月下で蠢く漆黒の影5
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どのくらい時間がかかったのだろう。雨のせいもあってか、マラソン大会を終えた時くらいの疲労感だ。地図を検索して歩いたというのに何度も道を間違えるなんて、僕の脳味噌はもう半分ほど眠っているのかもしれない。
結局通りかかった人に駅の場所を教えてもらい、ようやく辿り着く事が出来た。途中まで案内してくれた彼には後で何かお礼をしたいが、名前すら聞いていない。心の中でもう一度感謝をしてから、僕はホームの椅子に座って電車を待っていた。
今更だが、食後のデザートを食べようと思い立って鞄を漁る。ビニール袋を引っ張り、その重さに首を傾けた。
重い、と思うほどチョコレートを買うわけがない。不思議に思いつつ袋を覗き込むと、明らかにチョコレートではない何かが入っていた。見ただけで何か分からないのは、僕が無知なせい……ではないと思う。
細長いそれを弄っていると、開くことが出来た。鋏かとも思ったが、二股の持ち手の間から顔を覗かせたのは一枚の刀身だ。
僕は僅かに目を見張って、すぐに元の畳まれた状態に戻し、ビニール袋に突っ込む。袋の中に紙が入っていることに気付いて、四つ折りにされたそれを開いた。思った通り、東雲からの手紙だ。それにしても、大人というのは皆字が綺麗なのだろうか。
『バタフライナイフ、プレゼントです。そういう武器も持っていた方が便利かと思いまして。お代はチョコレートで大丈夫ですよ』
「チョコレート……」
親切心から武器をくれたことはありがたいが、チョコレートを取っていくなんてあんまりだ。袋に手紙を戻して、僕はバタフライナイフをブレザーのポケットに仕舞った。ナイフなんて使ったことが無いけれど、何かあった時に役立つかもしれない。チョコレートは弓張駅前のコンビニエンスストアで買って帰ろう。
ようやく来た電車に乗って、僕は携帯電話を開き時間を確認する。十一時過ぎだから、三十分くらいには家に着けるだろう。紫土の話が長くなったとしても、十二時前には切り上げなければならない。
電車内は時間のおかげで人が少ないが、座ることはしなかった。睡魔のせいで眠ってしまいそうだったから、立ったまま自分の手を軽く抓る。
あまりにぼうっとしすぎていて、弓張駅に停車したことに気付くのが遅れた。ドアが閉まります、というアナウンスを聞いてから慌てて電車を飛び出す。
駅を出て店でチョコレートを買った後、東雲に借りた傘を差して家へ向かう。雨は好きではないが、傘にぶつかって跳ねる水滴の音は聞き心地が良い。この時間になると、歩いている人も少なかった。人が多い通学時などに傘を差していると歩きにくいから、雨は夜だけに降ればいいのに。
そんな我侭を言ったところで何の意味も無い。人間が泣きたくなる時間だって決まっていないのだから、空が泣きたい時間だって決まっているわけがないのだ。尤も、雨が降る理由はもっと科学的でしっかりとしているだろう。当然のことながら、僕はそんなものに興味がなかった。
家に着くと、電気が消えている。紫土が帰って来いと言ったのだから先に寝ているということはないと思いたい。
ドアノブに手をかけて回してみたら、鍵はかかっていないみたいだった。家の鍵くらい持っているから鍵を閉めても構わなかったのだが、彼なりの配慮が窺える。ストレスが溜まり過ぎると周りが見えなくなるところがあるため、閉め忘れただけというのも無きにしも非ずだ。
とりあえず自分の部屋に向かい、鞄を置きに行く。それから紫土の部屋を覗いて、いなかったらリビングに向かうつもりだ。
自室のベッドの上に鞄を放り投げると、電気が点けられた。
「おかえり」
背中にかかる声は優しげだ。僕は振り返り、彼の表情を窺う。優しい兄、というものがいたらこんな顔をして弟を出迎えるのだろうか。その顔はどこか彼には似合わない。
「……で、何」
「そこは『ただいま』って言うところじゃないのかな?」
「ただいま我が家」
「俺には言いたくないんだね、そうかそうかよく分かった」
僕はベッドに腰掛けて、少し離れた所にある勉強机を指さした。そこの椅子に座れ、という意味だったのだが、紫土は不思議そうに机を見て僕に問う。
「なに? ゴキブリでも出た?」
「もういい。立ったまま話せば?」
「ああ、そういうこと」
椅子のキャスターを鳴らして動かすと、紫土は僕の正面に座る。ズボンのポケットから折り畳まれた紙を取り出して開き、僕に見せてきた。
「あのさ、お前勉強出来ないの? これ赤点だよね」
机の中に仕舞っていたはずの僕のテスト用紙。教科は歴史だ。赤色で書かれた二十五という数字の下に二本の線が引かれている。まぁつまり、それが点数。
僕は紫土から、というよりもテスト用紙から目を逸らして部屋の壁を見つめた。
「これ親父が知ったら怒ると思うよ?」
「それはありえないでしょ。というか人の机を勝手に漁らないでくれるかな」
「いや、お前三者面談の手紙すら出さないし、定期的に確認しないと」
「定期的に見てるのか。プライバシーの侵害って言葉知ってる?」
紫土の言う話したいこと、があまりに下らないことだったため、帰って来たことを後悔した。そもそもそのテストは確か成績に関係ないと言われたから、別にその点数でもなんの問題もない。
紫土は「なんのことやら」とわざとらしく言うと、テストを上へ投げる。ゆらゆらと揺れながら、それは床に落ちた。
「まあこれは冗談なんだけど」
「くっだらない冗談だな」
僕の吐き捨てるような声は紫土を笑わせる。紫土といい東雲といい、なにが面白いのだろう。もしかしたら僕は知らない内に笑いのセンスというものを身に付けているのだろうか。
本題に入れと言う前に、紫土が立ち上がった。僕に向いていた彼の目は全く別の方向を映す。僕はその視線を追いかけた。
壁にかけられた時計の文字盤に、不思議と意識が吸い寄せられる。十一時四十八分。
シンデレラの気持ちが、なんとなく分かる。十二時はいつ来るのか、気になって落ち着かない。鐘が鳴ってからでは遅いのだ。僕は、シンデレラのように愚かじゃない。
何かを悩んでいるような紫土を待つつもりだったが、そろそろ待っていられなかった。
「……悪いけど、話は明日にしてくれる? もう寝ないといけない」
「どうせ寝られないだろ? 呑気に寝てたらやられるかもしれないんだから」
時間が、止まったような感覚に陥った。動揺を必死に殺して、僕はありえない考えを浮かばせた頭を冷やす。
やられるかもしれない。誰に、の部分に人兎を当てはめたけれど、紫土はそんなことを知らないはずだ。
紫土が僕を殺すかもしれない。そういう意味で言ったのであれば、人兎を当てはめた時よりも納得出来た。
「……あんたは僕を殺さないじゃないか」
「そうだね。俺はお前を殺したいけど、どうしてか殺せない。殺そうとすると決まって邪魔される」
まるで他の何かが彼の殺人を妨害しているように言っているが、勝手に殺そうとして自分で勝手にやめるのではないか。
僕はもう一度時間を確認して、十二時まで後少しだと気付くと、ベッドに寝転び布団を被った。
「寝る。おやすみ」
「いいんだ? 俺が言ったのは、人兎に殺されるぞって意味だったんだけど」
紫土の声で発せられた人兎という言葉は、僕を勢い良く起き上がらせた。少しだけ乱れた髪をそのままに、紫土の意思を読み取ろうとして彼の瞳だけに意識を向ける。
人兎のことを知っているということは、能力者だということ。それも、あちら側の世界に招かれた八人のうちの一人。僕の頭の中で、今日の蘇芳の言葉が再生された。
――知りたいですか? 呉羽先輩は、それを知っていいんでしょうか?――
あれがどういうことだったのか、合点がいく。二十歳くらいの、かっこいい男の人。それが紫土を指していたのだろう。
「俺に会いたかったんだろ?」
会いたければ会える、話を通しておく。そう蘇芳が言っていた。本当に、話を通したということか。
まさかこんなに近くにいるなんて気が付かなかった。同じ家に住んでいるというのに、どうして気付くことが出来なかったのだろう。紫土が能力者ということすら知らなかっただなんて情けない。
僕は警戒心を剥き出しにして、ベッドの上に立つ。ここで攻撃でもされたら、逃げ場が無い。そもそも蘇芳の話によると紫土は影使い。どの影でも操れるのであれば、対処の方法がない。
「そんな敵を見るような目をしないでよ。まあ……怒るか。お前が『ウサギ』だと疑われるように仕向けたようなものだしねぇ」
「へえ。つまり始めから僕に喧嘩を売っていたってわけか」
「さっき言ったよね? 俺はお前を殺したいけど殺せない。だから――殺してもらおうと思ったのさ」
時計に目をやる。五十六分。十二時になるまで、紫土はきっと能力を使わない。家を壊したくはないだろうから、それはほぼ確実だ。
十二時になった途端攻撃をされたとしても、僕は彼に構っている暇などなかった。弓張駅に向かって、浅葱と合流しなければならないのだ。
「偽物の世界で死んだとしても、僕は死ぬわけじゃない」
「ああ、知ってる。だから好都合だと思ったんだよ。可愛い弟を、本当に殺したくはないからさ」
口を開くと、自然と笑みが零れた。『弟』という言葉を聞く度に吐き気を覚える。だから僕は、優しい兄を演じている紫土を、嘲笑してやった。
「弟、ねえ……? ――ふざけるなよ。僕のことを弟だなんて、一度も思ったことがないくせに」
紫土の切れ長の目が丸くなる。動揺したのか、なんて考えは愚かだった。この程度のことで、この男が動揺するわけが無かった。
本当に嘲笑されたのは、僕の方だ。
「っはははははは!」
腹を抱えて哄笑する姿は、今までの彼とは違う。僕の方をしかと見た彼の目は、狂人のように見開かれていた。耐え切れなかったように出てきたのはきっと彼の本性。
蛇のような瞳は僕を怯えさせる。それを顔に出さないよう、彼を睨んでみせるのが精一杯だった。
「そうだな……けど、お前はそういうモノだろう? 俺のストレス発散の道具。昔からそうだったじゃないか。今だって、反抗的になったものの俺のキャンバスになってくれてる。けどあいつはそれが嫌らしい」
「あいつ?」
「だから、こっちの世界でお前が死ぬことをあいつがすごく望んでる。お前が死んだら、あいつは俺を消す、ってさ」
「……解離性同一性障害」
俗に言う、多重人格。それくらいしか浮かばなかった。呟くように言うと、紫土は嗤った。愉しそうに、可笑しそうに、長く、嗤う。
「気付いてやるなよ。あいつはそれを知られたくないから誤魔化すようにああ言ったのにさ」
「じゃあ、僕はお前をなんて呼べばいい?」
「兄さんかお兄ちゃんって呼んでよ、紫苑」
すっと、彼の笑みが柔らかいものになる。けれどそれはこの男の作り笑いだ。偽物の笑みだと分かるのは、瞳が狂気に塗れているから。
僕は背筋に寒気を感じて、いつでも彼を攻撃出来るように意識を集中させる。ちらと時計を見ると、十二時を過ぎていた。
「面倒くさいから紫土でいいよね。いつお前なのかお前じゃないのか、僕には判断しかねる」
「ほんっとに可愛くないねお前。もうすこし兄を敬いなよ」
「僕が『弟』と思われていないように、僕もお前を『兄』だなんて思いたく――」
腕を掴まれ、後ろに引かれた。紫土は僕の前で、両手をズボンのポケットに突っ込んでいる。では一体、何に掴まれているのか。僕は倒れかけた体を起こして、その腕を自分の前に持っていった。
黒いモノが、僕の腕に絡み付いていた。
「〈折れろ〉」
これが紫土の能力によるものなら、影だ。影を折れるかどうか、分からない。それでも試してみるしかなかった。意識を集中させて、その影を見つめる。
影は、砕けた。割れて散っていくそれは黒曜石みたいだ。僕はすぐさま紫土に視線を戻した。その時には既に、視界の半分ほどが黒色で満たされていた。しゃがみこむと僕の顔に向かってきていた影は頭上を通り過ぎる。ガラスが割れた音を聞いた直後、僕は紫土に背を向けて窓の外へ飛び出した。
ここは二階だ。着地に失敗すれば骨折をするかもしれない。元の世界に戻れば傷は治るが、それまで骨折をした状態で人兎や紫土と戦える自信なんてなかった。しかし退路はここしか見当たらなかったのだ。
足元には、庭があるだけ。使い物になりそうなものは見当たらない。柔らかくてマットの代わりになるものがあればいいと思ったが、都合よくそんなものはなかった。
「っ――!」
衝撃を覚悟して歯を食いしばる。しかし地面にぶつかる前に、僕は宙に吊られた。両腕と腰に絡みついた影に助けられた――などとほっと出来るわけもなく、その影を千切るためにそれを見上げる。
「〈折れ――……ッ!」
折る前に、影はすんなり僕を離した。予想外だったため、受け身を取る暇さえなく地面に背を叩きつけられる。
一瞬息が詰まったような感覚に陥ったものの、影のおかげで落下距離が短かったからそれほど重傷ではない。
立ち上がると、明かりの点いている僕の部屋に影が戻っていった。窓から顔を出した紫土が僕を見下ろす。
「感謝してほしいよ。俺のおかげで怪我せずに済んだだろ?」




