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あなたのおうちはどこですか5

     ◆


 今日はもう帰って、夕食後にのんびり仮眠を取るだけだ。と思っていたが、そんな思いは東雲の家を出て三十分後くらいには既に砕かれていた。


 弓張駅の改札を抜け、階段を下りてすぐ、いきなり袖を引っ張られて転びかけた。人がのんびり帰宅しようと思った途端に一体なんだ、と僅かに苛立ちながら振り向く。僕の袖を引っ張っていたのは、ランドセルを背負った小学生――菖蒲だった。


「菖蒲?」


「……」


 声をかけても、何も言わない。俯いたままの顔は上げられない。また家の鍵を忘れたのかと呆れながら聞こうと思ったが、下げた視界に映った水滴が、僕から言葉を取り去った。


 今更気付いたが、菖蒲は声も零さず泣いていた。僕の袖を掴む小さな手は震えている。こういう時にどうすればいいか分からない自分を、本当に情けなく思う。


「……菖蒲、悪いんだけど今すごく空腹なんだ。とりあえずあそこまで付いてきてくれる?」


 駅前にあるファストフード店を指差すと、少しだけ上げられた菖蒲の顔が、指差す先へ向いた。いつから泣いていたのか、目元が腫れている。頷いたのを見てから、僕はゆっくり歩き始めた。僕の袖から手を離すことなく、菖蒲は付いて来てくれている。


 店に入って適当に注文してから少し待ち、二人分の食事が載ったトレーを持って、人の少なそうな場所に座った。向かい側に腰掛けた菖蒲は、まだ涙を零しながら、ハンバーガーを食べ始める。僕はこれからどうするべきか悩みつつ、鞄の中に入れたままだったはずのトランプを探す。去年暇潰しに持って行っていた物だからまだ入っているはずだが、なかなか見つからない。


「…………紫苑さん、食べないんですか?」


「え? いや――」


「食べないなら、ぼくが食べますけど」


「……食べたいなら食べても良いけどさ」


 教科書の下からようやく探し出したトランプをテーブルの上に置いた。テーブルの上のトレーを見ると、僕の分のハンバーガーはなかった。既に菖蒲の手の中だ。お腹が空いて泣いていた、ということはないのだろうが、食べた途端に泣き止んだから少し疑いたくなる。


 とはいえ全く美味しそうに食べていないところを見ると、やけ食いというやつかもしれない。僕は仕方がないから、ポテトとチキンナゲットだけで我慢することにした。


「……トランプ、ですよね。それ」


 咀嚼していたものをちゃんと飲み込んでから、菖蒲が言った。僕は頷いて、透明なケースに入ったそれを持ち上げてみせる。


「そう。食べ終えたら少しだけ付き合ってよ。気分転換になるかもしれないし」


「別にぼくは、気分転換なんてしなくてもいいです」


「へぇ。じゃあトランプ仕舞っていいかな」


「えっ」


 鞄に戻そうとした僕の手を引き止めようと、菖蒲の手が伸びてきた。僕は慌てて、照り焼きソースのついた菖蒲の手から逃れる。


「……食べ終わって、ちゃんと手を洗ってからね」


「…………はい」


「君、トランプやったことないの?」


 揺れた髪がハンバーガーに付かないか心配になるくらい、菖蒲は大きく頷いた。それから口に含んだ物を飲み物――確かメロンソーダだったはず――で流し込み、店内を見回す。


「ここに入るのも初めてです。これを食べるのも、これを飲むのも。紫苑さんといると美味しい物が沢山食べられますね。これからも食べさせてください」


「嫌だよ、なんで僕がこれからも奢ってやる流れになってるのさ?」


「……あの、ぼく、酷い顔してますよね」


 言葉につられて菖蒲の顔を見たが、見るまでもなく分かっていたはずだ。気遣う言葉が浮かばなくて、ただ首肯した。


「そうだね。テストで酷い点でも取った? それともいじめか喧嘩?」


「……どれでもないです。学校は、楽しいですし」


 問題が学校生活にないのなら、残る可能性は一つだった。恐らく家庭の事情だ。一昨日は両親が家にいないと言っていたし、両親は忙しい人みたいだ。親が仕事ばかりに意識を向けていると、親に構って欲しい子供は寂しがる、みたいなことを本で読んだことがある。


 僕が何も聞かずにポテトを食べていると、菖蒲から切り出した。


「紫苑さんにとって、家ってなんですか」


「……」


 似たようなことを東雲に聞かれたばかりで、僕は口を噤む代わりにストローを咥えた。どう返してやろうかと悩んでいれば、菖蒲が続ける。


「家って、温かくて優しい気分になれるところですよね。そこに大切な人がいるから、そこにいたいって思うから、毎日帰るんですよね」


 言われて、自分の家を思い浮かべた。大切な人と言われてもしっくりこない奴がいるし、優しい気分になれるわけでもない。この質問に対する正答を僕は持ち合わせていない。


 しかし、僕自身の回答をそのまま今の彼に伝えるわけにはいかなかった。だから申し訳ないけれど、思ってもいないことを口にする。


「まあ、そうなんじゃないかな」


 じゃあ。菖蒲がとても小さな声で呟いたのは、そんな言葉だったと思う。店内はそれほど静かではないから、正確に聞き取れた自信はない。


 僕の方を直視する菖蒲の双眸は、潤んでいた。また泣き出すのではと心配になる。学校で嫌なことがあったんだろうな、としか思っていなかった先ほどまでの僕を殴りつけたい気分に陥り始めた。彼の悩みは子供同士の喧嘩とは比べ物にならないくらい、きっと深刻なんだろう。


 そう推察してしまったから、すうっと息を吸って口を開いた菖蒲の声に、耳を塞ぎたかった。もちろんそんな非道なことは、出来るわけがない。


「……じゃあ、お前なんかいらないって、毎日殴られる。あそこは、ぼくの家じゃないんでしょうか? ぼくの……ぼくの家は!」


 大人びていて冷静だった顔はどんどん崩れていく。泣き出しそうに顔を歪めた直後、すぐさま落涙する。


 悲痛な声は店内に響いて、通りがかった人の視線を引き付けた。持ったままのハンバーガーの形が崩れるくらい手に力を込めると、菖蒲が俯いた。


 しんと静寂が訪れる。まるで教師の怒鳴り声が響いた後の教室だ。一分は経ったと思う頃、菖蒲が鼻をすする音が、ようやく他の客の声や食器の音に掻き消され始めた。


「居場所はっ……どこですか……?」


 ひどい声だった。掠れていて、弱々しくて。周りに簡単に掻き消されてしまう声量だった。それでも、僕を突き刺すには強すぎる声で、小さな弾丸だった。


 どう言えばいい。


 何も答えられない自分に苛立って、僕は僕に問いかける。それでも言葉は見つからない。僕の頭の中には存在しない言葉が正答なのだろう。なにも、返してやれない。


 浅葱だったら、こんな時どうやって慰める? 東雲だったら、どんな言葉で安心させてやる? 蘇芳や朽葉だったら、この空気をどうやって取り去る?


 駄目だ、何も思い浮かばない。一人で悩み続け、苦しみ続けたのであろう小さな子供に、僕は笑顔を取り戻させてやることすら出来ない。情けないにもほどがある。


「……」


 話を聞く限り、菖蒲が受けているのは虐待だ。こういう時、どうすればいいか高校生である僕には分からない。児童相談所に相談すればいいのか?


 今悩んでいても仕方がないと思い、僕はこれ以上深く考えるのをやめて、トランプを切り始めた。


「……ごめんね菖蒲。それは君にしか分からないことだと思う。けど、居場所って自分で決めるものだから、いつ変えたって構わないんだよ」


「……変えるも何も、始めからどこにもありません」


「どこにでも作れる」


「どうやって作るんですか」


「……君は、どうしたい?」


 この問いは少し意地悪だったかもしれない。というよりも、彼の脆い心を更に抉るものだと、僕自身分かっている。それでも聞かずにはいられなかった。


 本人の意思を尊重したいから、菖蒲の言葉がなければ僕は動けない。


 菖蒲はハンバーガーの最後の一口を飲み込んで、立ち上がった。


「手、洗ってきます。戻ってきたら、トランプやりたいです」


「分かった。トランプでなにをするか考えておくよ」


「ぼくも、紫苑さんにどう答えるかじっくり考えますね。少し、待ってください」


 菖蒲が席を立って、僕は乾いた喉にストレートティーを流し込んだ。咥えたストローについ歯を立ててしまう。


 彼の答えがどんなものだったとしても、僕は何もしないという選択肢を選んではいけないと思う。だから携帯電話を取り出して、ぼうっと眺めながら熟考する。


「……」


 結局、子供だけの力では何も出来ない。正しい判断すら出来ていないような気がする。人任せになってしまうが、僕はこの件を頼りになりそうな大人に任せることにした。電話をかけたものの、菖蒲が戻ってくる姿が見えたため、相手が出る前に切る。


 菖蒲は椅子に飛び込むと、僕の方に両手を差し出した。


「トランプ、しましょう!」


「二人だから……ポーカーとスピードと神経衰弱、どれがいい?」


「? えっと……」


 知名度が高そうなゲーム名を上げたが、知らないみたいだ。やったことがないと言っていたから当たり前と言えば当たり前か。


 とりあえず神経衰弱からやることにして、僕は切ったカードを伏せて並べ始め、ざっくりと説明をする。理解したらしい菖蒲は目を輝かせていた。


「おおっ……楽しそうです! ぼくが勝ったらこの前くれたチョコレート下さいね!」


「はぁ? まあ別にいいけど、君が負けたら何をしてくれるの? お金持ってないでしょ?」


「紫苑さんが勝ったら、ぼく、もう迷惑をかけません」


 並べ終えたカードを見つめる菖蒲の瞳は、どこか大人びている。少し前まで未知のゲームに年相応の輝きを見せていたのに、その子供らしさはどこへやら。菖蒲はカードではなく僕に視線を移して、続けた。


「夜以外は、紫苑さんを見かけても、泣きつきたくても、慰めて欲しくても、もう、我慢します」


「……なら僕は、勝つわけにはいかないよ」


 どういう意味か分からないと言いたげに首を傾けた菖蒲へ、僕は握った手を向けた。「ジャンケンで勝った方が先でいいよね」と言いつつ、ジャンケンも知らなかったらどうしようかと一瞬悩んだ。流石に知っていたようで、菖蒲はジャンケンの掛け声を上げる。


 結局勝ったのは僕だったから、先に二枚引いた。もちろんいきなり揃えるなんて奇跡は起きず、裏向きに戻して菖蒲に順番を回す。


 ほぼ無言でお互い引き合って、菖蒲が六回ほど揃えたあたりで僕を睨んできた。


「……わざとですか? 本当に、勝つ気がないんですか」


「そうだね、君がさっき言った言葉を取り消すなら、今から勝ってあげてもいいけど」


 菖蒲は不服そうに頬を膨らませる。子供らしい怒り方に笑ってしまいそうになった。彼が纏う真剣な空気に、笑い声なんて混ぜられない。


 僕が仕方なく二枚揃えてみせると、菖蒲が言った。


「取り消すので、真剣勝負しましょう。せっかく真剣衰弱って名前なんですから」


「……神経衰弱だよ」


「やっぱり紫苑さんは優しい人ですね。だから、さっきの紫苑さんの質問にも、ちゃんと答えようと思います」


 僕の突っ込みを思い切り聞き流して、菖蒲は悪戯好きの猫みたいな顔で笑う。もしかすると、僕は試されたのかもしれない。僕が信頼出来る人間かどうか、彼なりに定めるつもりで賭けを始めたのだと思えた。

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