月の絵5
図書館を出ると、蘇芳はどこかへ向かって歩き出す。
「市役所に行きます。そこに向かう間に、『ウサギ』がどうして高校生なのかっていう話を簡潔に説明しておきますね」
どうやら目的地は三日市の市役所のようだ。そこに『ウサギ』に関連するなにかがあるのだろう。
僕が頷くと、蘇芳は話し始めた。
「あの世界の月が、本物じゃなくて絵本に描かれていそうな満月だというのは、呉羽先輩は知ってますか?」
「知っているよ」
浅葱は知らなかったようで動揺していた。それもそうだろう。僕だってあちら側に招かれたばかりの頃は、空を気にして見ている余裕がなかった。
蘇芳がゆっくりとした瞬きをする。
「ある人が、あの月と似ている月が描かれている絵を三日市の市役所で見たそうです。高校生の絵のコンクールで大賞を取った作品のようでした。残念ながら匿名で出されていたようで、どこの誰が描いたかは不明です」
匿名の作品が賞を取るなんて、可笑しな話だ。それでは高校生の作品かどうか定かではないし、賞状や賞金も与えられない。
誰が描いたか分からなくても大賞にしたいほど良い作品だった、ということなのだろうか。
「で、これから市役所にその絵を見に行くんです」
「――ある人、って?」
何より、そこに引っかかっていた。蘇芳はすぐに答えず、しばし黙り込む。言えないような相手だとしたら、その話が嘘かもしれないと疑わなければならなくなる。誰かも言えない相手から聞いた話なんて、怪しい。
坂を上がりきると、蘇芳は歩を止めた。僕の方を振り返って、言問う。
「知りたいですか? 呉羽先輩は、それを知っていいんでしょうか?」
意味が分からない。それは浅葱も同じようで、首を傾けていた。
「僕に教えたくない理由でもあるのか?」
真剣な視線が直線上で結ばれる。蘇芳の瞳は静かだ。枯葉と騒いでいる時の彼女と、こうして静かに僕を見つめている彼女は、どちらが素なのだろうか。
その真面目な表情の上に、蘇芳がにっとした顔を貼り付けた。
「冗談です。教えてあげたいのはやまやまなんですけど、あたしも知らないんです。二十歳くらいの、かっこいい男の人です。名前は知りません。影を操っていたので『ウサギ』ではなさそうでしたし、あたしが中学生って分かると、絵の話をしてくれたんです」
引っかかる。わざとらしすぎる。されど聞き出そうとしても、蘇芳は話そうとしないだろう。僕がまだ納得していないことは伝わっているようで、蘇芳はその人の話を続けた。
「連絡先は知っているので、呉羽先輩が会いたければ会えますよ、多分。あたしから話を通しておきましょうか?」
「……じゃあ、そうしてよ」
「はい。では、そろそろ他の能力者についても話しておきましょう。八人だから、あたし、甲斐崎、宮下センパイ、呉羽先輩、東雲さん。影使いのかっこいい男の人」
となると、あと二人だ。数日前まで一人も知らなかったというのに、五人は既に協力者になっているなんて。僕の運がいいのか、東雲のおかげか、はたまた浅葱のおかげか。
影使いの男はもしかしたら蘇芳と枯葉の協力者なのではないかと思ったが、どうなのだろう。協力者なら、紹介してくれてもおかしくはない。
「一人は、小学生の男の子。スケッチブックとペンをいつも持ってるから、絵を描いて何かをする能力だと思います。で、最後の一人があたしの中学校の教師の女。能力は知りません」
自分の中学校の教師だから好きではないのか、明らかに嫌そうな顔をしていた。僕の隣で、突然浅葱があっと声を上げた。
「市役所、ここですよ」
浅葱が立ち止まって見つめている場所は、確かに市役所と書かれている。危なく通り過ぎるところだった。
「……悪いわね。ぼうっとしてたわ」
蘇芳はしっかりしているようで抜けている部分もあり、本質をいまいち掴めない。挑発に乗りやすく馬鹿っぽいかと思うと、冷静な顔もよく浮かべている。飄々としているような感じが、さりげなく東雲に似ているかもしれない。
市役所に入って少し歩くと、絵がいくつか飾られている場所があった。どれもコンクールの受賞作なのか、出来がいい。
「この絵よ」
蘇芳が指さした柱に飾られている絵は、不思議なものだった。いや、一見普通に美しい絵画だ。
夜の街並みがリアルに描かれている。それも、三日市の駅前だろうか。写真と言われたら騙されそうなくらいだ。
目が釘付けになるほど綺麗な色使いで描かれた星空も、リアルだ。
けれどもそんな写実的な紙上の世界の中、月だけが『絵』だった。クレヨンを使ったのだろうか。そこだけが筆ではないもので描かれているような気がした。
もし全て筆で描いたと言われたら目を疑う。
「綺麗な絵、ですね」
感嘆の溜息を浅葱が落とした。
同感だ。僕も、この絵を綺麗だと思う。タッチを変えてしまったらその部分だけが浮いてしまいそうなものだけれど、この月はこの絵に驚くほど馴染んでいた。
辺りを見回して、他の絵にも目をやる。どれも上手く描かれた風景画だ。そんな中でこの作品だけが異彩を放っていた。
匿名であっても大賞に選びたくなる気持ちが、僕にもよく分かった。
この絵は、他のものと美しさが違う。ずっと見ていると、その世界に立っているような感覚に陥ってくる。
いったい何色の絵の具を使ったのだろう。どうすればこれほどの絵を描けるのだろう。僕も絵のコンクールで賞を取ったことがあるが、ここまでの絵は描けない。
じっと眺めて、ふと気が付いた。
「これ、作者の名前かな?」
そう呟いた途端、浅葱も蘇芳も僕が指さした場所に顔を寄せた。建物の影に自然と馴染んでいたせいで、すぐには気が付けなかった。
ローマ字で書かれた名。それが本名なら、恐らく男性だろう。浅葱がどこに書いてあるのか分かっていないようだったから、僕は読み上げる。
「yuto……『ゆうと』だってさ」
「ユウト、さんですか」
「ペンネームかしら」
蘇芳の言う通りペンネームの可能性が高いと思われる。匿名で出しているのに絵に名前を書くなんておかしい。いや、フルネームではないから本名という可能性も捨てがたかった。
「高校生でユウト、か……。ちなみにこの絵のコンクールって今年のもの?」
「さあ、どうですかね。あたしには分かりませんが」
もし今年のものではなかったら、作者はもう高校生ではないかもしれない。描かれた年が分かればもう少しヒントを得られただろうに。
「けど、あの人が高校生だって言ったってことは、今年のものなんじゃないですかね」
蘇芳はどうやらその『あの人』を信頼しているみたいだ。それほど信頼に足る人物なのだろうか。
何か他にヒントが隠されていないか、じっと絵を眺めてみる。どれくらい眺めても飽きないくらい綺麗な絵だ。浅葱が絵から離れて、蘇芳に近付いた。
「蘇芳ちゃんは、まだ紫苑先輩が『ウサギ』だって思ってる?」
「は? 宮下センパイ何言ってんの。あたしはそこまで馬鹿じゃないわよ。呉羽先輩の能力は『そうぞう』じゃない。だからこそ悩んでるのよ。一番怪しいのは甲斐崎だけど」
予想の斜め上を行く言葉が蘇芳の口から飛び出した。協力者にもかかわらず、蘇芳は枯葉のことを本気で疑っているみたいだった。
恐らく蘇芳の中で、『ウサギ』の候補は僕と浅葱と枯葉だけ。第三者目線に立ってみてその三人のうち一人を疑うなら、僕も枯葉を疑うかもしれない。
「どうして甲斐崎さんなの?」
「心の声が聞こえるって、目に見えないし他人には分からないのよ。もしかしたら表情とかで読み取ってたりするかもしれないわ。それか、能力が分かっていないあの女教師が心を読める能力で、甲斐崎に協力してるかもしれない」
「蘇芳、やっぱり『ウサギ』を高校生だと決め付けるのはまだ早いんじゃないかな?」
蘇芳の仮定が間違っているとも断言出来ないが、枯葉が『ウサギ』だというのは無理がある。彼は確かに僕の声を、顔を見ずとも読み取れていた。それも、蘇芳と違ってイヤホンをつけていない状態で。
枯葉の能力は本当に、心の声を聞くことだと思われる。
「あの、紫苑先輩。市役所の人に聞いてみたら分かるでしょうか? この絵、いつのコンクールのものなんですかって」
「ああ、それがいいかもね。浅葱にしてはまともなことを言うじゃないか」
「先輩、絶対私のこと馬鹿にしてますよね」
「してない。いいから蘇芳と二人で聞いてきてよ。僕はここにいるから」
むっとした表情のまま、浅葱は蘇芳を引き連れて行く。二人が離れていったのを見届けてから、僕は携帯電話を取り出した。
市役所に入った時くらいから鳴り続けていて、かけている彼は暇なのだろうかと考えると笑いそうになってくる。
通話ボタンを押し、携帯電話を耳に当てた。
『遅い』
「電車の中だったからさ」
電話はいいものだ。顔が見られないから、声だけなら嘘も嘘と見抜かれない自信がある。電話の向こう側で、紫土が長い息を吐き出した。
『じゃあもう帰るのかな?』
「いや、友達といるからまだ帰らない。今三日市だし」
『あー、言ってたな、友達出来たって。あのさ、俺今日忘れ物したんだよね』
友達についてはどうでも良さそうだった。それほど興味がないのかもしれない。忘れ物は大体想像が付く。恐らく弁当だろう。
せっかく毎朝毎朝作ってやってるのに、よく忘れて行くのだ。
「知らないし届けてやらないよ。遠いじゃないか」
遠いといっても、紫土の職場は三日市からだと四駅ほど先の待宵市にある。ただ、面倒くさいから適当な理由をくっつけただけでしかない。
それにしても、この時間に弁当を忘れたことに気付くなんて、仕事に熱中しすぎだ。
『じゃあさ、夜ご飯オムライスにして』
「じゃあってなに」
『せめて疲れて帰ってくる兄のために兄の好物を作ってくれってことだよ、いい? んじゃ、切るよ』
こちらがなにかを言う前に切られる。なんて勝手なのだろう。というか僕が電話に出るまでの時間より通話をした時間の方が短いって……よくそんなどうでもいい用件だけで電話をかけ続けたな、と些か呆れた。本当に暇をしているのかもしれない。
一応忘れないように、携帯電話のメモ帳に夕飯はオムライスと書き込んでおく。となると、帰る前に店に寄って材料を買わなければならない。
退屈になって、僕は再び絵をじっと眺めた。ここにいると言ったからには動くわけにはいかないので、ぼうっと見つめる。
今日通ってきた三日市の駅前を思い浮かべながら絵を見ていると、確かに今年のものなのではないかと思えてきた。店や店の看板も何も変わっていない。駅前の店はそれほど変わることがないのかもしれないが、どこかしらに今と違うところがあってもいいはずだ。
三日市在住ではない僕だから、変わっている箇所に気が付けていないのかもしれない。今日見た三日駅前の景色も正直うろ覚えだ。
腕を組んで絵を見つめていれば、後ろに誰かが立った気がして振り返る。白のブラウスに黄緑色のジャケットを着て、それと同色のスカートを履いている女性が僕のことをじっと見ていた。
「……なにか」
僕が彼女の存在に気付いても、彼女は僕を見ることをやめない。じろじろ見られるのはあまり好きではなくて、つい不機嫌な声を出してしまった。
女性はにこっと笑うと、ヒールを鳴らして僕に一歩近付いた。
「その絵、気に入ったの?」
「綺麗な絵ですよね。作者を知っていますか?」
「ええ。私、中学校で教師をしているのだけれど、教え子なのよ」
中学校の教師。そういえば蘇芳が言っていた能力者が、蘇芳の中学校で教師をしている女だと言っていたことを思い出す。
ここは三日市。蘇芳の中学校も三日市。もしかしたらこの女性――。
「作者の名前と年齢を教えていただけ――……ます、か……」
突然、彼女の手が僕の頬に触れた。そのまま手の位置が下がって、顎を持ち上げられる。彼女のまとわりつくような視線に、寒気を覚えた。
僕はすぐさまその手を振り払う。
「なんの、つもりですか」
「あら、ごめんなさい。随分綺麗な顔をしているから触れてみたくなったのよ。ねえ、あなたお名前は?」
「僕の質問に答えてください」
「……つれないわね」
つまらなそうな声とは裏腹に、彼女の瞳から僕への興味は失せていないようだった。頭から爪先までをじっくり見られると、蛇に絡まれているような気分になる。
小さく笑って、彼女はもう一歩僕に近付いた。香水の匂いが、僕の眉を顰めさせる。
「名前は個人情報だから秘密よ。作者がこれを描いたのは高校一年生の時」
耳に息がかかるほどの距離で、女性はそう言った。
これを描いたのは、ということは、やはりこの絵は今年のコンクールで賞を取ったものではないのだろう。
二人が戻って来ていつのコンクールのものか分かれば、作者の年齢が特定出来る。
悩んでいた思考が止められたのは、女性の手が僕の足に触れたせいだ。つい掴み上げてしまった。
「あの、触られるのは好きじゃないんですけど」
「いいじゃない。教えてあげたでしょう? それに、あなた可愛いんだもの」
「はぁ?」
「嫌そうな顔で抵抗をしてくれる子って、久しぶりだわ。それも、こんなに綺麗な顔を歪めてくれるなんて……ふふっ」
もしかすると、いや、もしかしなくてもこの人は危険人物かもしれない。危機を察知した僕がこの場から離れようとした時、ようやく二人が戻ってきたようだった。




