月下で蠢く漆黒の影3
◇
お母さんが作ってくれていた夜ご飯を食べ、部屋に戻ってから、たまたま私の部屋に来た萌葱に顔が赤いことを指摘されて体温を測ることとなった。
このくらいなら大丈夫、と笑う私から体温計を奪った萌葱は口をへの字に曲げて、表示されている体温を読み上げる。
「三十七度八分」
私の笑いが苦いものになるくらい、彼女はすごい目つきで見つめてくる。ベッドに座っていた私は立ち上がって、妙なダンスのような動きをしてみせた。
「だ、大丈夫だよ! 熱が少し高いだけで、ほら、元気元気!」
「駄目だよ姉さん、風邪薬飲んだ?」
「ご飯食べてから一応飲んだけど……」
なんとなく風邪っぽいな、と思ったために飲んだのだが、まさか熱があるとは思っていなかった。
へらへら笑っていること自体が気に食わないのか、萌葱はどんどん険しい顔になっていく。せっかく綺麗な顔をしている女の子なんだから、萌葱ももっと笑ったらいいのに。なんて口に出せば、きっと冷たく怒られる。
「じゃあ、今すぐ寝て。早く寝て。とっとと寝て」
両肩を押されてベッドに倒されると、すぐに視界が布団で覆われた。乱暴にかけられたけれど、その後きちんと整えられる。
大人しく体の向きを直し、枕に頭をのせて萌葱を見上げた。
「萌葱、あんまり寄らない方がいいよ。移っちゃう」
「……むしろ移して欲しいくらいだよ」
吐き捨てるような口調だったけれど、萌葱の表情は心から心配してくれている人のそれだった。
心配してくれているのが嬉しくて、ニヤニヤしながら萌葱を見つめていたら布団を思い切り顔に被せられる。
「わっ」
「姉さんは笑っている時が一番姉さんらしいよ。そうだ、携帯貸してくれる?」
「えっ!?」
慌てて布団から飛び起きたが、時既に遅し。ちょうど萌葱が部屋を出て行ったところだった。
私の携帯を持って行って一体何をするつもりなのだろうか。
「萌葱! メールとか見ちゃ駄目だか――」
「見てないよ、はい返す」
出て行って一分も経たずに、萌葱はまた部屋に戻ってきた。枕元に私の携帯電話を置くと、すぐに背を向けてしまう。
これほど早く返して来たという事は、本当にメールとかは見られていないのだろう。
ほっとしたのも束の間、すぐにはっとする。
「ちょっ、待って萌葱。もしかして、待ち受け……」
「ごめん、見ちゃった。すごく綺麗な人だね。それと、いい加減おやすみ」
萌葱が誰かを綺麗だというのがあまりに珍しくて、つい固まってしまった。ぼうっとしているうちに、部屋の電気が消される。
静かに、萌葱は退室していた。
熱はあるけれど、体調はそこまで悪くない。布団から顔を出して、私は携帯電話を開いた。時間は二十時。寝ることが出来るのは四時間くらいだ。
零時になったら弓張駅に向かわなければならない。そこで紫苑先輩と合流するから、布団で寝続けるわけにはいかなかった。それに、具合が悪いからといって人兎が情けをかけて襲ってこないなんてことはありえないのだ。
あまり眠くないからもう少し起きていようかと思ったけど、萌葱の言う通り大人しく寝るべきなのだろう。更に悪化して紫苑先輩に迷惑をかけたり、先輩に風邪を移してしまう前に、しっかりと寝てすぐに風邪を治そう。
ふわふわの布団を顔まで被って、私は頑張って眠ろうとする。眠くないのに寝たい時は、いつもこうして布団の中に潜る。
眠るのにあとどれくらいかかるだろうか。早く眠りたい。早く寝させて欲しい。そう思えば思うほど目が醒めていっているような気がした。
楽しいことを考えれば素敵な夢が見られるのでは、と思い、退屈な頭で記憶を遡ってみた。
楽しいこと、と言ったらなんだろう。すぐに思い浮かぶのは紫苑先輩の顔だ。彼といるだけで不思議と楽しい気分になる。
これからも先輩と色々なお店へ行って、色々なスイーツを食べられたらいいな。
次はあのクレープのお店に行く。いつ行こうか、楽しみだ。その次はどこへ行こう。そうだ、スイーツの食べ放題のお店に行こう。桜に教えてもらって、一緒に何回か行ったことがある。場所も覚えているし、色々な種類のお菓子があるし、紫苑先輩も気に入ってくれるだろう。
楽しみだ。
……すごく、楽しみ。
……。
「――あれ」
今私が何をしていたのか、不意に思い出せなくなる。少し前までどこにいたのかすら、分からない。いや、きっと、元々ここで意味もなく立っていたのだ。
私はどうして、誰もいない教室で一人、立っているのだろう。時計に目をやって、その理由が分かった。
登校してくるのが早すぎたのだ。そういえば昨日、緊張のあまり眠れなかったのだった。中学校を卒業して、仲の良い友達がいない高校に進むことへの不安。友達を作れるかどうか、一人ぼっちにならないか、考えるほどに膨れ上がる不安。
朝ご飯が喉までせり上がってきているような気分を落ち着かせるように、私は窓側にある自分の席に座って軽く目を伏せる。
黒板を暇潰しに眺めてみた。入学おめでとう、と大きくチョークで書かれた綺麗な文字。それよりも少し小さな字で、出席番号順に座ってくださいと書かれていた。「い」の横あたりから黄色いチョークで引かれている矢印は、貼られたプリントを見るよう促す。
ここからではあのプリントに何が書かれているか分からないが、座席表が書かれていたはずだ。教室に入ってすぐ確認し、私は自分の席に鞄を置いていた。
席に着いてぼうっとしていても、人が来る気配がない。どうしたらいいのか分からなくなって、顔を伏せた。
寝てしまおう。そう思ったけれど、眠れるわけがない。眠ってしまえば、友達を作る機会すら逃してしまう。
人が来たら顔を上げて、挨拶をすることにした。今か今かと待ち侘びる中、自分の心臓の鼓動が五月蝿い。孤独さから意識を逸らすように、私は自分の手をぎゅっと抓った。
「――おはよ」
「ひゃっ!?」
とん、と肩を叩かれて、つい奇声を発してしまった。驚きのあまり立ち上がってしまった私は、声をかけてきた子をまじまじと見つめる。
私よりも少し背が高くて、泣き黒子が印象的な女の子だ。ショートカットかと思ったが、よく見ると長い髪が首の後ろで一つにまとめられている。
彼女は小さく笑った。
「ロングコートチワワみたいってよく言われない? すごく可愛い」
「えっ、いや、言われたことないです。可愛くも、ないです」
「まあ可愛いと思う基準は人それぞれだもんね。私、舞島桜。あなたは?」
言いながら、舞島さんは私の前の机に鞄を放り投げた。椅子を引いて腰掛けると、私の方に体を向けてにこにこ笑う。
ようやく来てくれたクラスメートが出席番号順で一つ前の子だったことで、不安は嬉しさと安心感に変わった。
仲良く、なれるといいな。
「宮下、浅葱です」
「浅葱……綺麗な名前。よろしく、浅葱。私のことも呼び捨てでいいから。仲良くしよ?」
「うん、よろしくね。桜」
初対面の人を呼び捨てにすると、なんだか落ち着かない。今までの友達は皆あだ名か下の名前に「ちゃん」を付けて呼んでいたから、気安く呼び捨てにしていいのかとつい相手の顔色を確認してしまう。
舞島さん――桜は、鞄の中から筆箱を取り出した。白いポーチのようだけれど、筆箱で合っていると思う。
ファスナーに付いたストラップを、私に見せてくれた。
それは薄い藍のような色をした綺麗な星のストラップだ。その色の名称を、私は知っている。
「浅葱色……」
ぽつりと零した言葉に、桜が「おっ」と言ってから筆箱を私の机の上に置き、小さな拍手をした。
「正解っ。薄い藍色のこと、だよね。私この色好きなんだ。なんだか落ち着く」
「私は、桜色も良い色だと思うよ」
「浅葱の携帯のストラップ、桜色だね。可愛い」
言われてはっとする。机に置いたままになっていた携帯電話に目を落として、私は微笑んだ。桜色の兎のストラップは、私のお気に入りのものだ。それを褒められると、すごく嬉しくなる。
「ありがとう。桜のその星のストラップも綺麗だよ」
「へへ、ありがと。中学の時美術部でさ、色のこと沢山調べたの。それから浅葱色のものが欲しくて、たまたま店で見つけたこれに一目惚れしちゃってさ。あ、浅葱は何部だった?」
「手芸部だったよ」
桜が色々と話してくれる人で本当に良かった。話しかけても話しかけられても何を話せばいいか困ってしまうから、沢山話してもらえるとすごく助かる。
「すごい……確かに、浅葱手先とか器用そう! 女子力高い系だね! 女子力っていまいち分からないけど!」
「うん、私もいまいち分からないや。あはは……」
「浅葱、絵は描ける? 私紙とペン持ってるからさ、絵しりとりしよ――」
「あっ、あの」
桜と私の視線が、声の方に向く。桜との話に夢中になっていたせいで気付かなかったが、もうほとんどの人が登校してきていた。いくつかグループが出来上がってきているように見える。
私達に声をかけてきた眼鏡の女の子に、桜が笑って手を差し伸べる。
「私、舞島桜。桜でいいよ。こっちが浅葱。仲良くしようね」
ああ、懐かしい。こうして私は桜と、春香と、真由と優子と花鈴と、仲良くなっていったのだ。
――懐か、しい? 春香と、真由と、優子と、花鈴って……誰?
おかしな感覚に陥って、目の前が真っ暗になる。私はいつ目を閉じたのか、どうして目を開けないのか、どちらの理由も掴めず、なんだか怖くなる。桜の顔も、眼鏡の女の子の顔も見えない。
遠くで、喧騒が聞こえる。クラスメート達の楽しそうな声も、桜達の声も、はっきり聞こえない。どうして。
「――!」
ようやく、目を開くことが出来た。と同時に、チャイムが鳴った。私は一番廊下側の、前から二番目の席に座っていた。
――そうだ、私は、待ち合わせ場所に桜がいなかったから一人で登校したのだった。何をぼうっとしているのだろうか。
何故か冷や汗をかいている額にそっと触れてから、隣の席に目をやった。桜が座るはずのそこには、誰も座っていない。
教卓の前に立った先生に、窓側に座っている花鈴が声を上げた。
「せんせー。今日桜休みなの?」
先生の顔が、少しだけ強張る。何をどう伝えるべきか悩んでいるような面持ちから、桜の身に何かがあったのだということを予想出来た。
私が予想出来たのだから、きっとみんなも何かを感じ取っただろう。いつもは騒がしいはずの教室内が、しんと静まり返っていた。
先生が声を発するために吸った一息が響くほどの、静けさだった。
「舞島は――」
「――ッ!!」
私は。
私は、ベッドの上にいた。自分でもすぐに分かるほど、息が乱れている。そっと額に触れてみたけれど、熱があるかどうかはよく分からなかった。汗をかいているのは、熱のせいか、夢のせいか、それか両方だろう。
風邪を引くと、嫌な夢を見てしまう。そして嫌な夢を見た後は、眠りたくなくなる。
上半身だけを起こして、私は枕元に置かれた時計で時間を確認する。十一時四十分過ぎだった。萌葱やお母さんはもう寝ているはずだ。お父さんは仕事に行っているはず。
水を飲むために一階の台所に向かって、歩き出す。上手く歩けないのは気のせいだと思い込みながら足を進めていく。
部屋を出て、階段を下り、危なく転げ落ちるところだった。手すりを思い切り握り締めながら、ゆっくり階段を下っていく。
台所に着くと、私は自分のコップを手に取り水道水を汲んだ。
水を飲んで冷たいコップに触れているだけで、だんだんと気分が落ち着いてくる。ゆっくり歩きながらリビングに行き、棚の上にある体温計を持ってソファに座った。
体温計を脇に挟むと、薄暗い室内をただぼうっと眺めた。今誰かが起きてきたら、電気くらい点ければいいのに、と言われると思う。
掛け時計の秒針の音だけに耳を傾けていると、ようやく電子音が聞こえた。体温計に表示されている体温が、寝る前よりも下がっていてくれればいいな。なんて思いつつ確認して、肩を落とす。
「三十八度……」
寝るべきなのだろうけれど、寝るわけにはいかない。起きて、人兎から逃げなければいけない。
けれどこの状態で弓張駅に向かって、紫苑先輩に心配をかけるのも嫌だ。
紫苑先輩に、今日は一人で大丈夫です、と連絡をしよう。彼は納得してくれないだろうし、更に心配をかけてしまうかもしれない。それでも、足を引っ張るより断然良い。
携帯電話に手を伸ばそうとして、手元にないことに気が付く。部屋に戻って、パジャマから着替えて、先輩に連絡をしなければ。
急に立ち上がったせいか、視界がぐらりと揺れた。
このまま倒れるのだと確信したけれど、手を突かなければとも踏みとどまらなければとも思えなかった。抗うことなく倒れるのが、一番体力を使わずに済む。
だけれど、私の体が倒れ込むことは無かった。




