あの月にウサギはいない2
「聞きたいことがいくつかあるから、ゆっくり歩こうか。浅葱」
「は……い。よ、呼び捨てですか。しかも下の名前ですか……」
呼び捨てがそれほど不満だったのか、彼女の眉が寄った。その顔が少し、赤いような気もする。熱でもあるのかと心配になったが、気温の問題とも考えられた。
まだ制服の移行期間中のため、暑ければ夏服のままでも構わないのだが、彼女が冬服を着ている理由は色々あるのだろう。僕のクラスの女子数人も冬服のほうが可愛いなどと言っていたような覚えがある。
「じゃあ……宮下?」
文字数的に宮下は長くて嫌だと判断し、浅葱と呼んだのだが、彼女が嫌ならどちらでも構わない。名字で呼び捨てにしてみると、彼女は悩むように顎に手を当てて、しばし唸る。
どうやら気に食わないようなので、仕方なく僕は別の呼称を案出した。
「宮下浅葱さん」
「どうしてフルネームなんですかっ!?」
「浅葱ちゃん――ああ、これだとそう呼ぶ僕が気持ち悪い」
「も、もう浅葱でいいです! 別に、嫌ではないですから!」
我侭な幼子みたいで面倒くさいな、とぼんやり考えて彼女を見ていたが、時間が惜しいので歩き出す。
「良かった。それが一番短くて呼びやすいよ、浅葱」
「あっ……長さ?」
「というか、嫌ではないなら早く言って欲しかったな。時間を無駄にした気分だ」
ゆっくり歩きながら隣に並ぶ浅葱を見ると、ぽかんと口を開けた阿呆面のまま固まっていた。
それについては何も突っ込まず本題に入ることにする。店の中でのんびり話をしていてもよかったけれど、学校に向かいながら話してしまった方が効率的だ。
「それで、単刀直入に聞くけど。君は何故自殺なんてしようとしたの?」
僕の問いかけで空気はがらっと変わる。ごくっと、彼女が唾を飲んだ。固まっていた表情は僅かに蒼くなり強張っていた。
唇が震えているのが見て取れる。僕は彼女に落ち着きを取り戻してもらいたくて、同様に震えている手をさりげなく握ってみた。
浅葱は双肩を持ち上げて、小型犬のような目で僕を見上げてくる。
「え、手……」
「ああ、気にしないで。深い意味はないから」
「で、でも、恥ずか……っいえ、えっとセクハラというやつで!」
「次ふざけたことを言ったら、君の指一本ずつ折るよ」
落ち着かせてやりたい、と思った僕が馬鹿だったのかもしれない。いや、だが彼女の言うとおり初対面の人間に触れられるのは不快だろう。少し反省をし、手を離してから彼女を瞥見すると、彼女は真っ青になってひどく怯えていた。
怖がらせてどうする。これでは本題に入れない。自分に呆れて頭を抱えたくなる。
だけど出来るかも分からない脅しで、これほど怯える彼女の弱さを見て、僕は渋面を浮かべていた。むかついたから、かもしれない。
「なんでそんなに怯えるんだ? 君がしようとしていたのは、もっと痛くて辛いことなのに」
「そんなこと、ないです。飛び込めば……痛みなんて、一瞬で」
「もし飛び込めなかったら? 例えば足だけ持っていかれるとか、酷い結果が待ち受けていたかもしれない。そして電車を利用する多くの人に迷惑がかかり、君の家族が罰せられるかもしれない。そこから家庭崩壊に繋がる可能性だってある」
深いところまで考えていなかったのか、浅葱の顔がどんどん俯いていく。
確か、他人の権利又は法律上守られる利益を故意に侵害した者は損害を賠償する責任を負う、という内容の法律があったような気がする。飛び込み自殺はそれに従い罰せられるとか聞いたことがあるけど、真偽は知らない。
頭が良いわけでも様々な知識を持っているわけでもないから、僕の言い分は全て想像のものでしかない。
それでもいくらか、彼女には効果的だったみたいだ。
「そう、ですよね。死ぬなら、家で首を吊るとか手首を切るとかの方が、いいですよね」
「それなら誰にも迷惑がかからないって、本当に思ってる?」
「え?」
「……いや、なんでもないよ。それで、なぜ君は死のうとした? なんとなくだけどいじめられているとは思えないし、家庭環境も良さそうだ」
実際どうなのかは分からないが、彼女を見て感じたことを述べていた。
まず、鞄が綺麗である所。その鞄に付いている可愛らしいストラップは、形状から見てペアでするものだと窺える。ストラップは友人か恋人と一緒に買ったのではないか、と推察してみた。
これで僕の予想が外れていていじめが原因、家庭の事情、だとしたらどうしようか。と、悩んでいたら、ようやく浅葱が切り出した。
「少し前に、親友が……事故で亡くなったんです」
親友、という単語とその意味を咀嚼するように、胸中で繰り返してみる。大切な存在の喪失というのは、心に深い傷を付けるものだ。思わず眉を顰めてしまったことにはっとして、そっと表情を落とす。
信号が赤だったので足を止めると、続きを視線で促すまでもなく浅葱は口を開いた。けれども話すことに躊躇いがあるのか、それとも話すことで思い出す何かから目を逸らしたいのか、彼女の物言いは覚束ない。
「私、引っ込み思案で……。でも、親友がいたおかげでみんなとも仲良く出来たし、友達も多い方だと思ってたんです。けれど、親友がいなくなってから……誰とも、話せなくなってしまって」
「……そっか」
「彼女がいないと私は一人ぼっちで。孤独に押し潰されてしまうくらいなら、死んで彼女の所に行った方が楽なんじゃないか、って。でも死ぬのも怖くて、やめるかどうか悩んで、やめようとして……改札を抜けて学校に向かおうとしました。でも、出来なかったんです。孤独が、怖くて」
孤独だというだけで死を選ぶなんて、おかしなことだ。死んでしまったら、それこそ孤独だ。誰だって逃げ場を作ることがあるけれど、その中で死を逃げ場に選ぶ人が多いという現実は、目を逸らしたくなるほどに認めがたい。
話はそれだけなのか、彼女は黙り込んでしまう。俯いているせいで信号が青に変わったことにも気付いていないらしく、歩き出さない。
そんな彼女の袖を引いて信号を渡った。
「よく分からないけどさ、そんなに一人ぼっちが嫌なら、僕が友達になってあげようか?」
友達なんてもう何年もいないからどういうものなのか忘れてしまったが、とりあえず彼女を孤独から救い出せば解決する話のように思えた。
生きていたいと思わせればいい。友達になることなんてお安い御用だ。友達――つまり話し相手になればいいのだろう。
「紫苑先輩が……とも、だち……?」
「嫌かな?」
微笑んで浅葱を見つめたら、彼女は勢い良く頭を左右に振り出す。
それはよかった、と呟き、横断歩道を渡った先の自動販売機で冷たい飲み物を買う。熱を帯びた手の平がひんやりと冷やされた。
何か独り言を言いながら僕を待ってくれている浅葱の頬に、飲み物を押し当ててみた。
「ひゃっ!?」
「あげるよ。顔、赤いから。熱中症で倒れられても僕が困る」
九月と言ってもまだ暑い。彼女の顔が赤いのも仕方が無いことだ。
僕はあまり顔が赤くならないし汗もかかないから、暑いと思っていても他人に気付かれない。正直、ブレザーを脱いで長袖を捲りたいくらい暑かった。
「っ紫苑先輩」
「何?」
買ったのはスポーツドリンクだが、彼女の好みではなかったらどうしよう。他のものを買い直そうかとも考えたが、適当に保冷剤として使ってくれればいいかと結論を出す。
「じゃ、じゃあ、休み時間とか、お昼とか、登下校とか……一緒にいてくれるんですか?」
まだ開けられていないペットボトルを、両手で握り締めながら尋ねてくる彼女。丸い双眸の奥で不安が揺蕩っていて、それを片笑みで吹き飛ばしてやりたくなった。
「別にいいよ。どうせ僕はいつでも一人だからさ。誰にも迷惑はかからない」
本当に、僕らしくない。
けど、助けてしまった事を間違いだとは思わない。これで良かった、そう思えていた。それに『零時までなら』僕は『ここ』にいられるから、友達になることに問題はない。
浅葱の方を見ると、少し嬉しそうに口元を綻ばせていた。
そんな彼女に言うべきかどうか悩む言葉を、僕は結局遠慮なく紡ぎ出す。
「……浅葱。人の死って言うのは、見つめて、乗り越えて、ずっと背負っていかなければならないものだと思うよ」
「どういうこと、ですか?」
「忘れてはいけない。その人が自分にとってどんな存在だったのか。大切な人だったとしても、引きずられて後を追ってはいけない。残された者は、その人の分も生きなければならない……らしいよ」
こんなことを、誰かに言われたことがある。記憶の片隅から言葉を引っ張り出しながら、僕は浅葱に語った。語りつつ、何かを思い出そうとしていた。
話し終えてから、この重い空気を取り去るべく微笑んでみせる。
「じゃあね浅葱。あ、ちなみに僕は二年四組だから、何かあったらおいで」
話をしている間に学校に着いていたため、自分のクラスを教えて浅葱から少し離れた。
当然学年ごとに、下駄箱の場所も教室のある階数も違う。それゆえ昇降口で別れなければならない。だから僕は、僕につられてか微笑を浮かべた浅葱から目を逸らし、自分の下駄箱の方へと向かい始めた。
不思議と頭にこびりついた、彼女の咲笑った顔。小さく頭を振り、小ぶりな花に似たあの笑顔を振り払う。
おかしな気分だった。こういうものが、周りの人間にとっての普通の日常、なのだろうか。だとしたら、今までの僕の日常が何であったのか少し考えてみた。――形は違っても、それは僕にとって確かな日常だった。
まあ、日常の定義なんてどうでもいい。
朝も昼も、僕にとって休息の時。長すぎて退屈な休憩時間に、浅葱という暇潰し相手が出来た。だから少し――嬉しいのかもしれない。退屈が少し減るから、僕は嬉しいと思っている。
きっとそうだと胸中で決め付け、教室に足を踏み入れて、自分の席に着いた。相変わらずの喧騒から意識を逸らし、すぐさま机に顔を伏せて目を閉じる。
このまま寝てしまおう。授業なんて受けなくても問題はない。
意識は簡単に、夢の中へ落ちて行けた。