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秋の夜の月1

          ◆


 壁に叩き付けた手が、痛んだ。


 気を失った浅葱と、血を流したまま動かなくなった菖蒲。彼らに僕は、なにも出来なかった。ただ目の前にいて、ただ一人虚ろな瞳で目の前を見つめて。何も、出来なかったのだ。


 気付いたら、元の世界に戻っていた。戻ってからようやく意識さえも戻ってきたようで、僕は衝動的に部屋の壁を殴りつけていた。普段紫土に暴れるなと言う僕がするような行動じゃなくて、笑いが漏れる。


 ああ、痛い。


 打ち付けた手の側面がじわりと痛むたびに、どんどん口元が歪んで、喉が痙攣して、馬鹿みたいに一人で笑っていた。頬を流れるものが涙だなんて、認めたくない。涙は悲しい時か嬉しい時に流れるはずのものだ。だから、これは違う。僕は今、笑って、いるんだから。


「……っ、はは……」


 喉が渇いているのか、乾いた笑いしか漏れなかった。笑っていないと、いけないと思った。そうして誤魔化さなければ、痙攣したままの喉から漏れるものが、嗚咽に変わってしまいそうだった。


 今更泣くのなら、菖蒲の前で泣いてやればよかったのだ。強がって涙を堪えて、まるで悲しんでいないように、菖蒲が呼吸を止めるのを見届けた。それは、彼を傷付けてしまったのではないかと思う。月白にやり返すこともしないで、菖蒲の傍にいてやることしか出来なくて、浅葱みたいに泣いてやれなくて。あの幼い瞳に、僕はどう映っていたのだろう。


 震えた唇が、勝手に開いた。


「ごめん、菖蒲……」


 声までもが震えている。嫌というほど、自分が泣いていることを伝えてくる。むかつくくらい悲痛な声で、気持ち悪かった。何も出来なかったくせに。そう自分を罰するように、再び力を込めて壁を殴った。震えを取り去ろうとして唇を噛むと、血の味が口内に広がっていく。目元を拭ってなんとか冷静になろうと深呼吸をした。だんだんと、冷静さを取り戻してくる。だんだんと、泣けなくなっていく。泣き叫んだ浅葱が正常で、ほんの少しの涙しか流せない僕が異常なのか、僕には分からない。


 あの時泣いている浅葱を見て、泣けなかった僕が人としておかしく見えたし、嫌悪感が湧いて出た。というのに、いざ涙が流れると、何故お前が泣いているんだと嘲笑したくなる。


 泣いていたのが嘘のように瞳が乾いて、僕は軽く目を伏せた。冷静に、数時間前のことを振り返る。


 菖蒲は、なんで謝るんですか、と言った。記憶を忘れたらいい子になれるかもしれない、とも。彼が傷を負っていなかったら、恐らく僕はその頬を打っていた。それくらい、ふざけるなという怒りが頭の中を占めていた。


 菖蒲が記憶を忘れて、何が変わるというのだろう。仮に母親を嫌だと思った時の記憶を忘れられたとして、それで彼の母親が変わるとは、僕には思えなかった。


 記憶を忘れたくなんてない、と、もっと足掻いても良かったはずなのに。説明役だったはずの月白が自分を刺したことに、もっと驚いてもよかったはずなのに、菖蒲は素直になにもかも受け入れていた。


 僕はそんな、子供らしくない菖蒲に少しむかついて眉を寄せ、ベッドに腰掛けた。壁に掛けられている時計の針の音を聞きながら、思案する。


 月白の言葉を思い返してみると、疑問が浮かぶ。彼は『ウサギ』の命令に従ったまでだと言っていた。その命令は、能力者一人を殺すこと。


 第一の疑問は、何故このタイミングで『ウサギ』が動いたか、だ。考えられる理由として正体が知られたからではないかと仮定すれば、菖蒲が殺されたのは『ウサギ』の正体を知ってしまったから、という風に繋げられる。しかし、それでも納得は出来なかった。


 今まで聞いた話を信じるのなら、紫土と東雲が『ウサギ』の正体を知っている。あの綾瀬早苗という女性も知っていそうだ。本当に正体を知られたから殺したのであれば、菖蒲は正体を知ってしまっただけではなく、殺そうとした、または『ウサギ』を脅したという可能性が考えられる。紫土は『ウサギ』の正体を知っていても、『ウサギ』を殺そうとはしていないようだったから、殺されずに済んでいるのかもしれない。


 もしその推考が間違っていて、月白の言葉に嘘偽りがないのなら、もう一つの疑問が生まれる。月白が何故菖蒲を選んだか。それについての予想を組み立てていた僕は、突然部屋の扉が開かれたことに驚いて目を瞠った。


 顔を上げて見ると、不機嫌そう且つ眠そうな顔で紫土が僕を睨んでいた。


「お前、朝からうるさいんだけど」


 その一言だけで、なにについて言われているのかはっとする。先ほど僕が殴った壁は紫土の部屋側の壁だ。目覚まし時計では起きないくせに壁を殴ると起きるのか、などと考えていると、寄ってきた紫土に胸倉を掴まれた。


「ただでさえ昨日お前が晩飯作ってくれなかったことで苛立ってたのに、朝っぱらから人の部屋の壁殴りつけるとか、なんなのお前」


「……今更かもしれないけど、『ウサギ』の正体、教えてもらえないかな」


 紫土の発言を全て無視したことを、彼はどうやら気に留めなかったようだ。それよりも僕の質問の内容に驚いているみたいだった。皿みたいになった目が数秒僕をじっと見て、ようやく手を離される。


「教えてやってもいいけどさぁ、今『ウサギ』を殺されても困るんだよね」


「あっそう。ならいいよ。東雲に聞く」


「まあ待てって。ヒントくらいはあげるよ」


 紫土の横を通り過ぎて外に行こうとした僕は、ヒントという言葉に足をぴたりと止めた。振り返りはせず、そのヒントが口に出されるのを待つ。


 言うかどうか悩んでいるのか、「うーん」という唸り声が背後から聞こえてくる。なかなか言わないものだから、早く言えと言い放とうとした。しかしその前には、紫土の楽しげな声が室内に響いていた。


「早苗を問い詰めてみなよ。あいつ、いつもあっちの世界では三日駅近くの公園あたりにいるからさ。近いうちに行ってごらん」


「……分かった」


 部屋を出た僕は、ポケットに入ったままの携帯電話を取り出しながら、家の外へ出る。歩きながら浅葱に電話をかけてみた。本当なら家まで行って下らない話でもしたいところだが、いきなり家を訪問するのは迷惑だろう。


 耳に当てた携帯電話から、浅葱の声が聞こえてきた。


『紫苑先輩、どうしました?』


 少し、鼻にかかったような声だった。泣いていたのだろうか。僕は出来る限り柔らかい声を出してみる。


「おはよう、浅葱」


『え、あ、えと、おはようございます……』


 浅葱の声を聞きながら、家から少し離れた所にある小さな公園のベンチに腰掛けた。見回さずとも遊具の配置が分かるほど、小さい。そもそも遊具が滑り台とシーソーしかないから、ここで遊んでいる子供は滅多にいなかった。


 そんな静かな公園のため、誰かに遠慮をする必要がなく、普通に喋っているみたいに声を投げかけられる。


「もう、平気?」


『平気、ですよ』


「そう。……今度さ、一緒に待宵に行こうよ」


『っえ?』


 素っ頓狂な声が上がった。いきなりすぎて吃驚したのだろう。


 正直、電話をかけたものの何を話せばいいか分からず、不意に思いついたことを口に出しただけだ。だから言い出した僕自身も少しだけ動揺していた。浅葱に夜のことを思い出させたくなくて、それとは無関係な他愛もない会話をするつもりで電話をしたのだが、こういう時になにを話せばいいか考え付かなかった。


 もしや固まっているのか、何も返事が返ってこない。その沈黙が不安を呼んできて、僕の口を無理矢理こじ開ける。


「昨日、蘇芳のオススメのカフェに行ったんだけど、そこのデザートがすごく美味しくてさ。浅葱も、きっと気に入ると思うんだ」


『あ……ぜひ、行ってみたい、です。それと、私も美味しいクレープ屋さん見つけたので、紫苑先輩と食べたいです』


「じゃあ、そこにも行こう。来週の土日は空いてる?」


『来週の土日は……ふふっ、先輩、駄目ですよ。文化祭サボる気ですか?』


 浅葱が笑ったことにつられて、僕の表情も緩んだ。それから彼女の言葉を頭の中で反芻して、一瞬息をすることすら忘れた。「え?」と笑い混じりの声が漏れて、それだけで彼女は何かを察したようにくすりと笑う。


『もしかして、忘れていたんですね?』


「どうでもいいことは覚えないんだよ」


『先輩らしいです。でも、どうでもいいとか言わないで下さい。私は先輩と、その……一緒に回りたく、て……楽しみにしてたんです』


 だんだんと消えそうになっていく声がおかしくて、僕は口元に笑みを湛えた。僕が回ってくれない可能性が高そうだから、聞くことにすら不安を覚えているみたいだ。安心させてやるようにすぐさま言葉を返した。


「じゃあ、楽しみにしているよ。僕はどうせ暇だから、君の回りたいところに付いて行く」


『やった……! でも、一日目の午前は仕事があるので、よければ私のクラスに来てくださいね! 私、お化けの仮装しますから!』


「はは、お化け苦手なくせに自分がお化けになるんだ? お化け屋敷をやるクラスって結構本物が出るらしいから、気を付けてね」


『ど、どうしてそういうこと言うんですか! ほんと性格ひん曲がってますよね! 慰めるために電話してくれたんだって期待した私が馬鹿でした!!』


 まさか適当に言った言葉で浅葱が泣きそうになるとは思っていなくて、悲鳴に近い叫びで耳を貫かれながらも戸惑った。


「ごめん、そこまで怯えるとは思わなかった」


『もういいです。私が紫苑先輩のクラスにお化けのまま行って、先輩を驚かせてあげますから』


「やれるものならやってみなよ」


『や……やってやりますよ! 先輩のクラスは何をやるんですか?』


「多分、喫茶店」


 曖昧に呟いてみたが、その曖昧さの理由は十分想像出来たのだろう。苦笑された。不思議とその苦笑いが嫌じゃない。僕まで笑わせてくる。たかが電話で、こんなに顔が緩むとは思っていなかった。なぜこんなに浅葱を――。


『紫苑先輩が働いている姿、見てみたいです。あっ、でも先輩の周りに人だかりが出来そうですね』


 浅葱を?


 彼女が、なんだというのだ。僕は今自分が考えていたことすら分からなくなる。いや、正確には、どう思うか、に当てはまる言葉を忘れてしまった。彼女に抱いている気持ちの名称。それが、僕に見つかりたくないみたいに頭の中から逃げていく感覚。誰だって知っていそうな簡単な名称は、今の僕には見つけられなかった。


『――先輩?』


 高すぎない程度に高くて、透き通っている声。聞き心地が良い、なんておかしなことを考えてから、我に返る。


「あ、ごめん。なんだっけ?」


『いえ、えっと、その、いつもながらに私が下らないことを言っていただけなので大丈夫です。でも、ぼうっとしているみたいだったので』


「……少し、眠くなってきたから、かもね。そろそろ切ろうと思うんだけど、いいかな?」


 眠気は一切なかったが、誤魔化すために嘘を吐いた。悩みの原因である彼女に、悩みを打ち明けられるわけがない。


 通話を切ろうとしている僕を引き止めるように、浅葱が『あの』と躊躇いがちに零す。


「ん?」


『……菖蒲くんのことは、紫苑先輩のせいじゃ、ないですからね。だから、自分を責めたりとか、しないで下さいね』


「それはこっちの台詞だよ。僕は……気にしてないから。浅葱こそ、僕のことも菖蒲のことも気にしなくていい。君はいつも通り楽しく過ごして、笑っていればいい」


『でも、せんぱ――』


「切るよ」


 まだ何か言っていたが、これ以上聞く必要はないと判断して容赦なく電源ボタンを押す。僕を心配している声に苛立ってしまう自分を、短気すぎるだろうと鼻で笑い飛ばした。


 声音からして、浅葱はもう大丈夫だ。今度は菖蒲の姿を求めて公園を出たけれど、彼の家も連絡先も知らない僕は、歩道で馬鹿みたいに呆然と立ち尽くした。目の前を白い車が走り抜けていく。東雲の車も白だったなと思い起こしたのと、彼に電話をかけたのはほぼ同時だった。


 数回のコール音の後、僕はすぐに尋ねる。


「東雲、菖蒲の居場所、分かる?」


『はい? まさか菖蒲くん、もう動いたんですか』


「……は?」


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