭酸飲料と共に嚥下した。
時間を潰すように、あまり口に合わなかった飲み物をゆっくり飲んで日没を待つ。今まで菖蒲と出会った時間からして、彼がここを通るとしてもその時間は恐らく夜だ。けれども夕方に通りかかる可能性も捨てがたい。
通行人をぼんやりと眺めて、飽きたら携帯電話の時計を眺めて、しかしそんなことをしても退屈はしのげなかった。
諦めて帰ろうと思った僕の腕は、いきなり引かれる。危うく倒れ込みそうになるも、なんとか堪え、振り返ってみれば嬉しそうに笑う菖蒲がそこにいた。
「紫苑さん! こんにちはっ、何をしているんですか?」
「菖蒲」
その無邪気な笑顔を見て、思い出す。あちら側の世界で死ぬと記憶を失う。もしかしたら菖蒲は、月白に殺された時のことを覚えていないのかもしれない。
僕は先ほどまで座っていたベンチに再び腰掛けて、菖蒲も座るよう促した。
「聞きたいことがあって、待っていたんだ」
「ぼくに、ですか? なんでしょう?」
「『ウサギ』の正体を、教えて欲しい」
笑っていた菖蒲の表情が変わる。しかしそれは驚きでも焦りでもない。きょとんと目を丸くして、その頭が傾く。
「うさぎ? なんの、話ですか……?」
不思議そうに僕を映す瞳から、目を離せなくなった。分からない単語を耳にした時の顔。それだけで、菖蒲が何を忘れたのか大体予想がつく。けれど僕はそれでもなお質問を重ねた。
「君は兎の化け物を見たことがある?」
「えっ? 兎の、化け物? えっと、映画かなにかのお話……ですか?」
予想は確信となった。菖蒲が忘れたのは、偽物の月の世界の記憶。つまり今の彼に『ウサギ』の話をしても全くの無意味だ。他にも失っている記憶があるかもしれないが、そこまで彼に深入りするのはよくない。聞こうと思っていた話を聞けなくなった今、僕と菖蒲の間で会話が途切れる。菖蒲は不思議なことを聞いてきた僕を、未だ訝しげに見つめていた。
黙ったまま自分の手元だけに目をやっていると、僕が持っている缶を菖蒲がつついてきた。
「紫苑さん、飲まないんですか?」
「……あんまり美味しくなかったからさ」
「じゃあぼくが飲みたいです!」
「別にいいけど」
もう生温くなっているそれを菖蒲に渡す。喜んで飲んでいく姿を横目で捉えながら、時間を確認した。決して予定があるわけではなく、手持ち無沙汰なだけだ。口にする話題も見つからないまま、眩しい夕陽に目を細める。
それから数分が経ち、沈黙に耐えかねたように僕の口が動いていた。
「美味しい?」
「すっごく美味しいです!」
口に合ったようで、ほっとする。しかしこれ以上飲むのは悪いと思ったのか、僕に返そうとしてくる菖蒲の手をそっと押し返した。
「いいよ。全部あげる」
「ぼく、紫苑さんにもらってばっかりですね」
「そうだね。少し甘やかしすぎているかな」
「ぼくが甘えすぎているんだと思います」
甘えている自分を咎めるように、菖蒲が手に力を込めた。缶が音を立てて凹む。楽器の代わりになりそうな音が小さく響くも、それはすぐに電車の音で掻き消された。弓張駅のホームへ入っていく電車を後目で見送ってから、僕は小さく息を吸う。
「子供なんて、甘えるのが仕事なんじゃない?」
「紫苑さんもぼくくらいの時は誰かに甘えていたんですか?」
「……さあ。どうだったかな」
菖蒲の問いかけに曖昧な返ししか出来ない僕の言葉は、説得力に欠けていたのだろう。きっと、僕も子供の頃はよく甘えたものだ、と言っておけば子供はそういうものなのか、と受け入れてくれたに違いない。甘えない自分は間違っていないと主張するみたいに「ほら」と胸を張られた。
「それにしても、紫苑さんが誰かに甘えてるのって想像出来ないです」
「甘えたことなんてないのかもしれないね」
「じゃあこれからは家族の方とかに甘えないと駄目ですよ」
「なんで僕が」
「だって紫苑さん、僕よりは大人でも、まだ子供じゃないですか」
子供に子供と言われて口元が歪みかけたが、納得がいかないと言いたげな不満だらけの童顔に、毒気を抜かれる。子供がするような顔じゃない。僕を本気で心配して、気にかけているようなその顔は、あまりに大人びている。
ただはしゃいで遊んで、楽しんでいればいいはずの小学生から『楽しむ自由』を奪うと、その年で考える必要のないことばかり考えるのだろうか。
「……甘え方なんて、分からないんだよ」
長く小さな息と共に吐き出す。それは菖蒲を更に悩ませることになったようだった。うーん、と唸り出した彼を見て話題を変えようと思ったが、僕が何かを話し出す前にその唇は開かれていた。
「紫苑さんは、ぼくを助けて、甘えさせてくれるいい人ですよね」
「は? いい人? 僕が?」
初対面時に車道に放り投げるぞと言われておいて、よくそんなことを言えるな、と呆れつつも心配になる。大人は信用出来ないと言っていた割に東雲のことを信用しているように見えるところもあり、どんな人間でも信用して付いて行ってしまいそうな危うさを僅かに感ぜられた。
そんな心配などきっと露知らず。菖蒲は子供らしい笑顔を咲かせて首を縦に振った。
「はい。でも、思うんです。そんな紫苑さんのことは誰が助けてくれるんだろう。誰が、支えてくれるんだろうって」
ようやく表情が年相応になってきたというのに、発言が年不相応だ。
「もう少し子供らしいことを考えた方がいいと思うよ、君」
乾いた笑みを漏らすと、菖蒲は馬鹿にされたと思ったのか無駄に音を立ててベンチから飛び降りる。眉を吊り上げられても幼い顔では迫力がなく、むしろなぜか微笑ましい。菖蒲が子供らしい顔をしていれば、不思議とほっとすることが出来た。
菖蒲は缶を持った手を大きく一回振るう。中身が飛んでくるのではと焦ったが、どうやらもう飲み終えた後のようで、悲惨な事態になることはなかった。
「大人っぽくて知的な男の子の方が、好かれやすいんですよ! 多分!」
「それはどうかな。馬鹿みたいに騒いでいることが多くて、話していて面白い奴の方が好かれやすい気がするけど」
僕の意見に言い返そうとして、けれど思い当たることでもあったのか、不服そうに頬を膨らませて黙り込む。再びベンチに飛び乗った彼に、僕は別の話題を振った。
「そういえば、今日は塾終わるの早かったんだね」
「あ、はい。その日の分のプリントをやり終えたら帰れるので。今日はなんだか、いつもより集中出来て、一番にプリントをやり終えたんですよ! ぼく、偉いですか?」
「偉いっていうか、すごい、じゃないかな」
「あと、この前やったテストが返ってきて、満点だったんです! へへへ……お母さん喜んでくれるでしょうか?」
話題の変え方を間違えたことを確信して、僕は胸中で自分に「馬鹿」などと毒吐く。
笑いながら言っているのに、菖蒲の顔は翳っていた。それを見て気付いたことだが、恐らく菖蒲が忘れたかったのであろう記憶は、失われていない。
非日常の世界の記憶を失って、日常に戻されただけなのだ。それは決して悪いことではない。むしろよかったと僕は思う。非日常ばかりに心が向いて、日常を普通に過ごせなくなる前に戻ることが出来たのは、恐らく菖蒲にとって良いことだ。
失いたいと望んだ記憶を忘れられなかった。それは菖蒲自身からしたら納得のいかないことかもしれないが、忘れずに向き合えというお告げにも思えた。
間が出来てしまっていることにはっとして、不安げな目でこちらを見つめる彼を落ち着かせてやるように、微笑する。
「喜んでくれるといいね」
「はいっ! 紫苑さん、また今度お話しましょうね」
菖蒲は薄暗くなってきた空を見上げてから挨拶をすると、僕に礼儀正しく頭を下げ、駅へと歩いていく。駅の人ごみに吸い込まれていった小さな背中が見えなくなり、ようやく僕も歩き出した。
涼しい風が髪を揺らす。視界を遮った邪魔な前髪を払って、ふと香った金木犀の香りに思わず日付を確認した。九月二十五日。秋を知らせる甘い香りは、まだ微かに残っていた夏の匂いを上書きしていっているみたいだった。
六日後の文化祭・秋月祭を楽しみに思っている自分がいることに気付いて、笑ってしまう。僕が日常に楽しさを見出すなんて、と笑い飛ばしたつもりだったのだが、正直な気持ちを吐くなら、笑ったのはただ楽しみだと思ったからだ。
そんな自分に呆れて深呼吸をする。僕らしくない気持ちを自分の中だけに留めるように、空気と一緒に奥の方へ追いやった。




