笑顔4
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甲斐崎さんと雑貨屋に行ったりゲームセンターに行ったり、最終的にはカラオケで一時間ほど歌って、今は駅に向かっているところだ。
雑貨屋を見るのは楽しかったし、普段は滅多に行かないゲームセンターに行って騒音に驚いたけれど、甲斐崎さんとクレーンゲームをするのもすごく楽しかった。私の手首には、甲斐崎さんがクレーンゲームで取ってくれた腕時計が着けられている。アンティーク風で、文字盤の端のほうに小さく兎のシルエットが描かれていて、可愛い。
誰かと電話をしている甲斐崎さんを他所に、私は今日の楽しかった出来事に浸りながら歩いていた。
カラオケも楽しかった。私はあまり歌が得意ではないと思っているからすごく恥ずかしかったが、甲斐崎さんが最近流行っている有名な歌を一緒に歌おうと言ってくれたから、緊張せず楽しく歌えた。今日は本当に楽しかったな、と心の中で呟くと、自分の顔が綻んでいくのを感じる。
再び腕時計に視線を落としてにやにやしていたら、甲斐崎さんに肩を引かれた。
「宮下、蘇芳から電話があった。あいつはもう帰るらしいぜ」
「……えっ、そうなんですか」
蘇芳ちゃんと紫苑先輩のことをすっかり忘れていて、一瞬何のことか分からなかった。間が出来てしまったことは気にされていないようで、甲斐崎さんは頷く。そして悩むように視線を彷徨わせてから、私の両肩を優しく掴んだ。
「……なあ、お前も、もう帰りたいか?」
「え……」
「蘇芳に言われたんだ。駅で呉羽だけ待たせるから、お前を呉羽に押し付けて俺は一人で帰れって。お前は……その……」
紫苑先輩が、待っていてくれている。そのことは素直に嬉しかった。けれどそれは先輩が、私がここにいることを知っているということだ。蘇芳ちゃんが話したのだろうか。それとも、私が甲斐崎さんと二人でいるところを見られたのだろうか。どちらにしろ、誤解をされている可能性が高い。
早く先輩に会って誤解を解かなければ。そう思って前を向くと、甲斐崎さんが、息がかかるほどの距離で私を見つめていた。両肩に、少しだけ力が込められる。鋭い目つきは、しかしどこか寂しそうだった。
「お前は、俺と、あいつ……どっちと帰りたい?」
「わ、たしは……」
どうしたいかなんて、決まっていた。それでも口に出せないのは、甲斐崎さんの無理に強がっているような目から、視線を逸らせないから。
今日一日楽しませてもらったのに、私が出そうとしている答えはきっと甲斐崎さんを傷付けるものだ。恩を仇で返すような、そんなひどいもの。
私が唇を結んで黙りこくっていると、ふっと肩にかけられていた力が弱くなる。甲斐崎さんの手の温度が離れて行く。するとすぐに、両肩を軽く押された。
「……なんてな。冗談だ。お前がいたい場所なんて、心の声を聞くまでもなく分かってんだよ」
優しい声を耳にして、私はほっとしたように胸を撫で下ろした。甲斐崎さんは、本当に冗談だったみたいに笑い、私の手を引いてくれる。
「じゃあ、そうだな……とりあえず、改札前までは一緒に行こうぜ」
「はいっ」
別れるまで楽しい気持ちのままでいたいと思って私も笑った。
偽物の世界に招かれてから、なんだか毎日が楽しいような気がしている。もちろん、死の恐怖と隣り合わせなあんな世界に招かれたくなかったと思うけれど、招かれたから紫苑先輩とも近付けたし、甲斐崎さんや蘇芳ちゃんみたいな友達も増えた。
やはり、友達と休日を過ごすのは楽しい。楽しい気持ちになれれば、嫌な出来事も忘れられる。今の私を支えてくれているのは甲斐崎さん達だ。少しだけ、『ウサギ』に感謝したくなってくる。
「お前、そうやって油断するなよ」
聞かれていたのか、甲斐崎さんに注意されて、誤魔化すように叫んだ。
「わ、わかってます! でも危ないのは『ウサギ』じゃなくて、人兎ですし」
「いつ『ウサギ』が動くかなんてわからねぇだろ?」
「それは……そうですけど……」
不思議なことに、私達を招いておいて『ウサギ』は動きを見せていないような気がする。人兎をただ徘徊させて、能力者同士を戦わせて……『ウサギ』は一体どこで何をしているのだろうか。
私達みたいに協力者を持ち、『ウサギ』であることを隠して陰で笑っていたなら。私達を殺す機会を窺っていたならと考えただけで、背筋が凍る。
そんな私を安心させるように、甲斐崎さんが私の手を強めに握り締めた。大きくて温かい手は、私をほっとさせてくれる。
「大丈夫だ。お前には、あいつが傍にいてくれんだろ」
あいつ。すぐに、紫苑先輩だと分かった。甲斐崎さんの言う通りだ。私には紫苑先輩がいる。先輩が、私を守ってくれる。先輩の顔を思い浮かべるだけでにやけてしまいそうになる私がいて、恋の病というのは凄いものだなと頬を赤らめた。
それからすぐに首を左右に振り、私は少し早足で歩いて甲斐崎さんの隣に並んだ。手はもちろん握ったままだ。傍から見たら兄妹に見えるのではないだろうか。
そう思ったらなんだか楽しくなってきてしまって、子供みたいに、繋いだ手を前後に大きく振りながら歩いた。
「なあ、宮下」
「はい、なんでしょう?」
「月……綺麗だな」
地面か正面しか見ていなかった私は、その言葉でようやく視線を上げる。綺麗な満月が星空に浮かんでいた。
こういう景色を眺めるのは、好きだ。人といる時に景色を眺めることはそうそうないけれど、誰かと一緒に空を見上げるのも、なんだか心地がいい。
「本当に……綺麗ですね……」
甲斐崎さんの小さな溜息が聞こえた。それは感嘆で吐き出されたものだろうか。私も、吐息が零れそうなくらい綺麗な星空に目を奪われ続けていた。おかげで足元の段差が見えておらず、躓いてしまう。
「あっ……」
「……っと」
ぐいと引っ張られて、抱きとめられる。私は助けてもらったにもかかわらず、すぐさま甲斐崎さんを押しのけるようにして離れてしまった。なんだか恥ずかしかったのだ。
「あ、ありがとう、ございます……」
「い、いや……。お前、もうちょっと気をつけろよ」
こく、と頷いて、私は今度こそちゃんと段差を踏み越えた。その段差の先、駅に足を踏み入れると、時間が遅いからか構内は沢山の人で溢れていた。
「……じゃ、俺はこれで」
甲斐崎さんはポケットから財布を取り出して、券売機の方に歩いていく。私も慌てて「ま、また今度!」と返したはいいものの、この人ごみのなかでどうやって紫苑先輩を見つければいいのか困って、眉尻を下げる。
電話をして今どこにいるか聞いてみようと思い、携帯電話を取り出して見ると、メールが来ていた。紫苑先輩からだった。駅の本屋にいる、と書かれていたため、私は早足で人ごみの中を突き抜けていく。ゆっくり歩いていれば流されて改札の方へ行ってしまいそうだった。
なんとか混雑している所を抜けて、少し歩くと、ケーキ屋が目に入る。お腹が空いたな、と思ったが、私が今探しているのは飲食店じゃない。辺りを見渡してみると本屋はすぐに見つかった。ケーキ屋の向かい側にあったのだ。
店の中まで歩いて行くと、店内に人は少なく、紫苑先輩は簡単に見つけられそうだ。というよりも、すぐさま見つけられた。
受賞作だとか書店のオススメだとか書かれたポップ広告が貼られている棚の前で、紫苑先輩は真面目そうな顔のまま分厚い本を捲っていた。
「先輩……っ」
出来るだけ小さな声を出したつもりだったけれど、静かな店内に響いて恥ずかしくなる。先輩は小説を閉じて棚に仕舞うと、私に小さく笑った。
「良かった。メール、見てくれたんだね」
「もちろんです! その……遅くなってしまって、すみません……」
「いや、僕は読書という有意義な時間を過ごせたから気にしなくていいよ」
本当に、気にしていないみたいだった。メールが来ていた時間からして、三十分くらいは待たせてしまったと思うのに。
面食らっている私を、何故か先輩も驚いたように見ていた。何か驚かせるようなことでもしてしまっただろうかと、自分の頬に手を当てる。もしかしたらクレープの生クリームが顔に付いているのかもしれない。手の甲で口元を拭っていたら、先輩の優しい声が耳を撫でた。
「制服姿が見慣れてるからなんか新鮮だね」
「……え?」
「やっぱり君、白が似合う」
私は慌てて自分の格好を見下ろした。今日着ているのは、白いワンピースに薄緑色のカーディガン。紫苑先輩に会うためだったなら、もっとお洒落をしたと思う。だけどこれでも褒めてもらえたことが嬉しくて、顔が熱くなった。嬉しさと戸惑いのせいで私は今おかしな顔をしていることだろう。
熱い顔を上げて真っ直ぐ紫苑先輩を見つめると、目が合った途端逸らされた。先輩は視線を逸らしたまま何度か口を開け閉めして、ようやく呟く。
「……と、思う」
付け足された言葉に、ついくすりと笑ってしまった。紫苑先輩らしい。言うつもりはなかったのであろう言葉を口にしてしまった時、いつも先輩はこんな風に誤魔化している気がする。
「紫苑先輩も、かっこいい、です」
顔から火が出そうだった。いや、鏡を見てみたらきっと、褒められた時点でもう出ているのだろう。私は俯いているけれど、先輩が息を呑んだのは感じていた。
「……仕返し、しなくていいよ。馬鹿なんじゃないの君」
相変わらずの、照れ隠し。馬鹿呼ばわりされても、心から馬鹿だと思われているわけではないから嫌な感じはしなかった。むしろ、私が先輩を照れさせているのだと思うと、なんだか嬉しい。
「えへへ、やられたらやり返すのが普通、ですよっ」
胸を張って言ってみせたら、紫苑先輩がやれやれという様子で持ち上げた肩を落とす。それから店内にある時計を一瞥して、悩むように小さく唸っていた。
「……君、この後どうしたい? 夜ご飯は枯葉と食べた?」
「いえ、まだです。紫苑先輩もまだなら、どこかで食べませんか?」
「じゃあそうしようか」
お互い夕食はまだだったみたいで、良かった。どちらかが食事を済ませていたら、恐らくもう電車に乗ってお別れになっただろう。
「駅前にファミリーレストランがあったのですが、そこでどうでしょうか?」
「いいよ。そこにしよう」
「はいっ」




