あの月にウサギはいない4
◇
授業が終わって、紫苑先輩と別れ、三日駅で電車を降りた私は家へ向かって歩道を進んでいた。すれ違った女子高生が待ち合わせ時間について話していた。楽しそうなやり取りに、私も紫苑先輩との会話を回想して目元を撓ませる。
普段乗っている電車の時間と号車を先輩に教えてもらったため、これからは毎朝それに乗り遅れないよう、早く起きなければならない。帰ったらお菓子でも作って、今日のお礼として明日持って行こうかな、なんて考えていれば自然と口元までにやける。まるで彼女みたいだ、と思ってすぐにそれを否定した。
紫苑先輩はきっと、私を死なせたくないだけだ。恋愛感情など抱いてはいないだろうし、これからもきっと抱かない。そんな人のような気がする。他の人よりも私の方が少し紫苑先輩に近いだけで、彼の『他人と深く関わらない』という態度は同じだ。
昼休みに彼のもとを訪れた時、ああ、この人は誰にも興味がない人なのだろう、となんとなく感じた。そんな瞳を、していたから。
友達というのも、上辺で繕っているだけのような――。
「……これから、近付ければ良いな」
つい、口から零れてしまった。また口端が緩んでいることに気が付いて、私は下唇を噛んだ。
彼女のいなくなった世界で、私は笑うことが許されるのだろうか。彼女の死を忘れるように、笑っていて良いのだろうか。考えてしまうのは、そんなことだ。
ねえ桜。どう思う? あなたがいないのに、笑っている私を見てどう思う? あなたはもう笑えないのに、私は笑っていていいの?
――人の死って言うのは、見つめて、乗り越えて、ずっと背負っていかなければならないものだと思うよ――
頭を過ったのは、誰の声だったか。少ししなければ思い出せないほどに、私は今桜のことしか考えることが出来ていなかった。
――忘れてはいけない。その人が自分にとってどんな存在だったのか。大切な人だったとしても、引きずられて後を追ってはいけない。残された者は、その人の分も生きなければならない――
「紫苑、先輩……」
どうしてか涙が頬を伝って、無意識のうちに零れた彼の名は震えていた。何をしているのだろう私は。出会ったばかりの彼に、救いを求めているつもりなのだろうか。拭われない喪失感をせめて埋めてもらおうだなんて、おこがましい。
慌てて涙を拭ってから、独り言を誰かに聞かれていたらと恥ずかしくなって、視線を動かす。
「――え」
信号は赤なのに、一台の車が止まる様子を見せずこちらへ向かっていた。
私の方に。
それを見た途端、ぐちゃぐちゃになりかけていた頭の中が空っぽになった。それからは思考が一つのことで満たされ始める。
「っ!」
逃げなければ。
今から走り出しても、私の足の速さでは横断歩道を渡りきることが出来なさそうだった。それでも、必死に足を動かす。
大きなクラクションが鳴った。通行人の悲鳴が私の耳を突き刺す。
逃げてって、そんなこと分かってる。だから走っているのに。
止まれって、そんなの運転手には聞こえない。きっと窓が開いていないのだから。
時の進みが遅い。足が、ひどく重く感じる。水の中にいるようだった。向かって来る車が焦らすような速度に見える。実際はどう見えているのだろう。
「……いやだ」
死にたくない。
死にたくない。
おかしい。朝の私ならきっと、これを好機としてこの場で立ち止まり大人しく轢かれただろう。今の私は、醜いほど生に執着している。
――お願い。
手を伸ばした。届いて欲しくて。この視界の先にある歩道まで、行きたくて。
行きたい。生きたい。逝きたくない。
精一杯祈って、ぎゅっと目を閉じた。瞳の熱さに耐えられなくて瞼を持ち上げる。
ああ。遠い。あの場所も、音も、何もかもが、遠い。
…………。
ふと気付くと、私は横断歩道を渡りきっていた。後ろを向いてみたら、あの車はもう通り過ぎてしまったようだった。
乱れる呼吸を落ち着かせようとしている私に、数人の通行人が駆け寄ってくる。夢でも見ていたような感覚を、彼らが現実のものだと物語る。
「大丈夫!?」
皆知らない人なのに、私をとても心配してくれている。それがなんだか嬉しくて、ほっとしたせいもあってか涙が流れ出してしまいそうだった。
「大丈夫です」
それだけ言うと、私はその横断歩道と周りの人達に背を向けた。あとは家まで歩くだけで、横断歩道はないからきっと心配はない。
けれども、心地良いはずの風で倒れてしまいそうなほど、蹌踉としていた。未だに震えている足でこつこつとローファーを鳴らしながら歩いていたら、私の話が背中にかかってくる。
「それにしても危ないわねぇ。運転手は何をしているのかしら」
「というか、あの子おかしくなかったか?」
「おかしいって?」
「なんて言うか……あそこまで走ったというよりワープしたみたいな」
「何言ってんのお兄さん。疲れてるんじゃない?」
聞き流す程度に聞いていたが、少しだけ不安が湧き出す。私も、何かがおかしい気がしていた。確実に間に合わないと思った。
だけど、助かったことは本当に良かったと思う。きっと奇跡が起きたのだ。気にする必要は無い。
私は無事に着くことが出来た自分の家の扉に手を伸ばした。少しだけ震えている手に眉尻を下げる。ドアノブを回して扉を開けると、幽かに香った夕飯の匂いに安堵が込み上げた。
「ただいま」
そう言うと、キッチンにいる母がおかえりと返したのが聞こえた。母の方へは行かず、私は二階へ上がる。
夜ご飯は食べていないけれど、疲れているから寝てしまおうかと思った。疲労感に身を委ねて、自分の部屋のベッドへ横になる。一度布団に沈み込んだ体は簡単に起こせそうにない。勉強机の上で高らかに響いている秒針の音が、眠気を誘う。
瞼は簡単に下りて来た。眠りにつくことも簡単だ。すぐに意識は、溶けるように微睡んでいった。
◆
時計の針が十二のローマ数字を指す。着替えたばかりのワイシャツの上にブレザーを羽織って、僕は家を出た。疲れているとつい制服を手に取り、着用してしまう。しっかりとした生地のブレザーは、殺伐とした夜の中だと微かに安心感を与えてくれるが、動きやすいとは言い難い。しかしわざわざ部屋に戻って着替えるのは面倒で、気にしないことにして道路を進んで行った。
人兎を狩るのは日課のようなものだ。殺して、あわよくば『ウサギ』を見つけ、偽物の世界から抜け出すことを願う。
抜け出せたとしても、能力者である僕が『普通』になれるわけではなく、そもそも抜け出したい理由は『普通』に焦がれて、ではない。血を見ることにも殺すということにも慣れてきている自分が嫌だから、逃げ出したいだけだ。
そう考えると、自身は弱い人間だと思う。
強くあろうと心を冷え切らせても、弱さ故に本心を変えることは出来ないのだ。能力者でも化け物でもない、ただの人間に対して恐れを抱くほど弱いのだから。
車の通らない車道を歩きながら、小さな痛みを訴えた左腕を押さえる。より激しい痛みを与えて痛覚を麻痺させてしまいたかった。そう思っていれば、無意識下で右手に力が込められる。強く掴まれた左前腕部から指先にかけて、痺れるような疼痛が走った。
腕に傷が刻まれてから数時間が経過しているというのに、そこには確かな痛みが消えずに残っていた。表面よりも奥の方が痛む。誤魔化すように唇を噛み、腕に注いでいた視線を前へ向けた。
いつ襲われるか分からない世界で、自分の傷と見つめ合っている余裕などないはずだ。自身を叱咤する代わりに、歯に力を込めて唇の皮を裂く。口内に広がった血の味を苦々しく思いながらも、冷静になった脳で指令を出し、歩き出そうとした。
しかしながら、足は動かない。動けと念じても、足どころか手さえ言うことを聞かなかった。恐らく、何者かに動きを止められたのだ。
ただの化け物である人兎にそんな力はないから、能力者と考えるのが妥当だろう。能力者に襲われる確率を低く見積もっていたことが悔やまれる。
僕を操っている能力者は近くにいるはずだ。対象を見ていなければ、操ることが出来ないと思う。能力を使う際の制約が何一つ無いのなら、操られてしまったが最期、勝ち目は無いようなものだ。
どこから見られているかを予想して敵を探そうにも、顔すら動かせない。目を動かせる限り動かすが、視界に映る道路や民家の傍に、それらしき人物は見当たらない。となると背後から見ているか、それとも死角からか、そのどちらかだろう。
「こんばんは。良い夜ですねぇ、少年」
響いた男の声と革靴の音は、僕の背に向けられていた。彼は、背後にいる。相手の正確な位置でも分かれば対処は出来るけれど、前に出てきてくれない限りは無理だ。勘を信じて攻撃するべきか、好機を待つべきか、悩んでいると小さな笑声が響く。
「君は『ウサギ』ですか?」
「違うと言って、お前は信じるのか?」
「まあ、信じられませんね」
殺してみるのが一番です――そんな狂気混じりの声が耳を撫でた直後、僕は道の端に落ちていた傘にぼそりと呟いた。
「〈行け〉」
誰にも届かないと思うほどの小さな声に応え、傘が勢い良く僕の横を通り過ぎる。その直後に僕の身体が吹き飛ばされて、電柱に打ち付けられたのは想定外だった。
「ッ!」
「ちっ……」
堪えた悲鳴と男の舌打ちが静寂の中で混ざり合う。彼の声を聞く限り、どうやら傘は当たったのだろう。
それにしても、操るという能力はその人間の行動を意のままにするだけかと思っていたが、違ったようだ。吊られた操り人形で遊んでいるみたいで、人形遣いという言葉が彼の能力を表すには相応しい。
身体のコントロールを奪うだけでは、今のように吹き飛ばすことなど出来ない。見えない糸で吊られ、その糸を大きく揺らされたような感覚だった。もし糸があったならそれを切ればいいが、勿論あるはずがなく、対処の仕様がない。
どうすれば彼の能力の対象から外れられるだろうか。思考しながら立ち上がろうする。地面に手を突くつもりだったが、操られていることを思い出して無駄かと思った。しかし何故か、僕の手は地面に触れて、立ち上がろうとする意思に従った。
男の方を後目で窺うと、彼は傘が当たったと思われる顔を片手で覆って俯いていた。
「……なるほど。お前の能力、やっぱり対象になる人物を見ていないといけないのか」
「それが分かった程度で、なんだと言うんです?」
蛇に似た細く鋭い目が、僕をしかと見る。かち合う視線が互いに敵意を剥き出しにする。僕は息とともに命令を吐き出した。
「〈曲がれ〉」
「!?」
僕を再び操ったことで油断していたのか、男の右腕は見えない何かに動かされる。通常では曲がらない方向を目指す右腕を青ざめたような顔で見てから僕を睨むと、左手で虚空に何かを描き出した。
否、対象に「こちらに動け」と指示を出したのだ。
無色の糸に引っ張られたかの如く、僕の身体は男の方へ引き寄せられ、その足元に転がった。アスファルトに打ち付けた肩が表皮に痛みを滲ませる。舌打ちをしかけたのは、彼の腕が折れる前にそれを視界から外してしまったからだ。すぐさま折るモノを足に切り替え、いざ実行しようとしたが、激痛に集中力が途切れた。
「く……っ!」
先刻僕が飛ばした傘を、男は僕の左腕に突き立てていた。もともと残っていた痛みも伴われ、思わず歯を噛み締める。喉からせり上がって来る呻き声は、腕が軋む音のようだった。
「腕、怪我でもされているのですか?」
楽しげに聞きながら、傘を捻り始める。彼は、僕がこの腕を掴んで顔を顰めていた様子を見ていたようだ。
『ウサギ』を見つけ、殺すのが目的というよりも、彼の場合弱者を嬲ることを楽しんでいるように見える。『ウサギ』かどうかなどどうでもよく、他者を痛めつけることを愉しめるのならそれでいい。そんな表情がそこにあった。
狂っている。けれど人間なんてそんなものだ。殺人という行為に興味を持つが、罰せられることを恐れてその興味心を押し殺す。そんな人間が『殺しても裁かれない世界』に来たら、その殺人欲求とでも言うべき感情を露わにするのだろう。
痛みで熱を帯びた腕を震わせ、拳を固めた。このまま嬲り殺されるなど御免だ。苦痛に引っ張られる意識を必死に引き戻し、一つのことだけに集中させる。
「ッ……〈折れろ〉」
ただ漏れ出た吐息に近い微かな声は、抑揚を感じられないほどに冷静だった。発した僕が驚くほど、無感情だった。
男が気付いた時には既に、残酷な音の余韻が夜風に攫われていた。何が起きたのか。そう問いたげな呆けた顔が、バランスを崩した体に引かれて倒れて行く。
なんとも思っていないような目で彼を見て、しかし口元だけがなぜかふっと緩んだ。
「がぁああああああッ!!」
獣の咆哮に似た悲鳴は、地面に転がった傘の音すら掻き消してみせる。
これが人兎だったなら殺す気で追い打ちをかけただろうが、相手が人間だから追撃をせず、折れた足に手を伸ばしながら呻吟している彼を見下ろした。
「その程度じゃ死にはしない。多分ね」
男の目を使い物にならないようにしたいけれど、目に向けて傘を振り下ろすというのは、流石に気が引けてしまう。
――だが、それでは駄目だ。この『甘さ』が彼に勘付かれれば、形勢逆転される可能性が高い。
こんな弱さなど、捨てなければならない。躊躇も、恐れも、命取りに成り得るものは全て――何もかも押し殺すんだ。
僕は傘を手に取って、男の傍に立った。腕が震えたのはきっと、藍色の風が傷口に染みたからだ。心なんて簡単に黙らせられる。
「そろそろ終わりにしようか」
感情という感情全てを殺した。ある種の狂気と殺意だけを足元の男に向ける。綻びなどどこにもない、完璧に繕われた殺意。それは傘の石突きへと乗せられた。
刃は無感情に、無慈悲な喪失を与えに向かった。