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笑顔5

 駅を出ようとした時、私の携帯電話が鳴り始めた。紫苑先輩と顔を合わせると、電話に出るよう視線で促される。


 表示されている名前はお母さんだった。こんな時間まで外にいることを心配したのだろうか。


 電話に出ながら、私と先輩は駅の端の方の、邪魔にならない場所に歩いていく。


「も、もしもし?」


『浅葱? 今日帰ってこないの? 夜ご飯作らない方がいい?』


「あ、ううん、帰るよ。でも……今、その、学校の先輩と一緒にいて、ね? ファミレスでご飯食べようかと思ってたんだけど……」


『そうなの? うちのご飯の方がファミレスより美味しいわよ。その先輩と一緒に帰ってきたら?』


 その言葉を、私は小声で反芻した。先輩と一緒に、帰る。


 ……いや、駄目だろう。男の先輩と二人でいたなんて、確実に彼氏だと間違われる。それにこんな綺麗な人があの母の目に映った時のことを考えてみたら絶対に無理だ。美人に目がないお母さんが、紫苑先輩を見たら卒倒するかもしれない。それか近所迷惑になるくらい騒ぐかもしれない。


 あたふたしながら、紫苑先輩に助けを求めるような視線を送ってみた。もちろん会話が聞こえていない先輩は不思議そうに首を傾げる。たったそれだけの仕草に心臓が高鳴った。あまりに素敵だったのだ。


 見なければよかったと思うくらい、動揺が百倍ほどに膨張した。挙動不審な人みたいに、手と首が忙しなく動き出す。落ち着きたいのに母は急かしてくる。


『で? どうするの? 今日父さん帰ってこないみたいだから、一人分多く用意しちゃったのよ。ちょうどいいから連れてきてくれると助かるんだけど』


 なんて、残飯処理係みたいに先輩を扱おうとしているけれど、本人を見たら絶対今みたいな冷静さではいられないと思う。むしろもっと良いものを振舞おうと、高級なワインなどを引っ張り出してきそうだ。……未成年だから流石にそれはないと思いたい。


「ちょっ、ちょっと、待って。今、先輩に聞いてみるから」


『いくらでも待ってあげるから落ち着きなさいよ。母さん今暇すぎてプチプチ潰してるだけだから』


 プチプチ。正式名称は気泡緩衝材だったろうか。まあそんなことはどうでもいい。私は電話を耳から離して、先輩に声をかける。


「あ、あの……母が」


「帰って来いって? こんな時間だし、心配するよね」


「そ、そうなんですけど……その、うちでご飯食べていかないかって」


「…………は?」


 紫苑先輩の微笑が引き攣ったものになる。やはりお互い電車で別れるのが賢明な判断だろう。もう少し先輩と一緒にいたかったが、流石に家に招かれるのは先輩が嫌なはずだ。


「や、やっぱりなんでも――」


「いいよ。僕は、別に」


「……え!?」


 予想外の返事に、私は戸惑いを隠せない。目を白黒させていると、先輩がそんな私を視界から外すように横を向く。


「家の前までは送るつもりだったし。こんな時間まで君を外にいさせて心配させてしまったことを、謝らないといけない」


 そう言ってくれるけれど、私がこの時間まで外にいたのは紫苑先輩のせいではない。むしろ私が先輩のご家族に謝る方だ。私を待っていたばっかりに、先輩の帰る時間が遅くなってしまっているのだから。


 どうしようか悩んでいると、先輩が続けた。


「だからほら。早く君のお母さんを安心させてあげなよ」


「は、はいっ」


 紫苑先輩から少し離れて、私は電話を再び耳に当てる。本当にプチプチを潰しているようで、プチプチと聞こえてきてつい笑いそうになってしまった。


「お母さんっ。先輩、来てくれるって」


『そう。良かったわ』


 一応誤解される前に言っておこうと思い、私は声を少しだけ小さくして、先輩には聞こえないように伝えようとする。


「あの、あのね。先に言っておくけど、先輩だからね。恋人とかじゃなくて、本当にただの先輩だから」


『……ん? もしかして先輩って、男の人なの?』


「そ、そう! じゃあもう切るね! すぐ電車乗って帰るから!」


 まだ何か喋っていた母に、私は構わず電話を切った。鞄に携帯電話を仕舞い込み、紫苑先輩に近寄ろうとして、少し待つことにした。先輩も誰かに電話をしているみたいだ。


「……家に何かあるでしょ? 適当に作って適当に食べてよ。……分かった。ああ、うん。……へえ、珍しいね。じゃあ作ってもらったら? まあとにかく、僕は夕食作れないから。切るよ」


 家族に電話をしているのは会話からして明らかだけれど、その声はとても不機嫌そうだ。そういえばお兄さんがいると言っていた時も顔を顰めていた気がする。あまり家族の仲が良くないのかもしれないと思っていると、先輩の瞳が私の方に向いた。


「行こうか。電車、あと五分で来るみたいだし」


「あ、はいっ」


 改札を通って、駅のホームに二人で立つ。なんだか緊張してきて、お互い無言のままに電車を待った。到着した電車に乗り込んで、空いている席に腰掛ける。先輩は座らず、私の前に立った。


 待宵市から三日市までは四駅だけれど、結構時間がかかる。少し眠たくなってきたみたいで、私の頭がかくんと下を向いた。それに気付いたらしい先輩が、電車の外を見つめながら小さく笑った。


「寝てていいよ。一駅前……弓張駅に着いたら、起こしてあげるからさ」


「い、いえっ、そんな……悪いです!」


「君の家まで行く途中で歩きながら寝られても困るから、お言葉に甘えて欲しいんだけど」


「……はい」


 大人しく、私は瞼を閉じた。


 しかし、眠れない。紫苑先輩に寝顔を見られるのかと思うと、まず落ち着くことすら出来ない。結局ただ目を瞑ったまま起こされるのを待った。


 ドキドキしているせいか、思ったよりも弓張駅に着くのは早くて、先輩に軽く肩を揺すられて目を覚ます、フリをする。どうやら本当に眠っていたと思ってくれていたようでほっとしながら、私はあと一駅、ぼんやりと窓の外を眺めた。もう真っ暗だ。


 三日駅に着いてすぐに電車を降り、紫苑先輩と並んで歩く。やはり、無言だ。これから先輩とあの母を会わせるのかと思うと、踵を返したくなる。しかし返したところで一体どこに向かうのだろう。もうこのまま私の家に向かうしかなかった。


「……あの、ほんと、ごめんなさい。いきなりうちでご飯を、なんて……」


「いや、気にしなくていい。君が普段どんな食事をしているのか、少し気になるし」


「ええっ!? き、期待しちゃだめですからね! 一般庶民のご飯ですよ!?」


「富豪が食べていそうな食事が出てきたらむしろ帰りたくなるんだけど」


 それもそうかと思い、くすりと微笑する。紫苑先輩も、私と同じように笑っていた。初対面の時はあまり笑わなさそうな人だと思っていたけれど、先輩は結構笑ってくれる。その綺麗な顔で笑われるたびに心臓が大きく揺れていることなど、彼は知らないのだろう。


 家の扉の前まで来て、私は鍵を開けた。その直後。


「お帰りなさい、あさ――」


 びっくり箱を開けた時みたいにお母さんが飛び出してきて、私に抱きつこうとしたまま動きを止めた。その目が捉えるのはもちろん、私の後ろに立っている紫苑先輩だ。振り返ってみると先輩は僅かに目を丸くしていた。


 何故かしんと静まり、私だけが慌ただしく視線を行き来させる中、先輩がお母さんに会釈した。


「初めまして。呉羽紫苑と言います」


 紫苑先輩の敬語がなんだか新鮮で、つい驚いてしまう。敬語使えたんですね、なんて失礼なことを言うところだった。


「今日は……その、浅葱さんをこんな遅くまで連れ回してしまって、すみませんでした」


 紫苑先輩は何も悪くないのにこうして頭を下げて謝っている姿を見ると、本当に申し訳なくなる。私が連れて来なければ、先輩が謝る必要なんてなかったのに。


 私は弁解するため捲くし立てようとした。しかし、そんな私を押しのけて、お母さんが靴も履かずに玄関から出てくる。


「いえいえいえいえ!! 気にしなくていいのよ! この子でよければ、いつでもどこでも連れ回してやってね! 浅葱ったらあんまり外に出ないで家でゴロゴロしてばかりだから! 休日なんてずっとパジャマの日もあるのよ?」


「ちょっ、ちょっとお母さん!」


「さ、紫苑君! 気にしないで上がって! 美味しいご飯用意出来てるから! 萌葱ー! 萌葱、紫苑君リビングまで案内してあげてー!」


 私を外に追いやったまま、お母さんは動揺する紫苑先輩の背中を押して家の中へ入れる。「ちょっと浅葱と話してからすぐ行くわ」と先輩に言って、扉を閉めてしまった。


 私はあまり彼女と目を合わせたくなくて俯いたが、両腕をがしっと掴まれて、驚きのあまり顔を上げてしまう。


「ちょっと浅葱。あんたどうしたの。モテ期? 少女漫画のヒロインか何かが乗り移った?」


「ち、違うってば! ただの先輩だって言ったでしょ!」


「……そ。でも嬉しいわ、目の保養よ彼」


「やめて。本当にやめて。頼むから先輩に迷惑かけないで」


「分かってるわよ~。遠くから二人のこと見守っててあげるからっ。頑張りたまえ我が娘よ!」


 はっはっは、とよく分からない高笑いのような声を上げながら、お母さんは家の中に入っていく。ほんの少しの間の後、私もその背中を追いかけるようにして、リビングに駆け込んだ。


 テーブルの上には鮭のムニエルとご飯と味噌汁、海草サラダとマッシュポテト、デザートのレアチーズケーキが並んでいた。多分今後紫苑先輩がご飯を食べに来ると言ったら、もっと豪勢な食事を用意するのだろう。


 私は先輩の向かい側に座って、いただきますと両手を合わせる。


 私の家のリビングはキッチンの正面に食卓があって、その奥にテレビとソファがある。萌葱とお母さんはソファに座っていた。萌葱はというとテレビに釘付け、お母さんは紫苑先輩に釘付け。背中に視線が突き刺さっていることに紫苑先輩はきっと気付いていない。


「……美味しい」


 テレビの音声だけが響いていた室内に、紫苑先輩の呟きが響く。歓喜したお母さんが立ち上がって、先輩の隣の椅子の背もたれに両手を突いた。


「本当!? こんないつも通りな食事しか出せなくて本当に申し訳ないんだけど、口に合ったのならよかったわ!」


 愛想笑いを浮かべる先輩とお母さんのテンションの差がすごくて、とても恥ずかしくなってくる。先輩、ただでさえ疲れているだろうに、これ以上疲れさせないであげてほしい。そんな思いを込めてお母さんをじーっと睨むと、嫉妬だと誤解されたのか、悪戯っぽく笑われた。


「ふふ、母さん邪魔者みたいだからちょっと部屋に引っ込むわね! 紫苑君、ゆっくりしてって!」


 鼻歌交じりに立ち去る母を横目で見て、私は小さく溜息を吐いた。


「ごめんなさい先輩、あんな母で」


「……素敵なお母さんだと思うよ」


 お世辞でもなんでもなく、本当にそう思っての発言みたいだった。先輩は小さく笑ったまま、ご飯を食べる。


 私も冷める前に食べないとと思って慌てて箸を持ち始めた。味噌汁に口を付けていると、萌葱がテレビに向けていた視線をこちらに移す。


「ねえ、もしかしてわたしも邪魔かな? やっぱ初おうちデートとかいうのは二人きりがいいよね?」


「――げほっ、ごほっ!」


 飲んでいた味噌汁を噴き出すという最悪なことを紫苑先輩の前でするところだった。なんとか飲み込んだものの、きちんと喉を通らなかったみたいで咳き込む。


「っもう、黙って! 萌葱の馬鹿!!」


 にしし、と妙な笑い方をして、萌葱がソファに寝転がる。紫苑先輩に今のやりとりはどう思われただろう。気を悪くされていなければいい。不安に思いながら前を見ると、先輩はもうご飯とムニエルとポテトを食べ終えていた。早い。味噌汁を一口飲んで微笑み、私の視線にようやく気付いてくれる。


「……今日はありがとう。外で食べるより美味しいよ」


「あ、ありがとうございます……母に伝えておきますね」


「よろしく」


 それからは萌葱がちょっかいを出してくることもなく、食器の音とテレビの音声にリビングが占拠される。ちらとテレビを見てみると、ホラー特集のようなものがやっていて私は青ざめた。


「も、萌葱、ごめん。テレビ変えて」


 見たくないのなら見なければいい話だが、つい目がテレビに向いてしまうのだ。多分、目の前にいる紫苑先輩を見ると顔が真っ赤になりそうだからだろう。私は涙目で萌葱に懇願するも、萌葱はとても冷めた視線を私に寄こしてくる。


「姉さん酷くない? ここから面白いところなのに」


「ごめん本当に無理なの。私先輩の前で恥かきたくない。変えて」


「紫苑さんの前でそう言ってる時点でもう遅いと思うんだけど。……おっ」


「いやぁああああ無理ぃいいいい!!」


 萌葱は鬼だと、この時心の底から思った。紫苑先輩が今どんな顔で私を見ているのか、見たくない。俯いて両手で顔を隠したまま、私はしばらく顔を上げられなかった。


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