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月下で蠢く漆黒の影6

 この男の意図が、全く読めない。僕を殺したいと言っているくせに、何故助けたのだろう。今僕が骨折していれば、死ぬ確率は高くなっただろうに。


 紫土は影を巧みに使って、窓から地面に着地する。


「知っていると思うけど、俺の能力は俺の影を自由自在に動かすことだ。物を動かすお前の能力じゃ、勝ち目がないと思った方がいい」


「誤解しているみたいだね。僕の能力の対象は物だけじゃない」


「ふうん」


 興味が無いように、素っ気無く吐き出された。「まあそんなことよりも」と小さく発してから、紫土は腕を組んで口角を上げた。


「俺は、『ウサギ』が誰だか知っているよ。本当に」


「……信じられると思うか?」


 紫土は僕に背を向ける。玄関の方へ向かって行く彼をただ見つめていると、紫土が足を止めて僕を一瞥した。


「お前、靴履かなくていいの? これから彼女の所に行くんだろ?」


「なんで知ってるんだよ」


「『ウサギ』は何でも知っているからね、『ウサギ』側の人間である俺に教えてくれるんだ。まあ、あいつはよく嘘を吐くけど」


 笑いを堪えているような言い方が嘘くさい。僕は彼の背中を視線で刺しながら、彼の後に付いて行く。付いて行きたくて付いて行っているわけではない。僕だって靴を履かなければいけないから、履きに行くだけだ。


 玄関の扉を閉めると、紫土が靴を手に取ってにやりと笑った。


「彼女ってとこは否定しないんだ?」


「は? 待ち合わせ相手は女で合っているから否定する必要は無いと思ったんだけど」


「そういう意味じゃないさ。……ま、いいけどね。というか聞かないんだね、『ウサギ』は誰だーって」


 表情も、声も、何もかもが作られたもののようで信じられない。僕は靴を履いて、紫土よりも先に玄関を出た。閉めようとした扉は突然内側から破壊される。引き攣った笑みを浮かべながら、飛んできた扉を急いで避けた。


 飛んできた、と言うのは正しくなかった。扉はただ単に、倒れただけだ。紫土の影と扉が立てた衝突音が、僕に勢いの強さを錯覚させていた。


 紫土は扉を思い切り踏みつける。面白くないと言いたげに曲げられた口元が、ゆっくりと動いた。


「お前、知りたくないのか?」


「……信じるつもりは無い。けど、その意見をある程度参考にしてやってもいいよ」


「上から目線なんて、生意気だねぇ」


 扉に響く靴音は紫土の風貌にはよく似合っていた。どこか薄暗いものの、きっと世間一般では美しいと呼ぶのであろう容姿の彼に、静寂に鳴り響く靴音は最適の劇伴だ。風でもいいかもしれない。とにかく静かな音が彼の優雅さを引き立たせる。


 その内面を知っている僕は、彼に美しいという言葉が似合わないことをよく分かっている。どれだけ顔を繕おうが、内にあるのは狂気ばかりだ。


 目を細めた僕の心情をどう捉えたのか、紫土は三日月のような口で笑いを漏らした。


「絞らせてやるよ。俺と綾瀬あやせ早苗さなえ、東雲悠斗は『ウサギ』じゃない。せいぜい自分の協力者に気を付けるんだな」


 綾瀬早苗、というのはきっと蘇芳の中学校の教師だという女性の名前だろう。僕を憐れむような紫土の目に、僕は冷静な視線を合わせる。


「東雲のこと、知っていたのか」


「最近知ったばかりだけど。向こうも俺のことを知っている」


「へえ……」


 紫土の言葉を信じきるならば、『ウサギ』は蘇芳、枯葉、菖蒲のうちの一人。僕がこの世界に招かれたのは小学六年生の頃だから、菖蒲が『ウサギ』という可能性は低い。あの身長からして、彼は今小学四年生くらいだろう。仮定でしかないが、僕と彼の年齢差が七つだとすると、僕が招かれた時菖蒲は小学生にもなっていない。


 浅葱は最近招かれ、能力も知らないということから確実に『ウサギ』ではない。となると残りは蘇芳と枯葉。


 ――突如走った痛みで、考え事に浸っていた意識が引っ張り上げられた。頬に触れると、痛みは再び走る。そこに傷が出来たのだとすぐに理解出来た。


 僕の横を通り過ぎて、いつの間にか伸びていた紫土の影が彼のもとへ帰って行く。


「なあ、試してみていいか?」


「……何を」


「こっちの世界では邪魔されずにお前を殺せるか、だよ」


 黒い一線を捉えて、すぐさま駆け出したのは正解だったと思う。僕が立っていた地面には幅の広い剣のような形状に変化した影が突き刺さっていた。


 紫土を僕の能力の対象にしようとしても、生き物のように揺らめく影が彼の姿を気まぐれに隠す。集中することが出来ない。


 軋んだ音を立てるほど奥歯を噛み締めて、ブレザーのポケットからバタフライナイフを取り出した。素早く開いて構えてみたが、きっと様になっていない。だが構え方も振るい方もどうでもいい。向かい来る黒い刃を弾ければ、それだけで充分だ。


 紫土の能力で操れるのは自分の影だけみたいだが、どうやら彼の刃の数に制限は無い。刃の出現する場所が紫土の影と決められているだけだ。


 彼の足元から黒い蛇みたいな影が二つ生えた。その先端が鋭くなって、僕の方へ伸びてくる。


「〈曲がれ〉」


 片方の軌道を曲げ、もう片方をナイフで弾く。影は黒い破片を散らして消えていく。次の影が紫土の足元から湧いたのを見つめながら、僕は紫土の方へ駆け出した。


 影の奥に見えた紫土は笑っていた。自分が負けるとは一切思っていない笑みが、僕の目見を鋭くさせる。


 視界を遮りながら向かって来た影を薙ぎ、足を止めることなく駆けた。


「――なあ紫苑」


 もっと近くに寄らなければならない。僕の腕が止められる前に、早くこの男に刃を突き立てなければならない。迷いが生むのは敗北だけだ。恐れが生むのは隙だけだ。焦りが生むのは好機の喪失だけだ。


 冷静に、冷酷に、けれど正確に、無感情な刃を振りかざす。そうしなければ、きっと僕は負ける。紫土の声に耳を傾けている暇などない。


「力の弱い奴が猛進したら」


 バタフライナイフがいくつ目かの影を切り捨てる。黒い破片のすぐ先にようやく紫土を捉えることが出来た。僕は躊躇うことなく彼の影を踏みつけて、ナイフを持つ右腕を振り上げた。同時にその柄を押して刃を深く沈められるように左手も添える。


 狙う場所はもちろん――。


 どこだ?


「――それは鎧を着ずに戦地へ突っ込むようなものだよ」


「ぅぐッ!」


 激痛に目を見開いた。悲鳴を堪えるように歯を噛み合わせたが、呻かないでいられるほどの痛みではない。そのまま僕の体は前のめりになって、紫土の方へ傾く。焼けるように痛む自分の右足に目をやると、僕が踏みつけた影が刃となって突き出し、靴の甲から切っ先を覗かせていた。


 倒れ込んだ僕の体は紫土に支えられる。僕の後頭部に置かれた彼の手が、子供をあやすような手つきで髪を撫でる。首筋に冷たい指が触れて鳥肌が立った。彼の腹をナイフの柄で強く押し、突き放す。


 ふらついた、というよりもステップを踏むように紫土は数歩後退する。その足取りだけで彼が余裕だということは充分察せられる。彼の影の中から逃げたくとも、僕の足は縫い止められたまま動かせそうに無かった。動かすには今以上の激痛を覚悟しなければならない。


 痛みでおかしくなりそうな頭を落ち着かせて、自分の愚かさに呆れた。ナイフを突き立てる場所など、左胸に決まっている。


 僕は、兄ではないと言い聞かせ続けた男を、実際には死なない世界で刺し殺すことすら出来ないのか。


 それが冗談だと、思い違いだと信じたくて、今までよりも強くナイフを握り締めた。――次は、外さない。


 落ち着きたい思いを邪魔するように、僕の乱れた呼吸が心まで乱していく。もっと強く、風が吹き荒れればいいのに。風の音で僕の呼吸音を掻き消してほしい。


 隠す気の無い殺意を向けられてなお、紫土が笑みを絶やすことは無かった。その笑みが意味するものなんて僕には知りようもない。推測することしか出来ない。推測して出された紫土の心情は、安堵だ。


 そう自分の中で結論を出しておきながら合点はいかなかった。彼の表情は安堵そのもの。しかしながらこの状況で安堵するなんて普通ではありえない。


 それほどまでに、僕は侮られているのだろうか。いや、僕が愚かなだけで、紫土は彼我の戦力差がどれほどか知っているのかもしれない。だからこそ、油断するわけにはいかなかった。


 今か今かと好機を待望しながら、呼吸を整える。額から流れた汗は、痛みによる疲弊のせいか、それとも押し殺したはずの恐れのせいか。


 一瞬たりとも外さぬ視線の先で、紫土の唇が動いた。それと同時に、僕は彼の動作一つ一つを見逃さぬよう神経を張り巡らせる。


「可愛い弟の望みは聞いてやりたい。一瞬で死にたいか? それとも、ゆっくり殺して欲しい?」


「……戯言は聞きたくないね。僕はいつか死ぬその一瞬まで、ゆっくり利己的に生き続けてやるよ」


 僕は『動き』を視界の端にしかと捉えた。彼の片手が僅かに上を向く。それが影への指示だという確証はなかったが、僕が動き出す合図にさせてもらう。


 左足を力強く踏み出し、勢いに任せて右足を影から引き抜く。痛みで上げかけた悲鳴を噛み殺すと、すぐさま叫んだ。


「〈押し潰せ〉!」


「!?」


 ようやく、余裕そうな笑みが崩れた。紫土は見えない何かに乗られたように、驚愕した顔のまま片膝を突く。


 それでも立ち上がった彼の左胸に、今度は迷い無く刃を向かわせた。今の僕に殺意以外は必要がなかった。邪魔な感情を捨てるために無心を繕い、ナイフを押し込む。


 その感覚も光景も、イメージ出来ていたにもかかわらず、刃は彼の胸を貫けなかった。僕の左手首を掴んだ彼の手には、骨が軋む音が聞こえそうなくらい力が込められていた。危なくナイフを落としそうになる。


 刃は、既のところで結局届かなかったのだ。耐え難い重力で苦しんでいるはずなのに、紫土の判断と動きは早かった。僕はまた、どこかで隙を作っていたのかもしれない。


 失敗は動揺を誘って集中力を欠けさせる。いつの間にか僕は能力を解いていた。片腕を捻り上げられ、バタフライナイフがその手の平を滑って落ちていく。


「うっ……!」


「お前、大分良い能力持ってるね。俺がその能力だったら相手が誰だろうが余裕で勝てると思うくらい」


 落ちたナイフは地面にぶつかる前に、紫土が掴み取った。形勢逆転というやつだ。いや、元々紫土の方が優勢だったからそれは間違いだろうか。


 僕は手首が折れそうなほどの苦痛を堪えながら、ナイフを持つ紫土の手を睨みつける。空いている右手で彼の手を引き剥がそうとするも、右腕には影が絡み付いていた。現状から脱するには、能力を使うしか術がない。


 集中しろ。いつもなら簡単に出来るじゃないか。腕を折るくらい、簡単に――。


「お前の精神力がその能力を弱くさせてるって、気付いてる?」


 黙れ。そう叫びたい気持ちを押さえ込む。叫んだところで意味がないことも、紫土の言葉が正しいということもよく分かっている。悔しさに唇を噛んだ。


 持ち上げられたままの左腕に、切っ先が突き立てられる。袖に沈んだ刃は、血を滲ませながら尺骨で耳障りな音を立てる。骨が削られるような感覚に呻吟した。


「そろそろ終わらせようか、紫苑」


 肘のあたりまで抉ると満足したのか、紫土の手がようやく僕の手首を解放した。反撃に移る暇さえなく、影に引かれて背中から倒れる。彼は僕に馬乗りになると、ナイフを掲げた。月の光が刃に反射して光芒を散らす。


 美しい絵画のような星空を背景に、恍惚を顔に浮かべる彼は殺人鬼のようだった。


「やっと、やっと俺は……お前を殺せるんだ」


 何故、そんなに嬉しそうな顔をしているのだろう。それほど僕という存在は、彼にとって目障りだったのだろうか。いつからこうなってしまったのか、鮮明に思い出せない。


 楽しそうで愉しそうな笑い声が僕の耳を劈く。


 死ぬんだ、と思ったら僕の口は勝手に動いていた。


「〈曲がれ〉」


 骨が折れる鈍い音は、笑い声をぴたりと止ませた。空の高い所にある沈黙は、すぐに僕達のもとまで下りてきた。とはいえ今静まり返るのは不気味でしかない。


 折れ曲がった右腕を自分の体の横に落とした紫土は、ナイフも落としたのだろう。金属音が綺麗な余韻を響かせる。


 ゆっくりと立ち上がった紫土の呻き声が微かに聞こえた。痛覚がおかしくなったわけではなさそうだ。彼は腕を折られた痛みを感じている。


 どうしたことか、自分の呼吸がひどく荒れていた。手を顔の前に持ってこなければ、その手が震えていることにさえ気が付かなかった。冷静に頭が回っていたが、心の奥では恐怖と焦りが前に出たがっていたのかもしれない。


 上半身を起こすと、紫土の乾いた笑い声が耳に届いた。


「ははっ……俺、またやっちゃったよ」


 それに返す言葉は、今の僕の頭に浮かんでこなかった。黙ったまま、僕は傍に落ちていたバタフライナイフの上に手の平を突く。


 今となっては、僕が何故紫土を殺そうとしていたのか分からなかった。握り締めた柄はもちろん何も教えてくれない。


 きっと、殺意を向けられて生まれるものもまた殺意なのだろう。


「紫苑。俺は、お前に忘れて欲しいことがたくさんある」


 一言そう零すと、彼は僕に踵を向ける。勝手に殺しにかかって、勝手にやめて、勝手に去って行くなんて、本当に身勝手な男だ。


 体が痛むから、僕は暫くそのままぼうっとしていた。紫土を追いかける気力も、再び刃を向ける理由もない。脱力したように、立ち上がれなかった。


 草木を楽器に変える心地良い風に、流れた汗も血も拭われているような気分になる。これほど落ち着く静けさにも関係なく、僕の心臓は未だに騒いでいた。静かだからこそ、自分の拍動音が更に煩く感じられる。


 一秒でも早く、浅葱の所に向かわなければいけない。それなのに足が動かないのは、こんな情けない顔と姿のまま向かいたくないという利己的な理由。この胸の内が鎮まるまで休むことを、彼女は許してくれるだろうか。『守る』や『死なせない』などと言っておきながら、本当に情けない。


「はぁ……」


 口を僅かに開くと、自然に嘆息が漏れる。空を仰いで、気分を紛らわせようとした。全く別のことを考えれば、気付いた時に落ち着いているかもしれない、と。


 月光が、暗い空を淡く照らす。目を細めれば、光の奥に独特なタッチの月を見つけられた。


 ぼんやりと月を眺めて、思い出したことがある。


 ――紫土は、自分の絵を褒められることが大嫌いだった。

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