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月下で蠢く漆黒の影4

「大丈夫? 姉さん」


 ほっとしたような顔が、ぼやけた視界の中にあった。眠れなかったのか、それとも私が何か物音を立てて起こしてしまったのか。


 萌葱が、私のことを支えてくれていた。


「ありがとう、萌葱。でも、寝てなきゃ駄目でしょ」


「それはわたしの台詞だよ……。大体、わたしまだ宿題終わってないから寝られないし」


「宿題、いつもこんな時間にやってるの? 夜更かしは――」


 ぐい、と押されて、私はソファに座らせられる。萌葱は電気を点けると、台所の方へ向かっていった。


「生姜湯入れてあげる。姉さんは座ったまま待っていて」


 私に聞こえるように、萌葱がいつもより声を張り上げてくれた。私は苦笑してソファの上で大人しくする。


「私生姜湯あんまり好きじゃないんだけど、ホットミルクじゃダメ?」


「ダメだよ。姉さん昔風邪引いた時にホットミルク飲んで吐いたでしょ」


 そう萌葱が言うものの、私はそんなことなんて覚えていない。けれど私よりも記憶力の良い妹が言うのだから、そうなのだろう。


 私は退屈だなと思いながら、また秒針の音に聴き入る。こうしているのが落ち着くと言ったら、おかしな奴と思われるかもしれない。でもなんだか、落ち着くのだ。


 かち、かち、かち。


 何回、その音を聞いたか。数えていないから回数は分からないけれど、長いこと聞いてから、ようやく萌葱がコップを手にして戻ってきた。


「はい。結構砂糖入れたから、少しは飲みやすいと思う」


「ありがとう、萌葱」


 温かいコップを受け取って微笑んだけれど、ふわりとした感覚に襲われ、頭を押さえた。コップを落としてしまい、せっかく入れてもらった生姜湯が零れる。


 割れたコップで萌葱が怪我をしていないか、心配して顔を上げるも、そこには誰もいなかった。


「もえ、ぎ……?」


 かち。


 と、鳴った掛け時計に自然と目が行く。針が示す時間は十二時。不安と恐れが、私の鼓動を早くしていた。


 萌葱は今、何を目の前にしているのだろう。萌葱の目の前にいた私はどうなってしまったのだろう。『私』は、どこにいるのだろう。


 今は、確かめようが無い。確かめる術は、朝になって萌葱に会うことしかない。


 萌葱に会うことが、怖い。朝なんて来なければいいのにと、これほど強く思ったのは初めてだ。


 萌葱はどんな顔で私を見るのだろうか。


 起きて来なければよかった。十二時になるまで、部屋で大人しくしているべきだった。そうすれば、萌葱に知られてしまうことは。


「っ……」


 ――いや。いつかは、気付かれてしまうことだったはずだ。同じ家で暮らしているのだから、気付かれる時は必ず来てしまう。


 気付かれる前に偽物の世界から抜け出すことなんて、出来るわけが無かったのだ。


 私はふらつきながらも立ち上がって、コップの破片を避けて歩き、二階へ向かう。今は、萌葱のことを気にしたって仕方がない。今すべきなのは、紫苑先輩に連絡をすることと、人兎から逃げること。


 私は一段一段踏みしめるように、階段を上がっていった。


     ◆


 脱衣所にあったドライヤーで髪を乾かしてから、左耳にピアスを嵌め直した。着替えなんてなかったから再び制服を着ているのだけれど、まだ少し湿っていて気持ち悪い。


 ブレザーを手に持って脱衣所から廊下に出ると、丁度東雲と鉢合わせた。服を抱えているから、これから風呂に入るのだろうか。


「あ、もう出てきちゃったんですか。もう少し早く来るべきでした」


「いや、むしろちょうど良かったんじゃ?」


「何言っているんですか。せっかく君にも私の服を貸してあげようと思ったのに」


 残念だと言うように両肩を落として、東雲は服を抱えたまま踵を返す。僕はもう寝るつもりだから部屋に向かおうとして、目的地が同じらしい東雲の後に付いて行くこととなった。


「――東雲」


 ドアノブを回して扉を開けた彼は、入ることなく振り返った。呼ぶつもりはなかったのだが、無意識の内に呼んでいた。勝手に動いた口元を軽く押さえて、僕は視線を泳がせる。


 聞きたいことと言えば、一つだ。聞かなければという気持ちと、聞いたからどうなるという気持ちが僕の中で争い始める。


 ふっ、と、東雲の漏らした吐息が僕の視線を引き付けた。彼らしい微笑が、そこにあった。


「見ちゃいました、よね」


「……」


 口角は楽しそうに上がっているけれど、彼の目は研がれた刃の切っ先みたいに鋭い。心臓を掴まれたような気分になって、僕はネクタイの結び目を握り締めた。


「東雲は」


「はい、私はもちろん猫派です」


 僕に息を飲ませた鋭さが嘘みたいに無くなる。普通に笑う彼は――いや、心底嬉しそうに笑う彼は、なぜか僕の手首を両手で握り締めた。


「紫苑くんも猫派ですよね!? 猫可愛いですよね!」


「うるさい。菖蒲が起きるだろ。大体僕が聞きたかったのはそんなことじゃない」


「おや、ではなんでしょう」


 と言いつつも、きっと分かっているのだろう。見ているこちらが苛立つような笑みを浮かべられ、僕は舌打ちをして東雲の手を振り払った。


「お前本当に性格悪いな。僕の反応楽しんでるだろ」


「はは、紫苑くんは口が悪いですねぇ。そんな喋り方では進路活動で困りますよ。それらしい敬語の使い方を教えてさしあげましょうか?」


「間違った敬語の使い方を教えられそうだから結構だよ。で、絵の作者名がユウトだと知って、どう思った?」


「優しい聞き方ですね。『ウサギ』はお前か、とは聞かないのですか?」


 僕はただ黙って東雲の回答を待った。彼の言葉通りの質問をしてもよかったのだが、それでは僕が彼を明らかに疑っていることになる。


 疑っていないと言えば嘘になる。しかし敵意を向けるつもりは全く無かった。


「……私が名字しか名乗らなかったことに深い意味は無かったのですが、ほっとしましたよ。名乗っていたなら疑いの目がすぐ私に向いたことでしょう。悠斗だなんて、ありきたりな名だというのに」


 東雲は部屋の中に入っていく。僕も入室して、扉をそうっと閉めた。話は終わったと言いたいのか、東雲は棚を開けて服を仕舞っていった。


 菖蒲が寝ている中で喋るのもどうかと思い、僕は諦めたように東雲から目を逸らして押入れの上段に上がる。


「君は、私のことを信じるのですか?」


 溜息混じりに吐かれた声は小さなものだった。しかし静まり返った室内では、僕の耳に簡単に届いてきた。


 押入れの中に寝転んで、東雲の方を向く。電気が点いていないから分かりにくいが、東雲もこちらを見ているような気がした。


「信じて欲しいなら、信じてあげるよ」


「……君の好きにして下さい」


「――東雲。僕は僕しか信じない」


 蘇芳がくれた情報も、あの女性の言葉も、東雲のことも、なにもかも信じきるほど僕は他人を信じていない。どれも『ウサギ』の正体を特定するための材料に過ぎない。そこに腐った材料が混ざっていたなら、気付いた時点で捨てるまでだ。


 まだ、材料は足りない。こんな少ない材料では、何も作れない。


 真剣に放った僕の言葉は、何故か東雲に笑われた。菖蒲に配慮して、彼は声のボリュームを下げている。


「そう、ですか。そうそう、言い忘れていましたが、紫苑くんは家に戻った方がいいかと」


「今から寝る気満々の僕に何を言っているんだ?」


「いやあ、君の保護者からお電話がありましてね? 帰っておいでと言っていましたよ?」


「は?」


 どういうことか全く理解出来ず、僕はズボンのポケットに手を突っ込んだ。入れておいたはずの携帯電話がそこにはない。もしかしたら鞄に仕舞ったのかもしれないと思い、枕代わりにしていた鞄に手を伸ばしたが、目の前まで来た東雲が僕に何かを差し出してきた。


 黒い長方形のそれは、僕の携帯電話だ。


「……おい」


「すみませんねぇ。君に服を用意しようとここで棚を漁っていたら、君の鞄の中でその携帯電話がずっと鳴っていたので。つい」


 電源を切っておくべきだったと後悔しながら、東雲の手から携帯電話を回収する。マナーモードにしているとはいえ、こんな静かな中で鳴り続けていたとなると菖蒲も迷惑だっただろう。


 僕は押入れから下り、布団にしていたブレザーを着て鞄を手に持った。


「まあかけてきた奴は想像がつくから、大人しく帰るけどさ。菖蒲も東雲に警戒心を持ってないみたいだし。ただ、駅までの道が分からない」


「菖蒲くんを一人にするのも不安ですので……。地図でも検索して頑張って下さい。傘は玄関にあるものを貸してあげます。今度返してくださいね」


 車で駅まで送ってもらおうと思ったのだが、そうもいかないらしい。菖蒲が能力者かもしれないと疑っているから、東雲は彼に警戒心を抱いているのだろう。


 僕は玄関に向かって、傘立ての中から適当に一つ傘を取った。


 一応携帯電話を開いてみると、メールが来ていた。やはり紫土からだ。本文は一言だけだった。


『話したいことがある』


 それだけだ。正直これから帰るのは面倒だけれど、紫土の話したいことが少しだけ気になった。もしかしたら父さんと何かあったのかもしれない。紫土自身に何かがあった、という可能性もある。


 僕は紫土のことを好きではないが、心配してしまうのはやはり血が繋がっているからなのだろうか。


 靴音の余韻を玄関に残して、東雲の家を後にした。


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