あなたのおうちはどこですか6
菖蒲はカードをめくりながら、涼しげな顔をして話し出す。
「紫苑さんはさっきぼくにどうしたい、って言いましたよね。ぼくは、お母さんの理想の子供になりたいんです」
僕が四組ほど取っていくと、菖蒲は驚いたように目を丸めた。それでも余裕そうににこりと笑ってカードを二枚ひっくり返す。
「お母さんがぼくを好きになってくれたら、嬉しいなって思うんです。だからぼくは、大人には絶対相談しない。だってみんな、お母さんが悪いって決め付けて、家に踏み込もうとするから。多分、ぼくはどうもして欲しくないんです。ぼくを助けようとか思わなくていいから、泣きたいときに傍にいてくれる優しい人が欲しいだけなんです。……なんか違うかな、えっと、つまり、泣いていいところが、欲しいんです」
「……」
「泣いても、うるさいって殴られないところが、あればいいなって思うだけで」
菖蒲の目から、涙が零れたように見えた。彼が目を擦ったから見間違いではなかったと思うが、見間違いだったと思うくらい今の表情に涙は似合わない。
ただ楽しいから笑っているだけのような、綺麗な笑顔だった。その瞳だけが赤らんでいて、おかしな感じだ。
「……ちがうんですよ? ぼくは、お母さんが大好きなんです。なのに、変なんです。ぼくが悪いから殴られるのに、なんで殴られなきゃいけないんだろうって思う時もあるし、お母さんが嫌になる時もあるんです。たぶん、だからですよね。ぼくが心の奥でお母さんを怖いとか嫌だとか思ってるから、お母さんも殴りたくなるんですよね。ぼくが気持ち悪いからお父さんがいなくなっちゃって、お父さんに捨てられるような悪い子だから、お母さんも僕を愛してくれないんですよね?」
「……っ」
「いい子に、なりたいな。お母さんに、偉いねって褒められたり、抱きしめてもらえたり……名前を、呼んでもらえるように、なりたい。ぼくを好きになってもらいたい、です」
照れくさそうな微笑が、僕の目には痛々しく映るだけだった。頑張る子供を見るのは微笑ましいことだろうが、菖蒲の頑張りを微笑んでやれるほど僕は楽観的ではない。菖蒲がどれだけ頑張っても、なにも変わらない未来しか見えなかった。変わるとしても、悪い方向に変わってしまったら。そう考えたら、本当に僕は何もしなくていいのかと、出来ることを考え始めてしまう。けれど僕が動くことは、菖蒲を裏切ることになる。
残酷な現実を突きつけてやるか、影で支えてやるべきか。僕はこの二択で、後者を選ぶしかないのだろう。正しいのがどちらかなんて僕には見当がつかない。
「……菖蒲。君が自分でもう一つの居場所を作る気がないなら、僕が勝手に作る」
「え?」
「泣いていい所が欲しいんでしょ? でも泣くだけなら許さないよ。好きなだけ泣いて、好きなだけ笑える。そんな居場所を、あげるよ。それが僕でよければね」
菖蒲が頼れるのは僕しかいないんじゃないか、なんて、口には絶対に出せない自意識過剰な考えから、僕はそう言っていた。
言いながら、僕は残り四枚だったカードを全て掻っ攫う。それでも菖蒲が今まで取った枚数には敵わなかった。
「僕の負けだ。チョコレート、買ってあげるよ」
「そ、そんな! 悪いです!」
「なに遠慮してるんだよ。初対面の時の図々しさはどこに行ったの? 子供は子供らしく、何も考えずにはしゃいでいれば良いんだ」
トランプをケースに入れ直して、僕は鞄に仕舞いこみ、立ち上がる。菖蒲がランドセルを背負ったのを見てから、トレーを片付けて店を出る。
「チョコレートを食べたら、今日はもう帰りなよ」
「……そうですね、チョコレートを持ち帰って、買ってもらったなんて言ったら叱られそうですし」
「というか、なんでいつもこんな遅い時間まで外にいるのさ?」
コンビニに入ってチョコレートをいくつか手に取りながら、ずっと気になっていたことを聞いてみた。買って欲しいのか、菖蒲が並んでいるプリンをじっと見つめていたから、仕方なくそれも手に取った。
「あ、えっと、塾に行ってるんです。ぼく、家は三日市にあるんですけど、塾は弓張市にあるので」
「……ちゃんと勉強してるの? 君、鞄にスケッチブックと筆記用具しか入ってないんでしょ?」
「プリントとか問題集は、塾の方に置きっぱなしです。前は持ち帰ってたんですけど、お母さんが破いてしまったので、それからはずっと持ち帰ってません」
自分で菖蒲を塾に行かせているのだろうに、破くなんてあまりに酷い。それにしても、せっかく美味しいものを食べて気分転換してもらおうと思った矢先に、悪いことを聞いてしまった。しかし菖蒲はというと、気にした様子はなくにこにこ笑っている。
僕はレジで商品を買って、店を出た。店の外にベンチが備えられているから、そこに腰掛けて菖蒲にチョコレートとプリンとスプーンを渡してやった。
「ぼく、大人になってお金稼いだら、紫苑さんに千円くらいあげないといけませんね」
「いいよ、そんなことしなくて」
「んー、じゃあ、来年の七夕で短冊にこう書きますね。紫苑さんが浅葱さんと結婚出来ますように、って」
自分用に買ったチョコレートを喉に詰まらせるところだった。この子供、何を言っているんだか。
ちゃんと噛んでからチョコレートを飲み込み、菖蒲を睨む。
「絶対に書かないでよ。浅葱が困るから」
「紫苑さんは、困らないんですか?」
僕が自分のことは言わなかったからって、にやにやしながら聞いてくる。からかっているつもりなのだろうか。僕は溜息混じりに吐き出した。
「困るに決まってるだろ」
「でも、お似合いだと思いますよ?」
「あっそう。僕と彼女はただの友達だけどね」
「そういえば紫苑さんって、本当に猫に餌あげてるんですか?」
いきなりの問いに、僕は菖蒲と会った時の会話を思い返した。そういえばそんな話をされた気がする。しかし今ここでそう問われることが不思議で、首を傾げた。
「本当に、ってどういうことさ。見たんでしょ? と言っても、一回しかあげたことないと思うけど」
「いえ、嘘です。紫苑さんとはあの時が初対面でしたし、その前に見かけたこともありませんでした」
「嘘、だったのか……」
確かによく考えてみれば、弓張市に住んでいるわけではない彼が、帰宅中の僕に会うのは低確率だと思う。二度も駅前で会ったから、これからも会うかもしれないけれど。
「紫苑さん、ごちそうさまでした。おいしかったです!」
どうやら帰る気らしく、まだ座ったままの僕に、立ち上がって背を向け始める菖蒲。
「途中まで送ったりしなくて平気?」
「はいっ、大丈夫です。それでは」
彼が大きく手を振ると、長い袖がぱたぱたとはためいた。長めの髪を揺らして駅の中へ入っていく姿を見送り、僕は携帯電話を取り出した。
電話をかけて、コール音を聞きながら彼が出るのを待つ。鞄を肩にかけて歩き出した時、ようやく繋がった。
『どうしたんです、紫苑くん?』
気付くと、東雲を頼ってしまっている僕がいる。協力者になってすぐは警戒していたのに、今は警戒心なんてどこかへ行ってしまった。
僕は歩くペースを落として、それと同時に声も落とした。
「……僕は、どうするべきだったんだろう」
『はい? なんですかいきなり。というか君、珍しく泣いてます?』
「違う。僕が泣くわけないだろ。少し疲れてるだけだよ」
声が震えてしまうのは、泣き出したいからではない。多分、自分に対する怒りとか苛立ちとか、そんなものだと思う。
僕は淡々と菖蒲のことを話し始めた。菖蒲の親のこと、菖蒲の意思。さっき菖蒲と話していたことをほとんど吐き出した。東雲は静かに聞いていてくれた。まるで、懺悔しているみたいだった。
「僕は、菖蒲が望むなら、解放してやりたいと思った。でも駄目だ。菖蒲は、母親の傍にいたいって望んでるから。僕は、何もしてやれない」
『……でも君は、君に出来ることをしようとしたじゃないですか。もう一つの心の拠り所になってあげようと思ったんでしょう? それで十分ですよ』
「十分かな? これじゃ、何も変わらない。菖蒲の環境は、変えてやれない」
話せば話すほど、自分が偽善者のようで気持ち悪く思えてくる。浅葱のこともそうだ。救えないくせに、救う必要があるわけでもないのに、中途半端に手を伸ばして。
こんな風に東雲に弱音を吐き出すのも、まるで僕じゃないみたいだった。浅葱に出会ってから変だ。いや、多分違う。同じ能力者に出会ってから、変なんだ。浅葱が能力者だと知って守りたい気持ちが増したから、そうだと思う。
偽物の世界に招かれたばかりの頃、『ウサギ』と友達になりたいと思ったことがあったなと思い出して、くすりと笑ってしまった。
『紫苑くん?』
「いや、なんでもない」
『そうですか。菖蒲くんのことは私も気にかけてみますが、君はあまり余計なことをしないで下さいね。菖蒲くんの家に乗り込むとか』
「流石にしないよ、そんなこと」
相当正義感の強い馬鹿くらいだろう、家に殴り込みに行くなんて。そんなことをしても菖蒲のためになることは何もないと分かっている。
なんだか話してしまったらすっきりして、苛立ちはもう僕の中から姿を消していた。
東雲が何かを思い出したように『あっ』と声を上げた。相変わらずの攻撃的なボリュームで、耳を塞ぎたくなる。
『あのですね、私を頼ってくれるのはすっごく嬉しいのですが、あまり信用はしないでください』
「……言われなくたって、信用はしてない」
『そうですか? ならいいのですが……。信用されると動きにくくなるんですよ。私は君が思うような優しい大人ではないので』
「知っているよ、戦闘狂でサディストだしね。大体優しい大人だなんて思ってないんだけど」
『あはは、ひどいですねぇ』
こんなことを言い出すあたり、十分優しい大人だと思う。けれどもそれを口には出さず、自分の中だけに留めておく。
話したいことは話し終えたし、もう話すことはない。僕は一言言ってから電話を切ろうと思ったが、東雲が僕を呼んだ。
『君、私なんかと友情を育んでいる暇があったら浅葱さん達と仲良くしたらどうなんです?』
「別に、君と友情を育もうとしているわけじゃないよ。大体、浅葱に菖蒲のことを話しても意味ないだろ」
『まあ、そうですけど……』
「電話、切るよ」
『ああ、はい。ではまた』
電話を切って、僕は携帯を仕舞おうとした。その手が止まったのは、画面に新着メールありと表示されていたからだ。
差出人は蘇芳だった。『ウサギ』のことで何か分かったことでもあったのだろうか、と思いながら本文に目を通して、眉を寄せた。
『呉羽先輩、来週の土曜日暇ですか? 暇ですよね。あたしとデートしてくれません? 予定がないのに断るのは駄目ですよ。こんなことを頼んでいるのには事情があるんですが、それは当日話します』
どう返事をしようか悩んだが、土曜は用事が入っていないし、蘇芳の言う事情も気になる。僕は『分かった』とだけ返して、家へ歩いて行った。




