月の絵3
◆
「先輩、いつも以上に疲れたような顔をしていますが大丈夫ですか?」
「あ、分かる? 面倒くさいのに捕まってさ」
相変わらず屋上には僕達だけだ。僕は未だに昼食を食べている浅葱を横目で見てから、国語の教科書に目を落とした。
読む小説が無かったから教科書に載っている小説を読んでいるだけであり、勉強をしているわけではない。
「面倒くさいの、ですか?」
「そう。ピアスは校則違反だから外せって言われた。断ったらぐちぐちぐちぐち。教師ってのも大変だね、こんな面倒な奴をいちいち相手にしなければならないなんて」
「自覚があるならすぐに謝って外せばよかったのでは?」
「嫌だよ面倒くさい」
叱られることとピアスを外すことどちらが面倒かと問われれば、もちろん前者だろう。本音を言うと外したくないのだ。すごく、大切なものだったような気がするから。
「あ、そうだ。言い忘れていたんだけど、今日の十七時に三日市の図書館に来いって蘇芳に言われているんだ。場所分かる?」
「図書館ですか? はい、分かります。駅から十五分以上は歩きますけど」
「問題ないよ。案内してくれると助かる」
「もちろんです! 任せてください。ところで紫苑先輩、勉強って得意ですか?」
唐突な問いかけに、僕は悩むことなく首を左右に振った。なぜ勉強の話が今出てくるのだろうかと思ったが、テストか何かがあるのかもしれない。
「残念ながら数学以外は赤点ギリギリだよ」
「意外です。どんな問題も簡単に解いてしまいそうなのに」
「君の中で僕はどんなイメージなの?」
小さく笑ってから、僕は教科書のページをめくった。読書は好きだが、思ったよりも国語のテストは出来ない。現代文も古文も取れて六十点台だ。
漢字や単語の意味などは全て埋められる。読解問題が意味不明だ。『この時のこの人物の心情を答えよ』なんて、捉え方は人それぞれだろう。作者の考えなんて知ったことか。僕がそう読み取ったのだから、僕の想像したその人物はその心情なんだ。
「――えっとですね、授業に全く集中してないんですけど、当てられたらすらっと答えを述べたり。リレーとかでバトンを受け取って何人も抜いていったり。あとはそうですね、音楽が得意で、料理や裁縫も出来てしまうような」
「え、なに。何の話?」
「へ? 紫苑先輩のイメージです」
自分がした質問を忘れていたわけではない。ただここまで長々と語られるとは思っていなかったから、話が変わったのかと思ったのだ。
それにしても、やはり彼女の中の僕は完璧超人に位置しているようだった。
「理想じゃなくて現実を見つめさせてあげるよ。授業中は集中してないどころか寝ている。当ててくるのは数学の教師くらいだからまあ当てられたら答えられる。……あとなんだっけ?」
「リレーで何人も抜いたり音楽得意だったり料理や裁縫も出来てしまうような、です」
「あー……そうだね、足は速いかもね。音楽は楽器の演奏が苦手、料理は出来る。裁縫は微妙かな」
「そうなんですか!?」
裁縫が得意ではないと言ったにもかかわらず、目を輝かせているのが不思議だ。浅葱は、頬をつねってやりたくなるくらいへらへら笑う。
「私はですね、裁縫、得意なんですよ」
「へえ、それで?」
「そ、それで!? それで、えーと、寒くなったら! 先輩にマフラーをプレゼントしますね!」
寒くなったら、というとあと一月くらいだろうか。いや、一月ではまだマフラーが必要ない程度かもしれない。
涼しい、くらいの気候でマフラーをしていたら暑い。彼女からのプレゼントは早くて二ヵ月後になるだろう。
「紫苑先輩、誕生日っていつですか?」
「十月二十九」
「よかった……まだなんですね! 楽しみにしていてください、マフラー!」
……どうやら一ヶ月半ほどでマフラーをくれるみたいだ。けれど十月の後半はまだマフラーが必要になる気候ではない気がする。
まあ、寒くなったら使わせてもらえばいいだけの話だ。
「ありがとう、楽しみにしておくよ」
「はい! さて、そろそろ教室に戻りましょう、先輩っ」
もう少しここにいていいのではないか、そう思い携帯電話の時計に目をやると、既に昼休みが終わりそうな時間だった。
僕の本を読む速度はこんなに遅かっただろうかと首を傾けたが、浅葱と話しているからそれほど読書に集中出来ていないだけと思われる。
「五六時間目はなんだったかな」
「私に聞かれても分かりませんよ? ちなみに私は家庭科です」
「その時期だとエプロン作りだったっけ」
「はいっ、楽しいですよ」
少し意外だった。僕の中で彼女は、縫っている途中で自分の指を刺しているようなイメージがあった。思ったよりも器用みたいだ。
胸ポケットから生徒手帳を取り出して、時間割が書かれているページを開く。古典と現代文という睡眠にうってつけな授業だった。
「そういえば、授業中に寝たりした?」
「え、しませんよそんなこと」
少し前から思っていたが、浅葱は優等生タイプだ。授業なんて睡眠の為にあると思っている僕とは正反対なのだろう。
しかし真面目すぎると疲れるものだ。睡眠時間が足りていないのだろうし、少しくらい真面目から離れたらいいのに。
「眠くないの?」
「眠いですけど……帰ったら夜ご飯までぐっすり寝ます。夜ご飯を食べたら十二時まで寝ます」
「太っても知らないよ」
「太、る……」
浅葱は自分の腹を押さえて俯いた。というよりも、自分の体型を見つめ直しているようだ。
「あの、先輩。私太ってますか?」
「標準だと思うけど」
「本当ですか? 足とか太くないですか?」
言われて、視線を下げ彼女の足を見る。女子と言うのは一体何のためにスカートの丈を短くしているのだろうか。校則では膝が隠れる程度と言われていたはずだが、浅葱もその他の女子も太ももが見えるほど短い。
僕はそんなことよりも時間が気になり始め、時計を確認した。
「戻ろうか。……ああ、君は全く太ってないから気にしなくていいんじゃないかな。ただそのスカート、短すぎると思う」
「えっ!? 可愛いじゃないですか!」
「まあ、別に良いと思っているならそのままでいいんじゃない?」
なるほど、女子は可愛いと思ってやっているのか。どうでもいいけど。
屋上を出て、僕達は階段を下る。鞄の中を漁っている浅葱をちらと見てから、足元の段差をなんとなく眺めながら足を進める。
「危なっかしいよね、君」
「? 私ですか?」
「君以外に誰がいるの。電車で変な遊びをし出したり扉に顔面から突っ込むような君が、鞄の中だけを見ながら階段を下りていたら絶対落ちるだろうなって心配しているこっちの身にもなりなよ」
「ごめんなさ――……いやいや、先輩私のこと馬鹿にしてますよね?」
「馬鹿な奴に馬鹿にされるなんて可哀想だね君――」
不覚だ。浅葱の足元ばかり気にしていてまさか僕が階段を踏み外すとは思っていなかった。
手すりに掴まったまま固まっている僕に、浅葱が慌てて近寄ってきた。
「だ、大丈夫ですか紫苑先ぱ――」
「笑うな」
「笑ってないですよ!?」
「うるさいほっといて。いいから早く階段下りなよ」
そもそも浅葱が危なっかしく鞄を見つめながら下りているのがいけないんだ。彼女がいなければ自分の足元から意識を逸らさずに済んだというのに。
なんて、意味のない八つ当たりをしている自身に溜息が出る。己の不注意で他人を責めてどうする。
後悔から段差を注視していたが、突然腕に飛びつかれ、僕はそちらに目を向けざるを得なかった。反射的に振り払おうとしたものの、どうにか堪える。
「こうして下りれば私のことを心配せずに済みますかね?」
「……あのさ、君スキンシップ激しいってよく言われない? くっつかれたりするの、あんまり好きじゃないんだけど」
「すっ、すみません……」
時間がないことを思い出して、さっさと階段を下り始めた。浅葱は僕から既に手を離しており、僕だけが階段を下り終える。
振り返ってみると、浅葱は先程僕がいた段で立ち止まったままだった。
「何してるの。君、優等生なんだろ? 早くしないと授業に遅れるよ」
「はい。あの、私、無自覚で……本当にすみませんでした」
「別に気にしなくていい。うざったくなったら振り払うから君はいつも通りでいい。振り払われてもいちいち傷付かないでくれればいいかな。いいから、早く行くよ」
未だに僕は、無意識の内に彼女を傷付けている。人間なんて、無意識の内に傷付けられ傷付く生き物だ。仕方がない。
仕方がない、と割り切れないのは、どうしてだろう。勝手に傷付いて勝手に泣けばいい。そう思えない。
せめて、顔に出さず苦しんでくれればいいのに。どうして僕に疑問ばかり抱かせるんだ。
どうして、彼女の反応一つで苛立ったりしなければならない。
それからは何故か無言のまま、互いの教室へ向かうために別れた。
◆
授業を終えて昇降口に向かったが、浅葱はまだ来ていない様子だった。蘇芳から既に図書館で待っているという連絡があったから、これから向かうと返信をしておく。
十分くらい待っても、浅葱は来なかった。下校していく一年生を見かけるから、授業は終わっているはずだ。
僕は仕方なく、上履きに履き替えて階段を上った。一年生の階が二階で助かった。疲れずに済む。
人通りの少なくなった廊下で他学年が来ると目立つのか、一年生の視線がちらちらと向けられた。気にすることなく廊下を歩いて行くと、浅葱の姿はすぐに見つけることが出来た。何をしているのかと聞きたくなるくらい、帰る準備は整っているように見える。
「浅葱」
「……紫苑、先輩」
僕に会いたくなかったのではないか、と推測してしまう。何故来たんですか――そう、瞳が物語っていたからだ。残念ながら来てしまったものは仕方がない。引き返す理由もないから、僕は浅葱の手首を掴んで軽く引っ張った。
「行くよ。それとも何かを待ってる?」
「えっと……」
浅葱の背後で、笑い声が聞こえてきた。それに反応して彼女の双肩が小さく震える。クラスを聞いたわけではないため確証はないが、浅葱が背にして立っている教室は彼女のクラスなのだろう。
「忘れ物をしたけど教室に入りにくい、みたいな? 別にまだ下校してない人なんて沢山いるだろうし、気にせず取りに行けばいいんじゃない? それか明日にしたら?」
「定期券がないと、帰れないです」
「……じゃあ取って来なよ」
「――ほんと宮下さんどうかと思うわー」
浅葱の肩が再び跳ね上がった。廊下まで聞こえるほどの声で誰かを非難する方がどうかと思うのは僕だけだろうか。
大体状況は分かったため、僕は浅葱に背を向けて歩き出した。
「交通費くらい出してあげるからさ、行くよ。これ以上蘇芳を待たせるわけにはいかない」
「…………はい」
教室に入って取りに行っても良かったのだが、それが浅葱にとって良い事になるとは限らない。そもそも何に対して愚痴を言われているのかすら知らないから、知らない間に火に油を注ぐようなことをしたくなかった。
ただ、あんな環境にいる浅葱の精神面が気がかりだ。
階段を下り、昇降口を出て校門を抜ける。学校から駅までの道のりを半分ほど歩いた頃、ひたすら無言だった浅葱がようやく声を発した。
「私……最低、なんでしょうか」
「なに、いきなり」
「親友が亡くなったのに、何事もなかったかのように先輩と笑っている私って、最低なんでしょうか」
ぽつり、ぽつりと落とされる声は小さくて、それでも僕の耳を突き刺すほど悲痛な音だった。僕は小さく首を横に振ったものの、それに彼女が気付いたかどうか分からない。
ひたすら地面だけを見つめる顔がどんな表情をしているか、僕の位置からでは窺えそうになかった。




