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月の絵6

「あー!」


 戻ってきたと判断出来たのは、市役所内で上げるべきではないであろう蘇芳の大声のおかげだ。蘇芳の声に、女性は僕から少し離れて振り向いた。


「あら、河内さん。元気そうね」


「っ、あんた、呉羽先輩になにしてんのよ」


「呉羽……? そう。呉羽、ねえ。ふふ、また会いましょう、呉羽くん」


 敵意剥き出しの蘇芳と僕ににこにこと手を振ると、彼女は何事もなかったかのように立ち去ってしまった。


 蘇芳の目はもともとつり目だが、更につり上がっている。


「えっと、蘇芳ちゃん?」


 恐る恐る蘇芳に手を伸ばす浅葱は、蘇芳が振り返った瞬間に素早く手を引っ込める。また新しい遊びをしているのかと聞きたくなるくらいその動きがおかしかった。


「呉羽先輩、気を付けてください。あの女、能力者です。男たらしです、魔性の女です」


「えっ、先輩なにかされてませんか!?」


「振り払ったから特に何も」


 よくあれで中学校の教師が務まるな、と思ったが、ああいう人間はきっと、裏の顔と表の顔の使い分けが上手い。


 やはり蘇芳はあの女性のことが嫌いなのか、嫌悪感を露骨に表していた。


「……で、この絵はいつのものだって?」


「あ、えっと、二年前だそうです」


 蘇芳は未だに女性が去っていった方を睨んでいて、浅葱が代わりに答えてくれる。僕は顎に手を添えた。


「さっきの女性から聞いた話も併せて考えると、作者は現在高校三年生、みたいだよ」


 ようやく、蘇芳の関心がこちらに移った。言いたいことは、その丸められた目を見ればよく分かる。


 高校三年生――つまり、枯葉のことを蘇芳は疑っているのだ。


「高校三年生は、甲斐崎だけよ」


「君が嘘を吐いていなければ、ね」


 蘇芳が嘘を吐いていたとすれば、その理由は彼女が『ウサギ』だからということになるだろうか。


 口をへの字に歪めてから、蘇芳は薄く開口する。


「あたしが嘘吐きだって言いたいんですか、呉羽先輩」


「あの、この絵の作者が『ウサギ』なのではなく、この絵の作者の関係者が『ウサギ』であるという可能性はありませんか?」


 浅葱の意見に僕は頷いた。その可能性も勿論ある。関係者でなくても、魅せられたからというだけの可能性だって無きにしも非ずだ。


「ただ、君が枯葉を疑うのは勝手だしそれで枯葉を殺すのも勝手だけど……もし違った場合、彼に死の感覚を味わわせて記憶を奪うことになるんだ。それだけは覚えておいて」


「……分かってます」


 俯いた蘇芳の顔を、彼女の髪の毛が隠す。


 正直僕には枯葉が『ウサギ』とは思えない。もし『ウサギ』だったなら、彼の演技力を褒めたいくらいだ。


 協力者を作って『ウサギ』だと見抜かれることなく、心の声を読むという演技さえも完璧にこなす。


 やはり、年齢が絵の作者と同じというだけだろう。


「あたしは、もう少し様子を見てから行動を起こします」


「うん。それがいいと思う」


 僕の中でまだ、『ウサギ』が人兎の中に紛れているのではないかという考えが残っていた。


 八人の能力者は既に分かっている。彼らが『そうぞう』の能力者ではないとしたら、残る『ウサギ』の居場所は人兎の中だけだ。


『ウサギ』を殺せれば、なんて常々思っていたが実際僕は人の姿をした『ウサギ』を前にして、殺せるのだろうか。


 だからこそ、人兎の中に紛れていて欲しいなんて、願望を抱いているのだと思う。


「……今日はこのくらいにしましょうか。あたしが知ってることは全部話しましたし、呉羽先輩と東雲さんの情報は東雲さんから聞いていますから大丈夫です」


 僕と東雲の知っている情報はそれほどないから、蘇芳は新しい情報を得られなかっただろう。なにせ僕は何も知らないに等しくて、東雲は蘇芳と枯葉のことを知っていただけだ。


 蘇芳は新しい情報がなくとも、情報の共有が出来ただけで満足らしい。


「では、会えたらまた向こう側で会いましょう。なにかあったらメールか電話してください」


「といっても、出るまでは一緒だよ」


「それもそうですね」


     ◇


 蘇芳ちゃんは、私が見ても可愛いと思う笑顔を紫苑先輩に向けていた。先輩も薄く笑って返す。


 私は、三人組が苦手かもしれない。


 二人で話し始めてしまったら、私の居場所がなくなってしまう。私のいる意味が、分からなくなってしまう。


 けれどそんな自分勝手な我侭を口にすることなんて当然出来なくて、私は無言のまま二人の後ろを歩いていた。


 私は今日、ここにいてよかったのだろうか。私がいなくても話は二人だけで充分進められただろうし。


 よく考えてみれば、私はただの案内役なのだ。だから、こうなってもしょうがない。


 少しのことでいちいち暗くなって、これでは紫苑先輩に面倒くさい奴と思われてしまう。自身で思ってしまうくらいだから、嫌われてもおかしくない。


 相変わらず自己嫌悪が激しい。そんな自分がどんどん嫌になる。


「浅葱?」


「っはい?」


 もしかして何度か呼んでいたのだろうか。全く気付くことが出来なかった。


 自分の世界に浸りすぎた。蘇芳ちゃんがいつの間にかいないことも、市役所の外に出てきていることも知らなかった。涼しい風が髪を揺らしていたのに、気付けないくらい思惟していたようだ。


「やっぱり寝た方がいいよ」


 私がぼうっとしているのは寝不足のせいと捉えられたみたいだった。それでも、紫苑先輩が私のことを心配してくれているのが、少しだけ嬉しい。私は、首を左右に振った。


「大丈夫です。先輩、駅まで送ります」


「いや、流石に迷わないと思うから」


「いえ。私が、もう少し先輩といたいんです」


 先輩の頭上に疑問符が浮かんで見えそうだった。不思議そうな顔をしている先輩に微笑んで、私は駅の方向に足を踏み出した。


「もう少し、一緒にいていいですか?」


「……好きにして」


 呆れたような溜息さえも、少しだけ嬉しい。紫苑先輩の声や目が向けられていると思うと、幸せな気分になる。


 どうしてだろう。これは、恋ではないと思うのに。


 恋なのかもしれないなんて思ってしまうくらい、紫苑先輩の傍にいたいと思う。


「不思議です」


「僕も不思議だよ」


「なにがですか?」


「君が分からない」


 同じ言葉を返したい。私も、紫苑先輩が分からない。いや、分かっては来ている。どんな人なのか分かっている。


 それでもまだ分かりたい。もっと知りたい。


 彼に近付きたいと望んでしまうこの感情の名前を、知りたい。


「私だって、紫苑先輩が分かりませんよ」


「……浅葱さ、僕といて楽しい?」


「はい!」


 間髪入れずに答えるほど、はい以外の答えは頭になかった。きょとんとしたような先輩の顔が数秒私を見つめていた。


 逸らされた瞳は、うっすらと暗くなってきた空だけを映す。


「なら、よかった」


 小さな、小さな声。優しい響きが風に乗って私に届く。胸の奥に、暖かい炎が灯されたような気がした。


「私も、よかったって、思うんです」


「なにが?」


 少しだけ冷たくなってきた風。心地良いけれど、髪を悪戯に揺らすのはやめてほしい。私は髪を押さえて、今さっき先輩がそうしていたように空を見上げた。


「あの日会えたのが、先輩で」


 だんだんと、自分の一言一言が恥ずかしくなってくる。どうしてこんなことを言ってしまっているのだろう。


 誤魔化すように、私は「あ!」と声を上げた。


 声が大きすぎたのか、紫苑先輩が塞ぐために耳に手を伸ばしていた。


「せっかくですし、しりとりしませんか?」


「しりとりって……」


「いいじゃないですか。しりとりしましょう、しりとり!」


 わけが分からないと呟きつつも、紫苑先輩は「り」から始まる単語を言ってくれた。それだけでも嬉しくなってしまうなんて、私は相当人恋しいのかもしれない。


 それから、しりとりを続けた。続けて、続けて。駅に着いて、私が「ん」のつく単語で終わりにした。


「しりとり、付き合ってくれてありがとうございました」


「わざわざ送ってくれてありがとう」


「いえいえ!」


 紫苑先輩は「じゃ」と言って改札を抜けようとして、再び私の方を見た。綺麗な顔で綺麗に微笑まれると、どきっとしてしまう。


「クレープ、楽しみにしてるよ」


 それだけ言うと、先輩はもう振り返ることなく行ってしまった。


 緩んだ私の口元は、なかなか元に戻らない。一人でにやけているなんて恥ずかしい。


 紫苑先輩と別れて気分は暗くなると思ったけれど、私の顔は綻んだままだった。


 夜になれば紫苑先輩に会える。明日になっても会える。それだけで胸が温かくなる。


「……えへへ」


 ああ、本当に。一人で笑っているなんて、おかしい。


 それでも私は、帰路で今日の出来事を振り返る度に――紫苑先輩のことを考える度に、幸せな気分になっていった。


 恋って、なんなのだろう。恋とは、この感情のことなのだろうか。


 もしこの感情が恋だったとして、私が紫苑先輩を好きだったとして。それでも私は告白なんてしないと思う。


 叶わぬ恋だというのは、目に見えている。紫苑先輩の性格からして、きっと断られるだけ。いいや、だけではなくて、気まずくなりここ数日のようにはいられなくなるかもしれない。


 それが嫌だから、私は恋とは思いたくなかった。叶わぬ恋なら、恋なんてしなくていい。


 恋をしているのではない。ただ、好きなだけだ。付き合いたいとか、彼の一番でいたいとか、そういうものは望まない。だから、恋ではない。


 私は、紫苑先輩の傍にいられるなら、それだけでいい。


 これは、恋ではない。


 傷付くのが怖いから、私は暖かい気持ちを心の奥の、更に奥の方へと押し込んだ。

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