決して剥がれぬ微笑の仮面5
◇
あれから、私は体育館でずっとぼうっとしていた。蘇芳ちゃんと甲斐崎さんに「協力者になるので連絡先を教えあっておくべきでしたよね」という内容のメールを送ってから、ひたすら時計を眺めている。
送っておけば私のメールアドレスを二人が知れるうえ、紫苑先輩となにかあった時に甲斐崎さんか蘇芳ちゃんが連絡をくれるはずだ。
……私はどういう連絡を求めているのだろう。
紫苑先輩が『ウサギ』で、私を助けようとしている。だから私とは協力者になれない。そんな連絡――ではない。
紫苑先輩が『ウサギ』ではないことが分かり、紫苑先輩とも協力者になった。――これだ。この連絡が来たら、私のこの落ち着かない心も静まるはずだった。
「紫苑先輩……」
彼が無事か、心配になる。二人の能力からして甲斐崎さんはサポートに回り、蘇芳ちゃんが彼と戦っているはず。
蘇芳ちゃんが紫苑先輩を『ウサギ』だと信じて疑わなかったら、彼を殺そうとするだろう。
紫苑先輩の能力が蘇芳ちゃんの能力に抗えるものかどうか分からないため、不安ばかりが溢れていく。
彼の無事を祈ると、手が震えた。それがどうしてか分からず、怖くなる。手は、誰かを強く心配すると震えてしまうものだったろうか。
震えを誤魔化すように握り締めた直後、ポケットの中で携帯電話が振動した。思わず、物音に驚いた動物のように跳ね上がる。
携帯電話を見てみると、甲斐崎さんからメールが来ていた。
『呉羽紫苑はお前を助けねえって判断をした。心の声も聞いてるから強がりでもなんでもねえと思う。お前、本当にあいつの味方じゃなかったんだな。よかった。協力者として歓迎するぜ』
な、んで。
歓迎する。その言葉は嬉しい。この孤独の世界で仲間が出来たことは本当に嬉しい。なのに、それ以上に悲しい。
紫苑先輩が私を助けない方を選んだ。
その事実に、胸が苦しくなった。何度も何度もナイフで抉られたらこんな痛みが走るのだろう。
――落ち着かないと。考えないと。
きっと、なにか理由がある。もしかしたら先輩は、私がこの世界にいるという話をそもそも信じていないのかもしれない。
その考えに無理があることくらい分かっている。それでも、こじつけに近いものでもいいから、理由が欲しかった。
先輩に、本当に『どうでもいい』と思われていたなら、私は明日から彼にどう接すればいい?
協力者が出来たからいいやとは全く思わない。この世界に紫苑先輩がいるのなら、この世界でも私は先輩の傍にいたい。
その願いを彼に許してもらえなかったらと思うと、再び深い孤独に突き落とされるような気分になる。私などどうでもいい存在で、傍にいて欲しくないと思われていたら。そんな悲しいことばかりが浮かんで、自分で自分の心を追い詰める。
「どうして、近付けないの……っ」
先輩の、友達なのに。
嘘だ、という叫びが喉元までせり上がってくる。こんなのは嘘だ。私の自殺を止めてくれた先輩が、私の死を簡単に認めるなんて、そんなことは全て嘘だと思い込みたかった。
私は、自意識過剰で自惚れている馬鹿だ。
なんの役にも立てず、迷惑をかけてばかりの私が、彼の中で何になれていたと思っていたのだろう。
紫苑先輩の中で、私なんかちっぽけな存在なのだ。
涙が零れそうになった瞬間、体育館の後ろの扉が音を立てた。
「え」
甲斐崎さんと蘇芳ちゃんが帰ってきた。そうであってほしいと思ったけれど、そこに立っていたのは人兎だ。どうやら恐いという気持ちは、他の感情に関係なく膨れ上がるみたいだった。
「っ……!」
こちらの心境すらお構いなしに、建物の中に足を踏み入れる化け物。あの手に握ったナイフも、無感情に向けてくるのだろう。
逃げなければ、殺される。
恐れを潰すように奥歯を噛み締めて、私は人兎が入ってきた扉ではなく、ステージの手前にある扉を目指して駆け出した。
小さな風の音が聴覚を刺激する。
目の前を、何かが掠めた。ステージに上がるための階段が、大きな音を立てる。つられて目をやると、そこにはナイフが突き刺さっていた。
無意識の内に額に手を当てており、私は恐怖で流れたのであろう汗を拭っていた。その手をなんとなく見て、べったりと付いていた血液に目を見開いた。
拭ったのは汗じゃない。流れていたのも、血だ。
「……!」
再び風を切るような音が聞こえた。戦慄する体になんとか指令を出して駆け出す。再度、ステージの方で刺突音が上がる。
人兎は、ナイフを投げながら近付いてきていた。早くここから出て、蘇芳ちゃんか甲斐崎さんに連絡を取りたい。
とはいえ逃げることも携帯電話を開くことも、怖くて出来ないのだ。いつあの刃が飛ばされるか分からないため、迂闊に動けない。
どうすればいい。
私は、何も出来ないままじっと人兎に向かい合った。人兎はゆっくり、歩いてくる。それをしかと捉えながら、ゆっくり、扉に近付く。
ゆっくり。
ゆっくり。
私の手は扉に触れることが出来た。あとはドアノブを掴んで、回して、押せばいい。震える手で、ドアノブを掴もうとして――銀色の軌跡が見えた。
「――――!」
今までに味わったことのない、痛み。一瞬、痛みすら分からず時が止まったみたいだった。
ナイフは、私の右腕に突き刺さっていた。
「あ……ぁ、ああ……!」
怖い。怖い怖い怖い。痛い、痛い。頭が回らない。痛い。熱い。どうすればいいの。この刺さったままのナイフをどうすればいいの。
おかしくなりそうな痛覚。口から途切れ途切れに漏れる悲鳴。焼けるように熱く頬を伝うのは、涙だろうか。
視界が、もう一度銀色の線を捉えた。振り上げられたナイフ。いつの間にか目の前に迫っていた人兎が、私に向かってそれを振り下ろす。
「いやぁあああああああ!!」
扉を開けることを諦め走り出そうとして、方向を急に変えたせいか自分の足を絡めて転んだ。こんな時まで運動能力が発揮出来ないなんて情けない。
「い……――ッ!」
足に激痛が走った。人兎の振り下ろしたナイフは、私の右足を掠めていた。突き刺されていなくて良かった、と思える余裕すらない。
死にたくない。逃げないと。その気持ちで一杯だった。
地を這ってでも、逃げなければと思った。這ったまま前に進もうとして、人兎の方に視線を移す。もう一撃が来る。それを視認した直後、痛みを覚悟して強く、目を瞑った。
「――……あれ?」
なにも、ない。もしかしたら誰かが助けに来て人兎を倒してくれたのかもしれない。そんな期待を胸にし、ゆっくりと瞼を上げる。
人兎が倒されたわけではなかった。人兎はナイフを持ち上げたまま、電池が切れた玩具のようにぴたりと止まっていた。
「えっ?」
「――ご退場願いますよ、兎さん」
男性の声。それに従うように、人兎は壁の方へ吹き飛んだ。私から離れた所に寝転んだ人兎は、握ったナイフで自らを突き刺した。
どういうことか不思議に思っていると、革靴の音が体育館の中で綺麗に響く。どこから入ってきたのか、ステージの上に一人の男性が立っていた。
「初めまして、私は東雲と申します。あなたが浅葱さんですね? おっと、詳しい話の前に治療が必要ですね。気付かず申し訳ない」
彼――東雲さんは私のことを知っているみたいだった。ステージから降りて、倒れたままの私の傍に膝を突く。
東雲さんはまず私の足を見て、それからナイフが刺さったままの――いや、刺さっていたはずの腕を見た。
不思議なことに、刺さっていたナイフが嘘みたいに消えている。けど確かな痛みが、ナイフが刺さっていたことを証明していた。
「足と額は軽傷です。安心してください」
東雲さんはポケットから取り出したハンカチで私の額を軽く拭うと、私の袖を捲くった。血が流れている前腕部に、それが巻きつけられる。きゅっときつく縛られ、私は痛みで思わず目を閉じた。
「っ……」
「すみません。私、応急処置の方法とか詳しくないので」
「いえ、だいじょうぶ、です」
「……怖かったですよね」
縛り終えると、東雲さんは私の頭にぽんと手を置いた。暖かい手が、撫でるように後頭部へ進む。
優しく頭を押されて、私は東雲さんの胸元に顔を埋めていた。
「……へ?」
「もう大丈夫です。遅くなってしまい、申し訳ありません」
「あ、あのっ」
東雲さんは私を落ち着かせようとしてくれているだけだ。しかしこの状況はあまりに恥ずかしくて、彼を突き放したい気分になってくる。
助けられて、優しくされている私にはそんなことが出来ない。私の行き場のない手が、落ち着きなく床を滑っていた。
それから少しして、ようやく東雲さんは離れてくれる。
「いけない。こんな場面を紫苑くんに見られたら殺されますよね。危ない危ない」
にこにこと優しげに笑う東雲さんが、口に出した名前。紫苑くんというのは、恐らく紫苑先輩のことだ。
「あの、どういうことですか? 紫苑先輩と知り合いなんですか? どうしてここに――」
「彼とは協力者です。私は彼からのメールに従ってここに来たまでですよ」
ほら、と言って携帯電話のメール画面を私に見せてくれる。そこには『弓張駅周辺。校章が丸い中学校の体育館に行って』とだけ書かれていた。これでは東雲さんにも何のことか伝わらなさそうだ。
「私が知っている中学校にとりあえず向かってみて、それが当たっていてよかったです。他にも丸い校章の中学校があったらどうしようかと」
「あの、助けてくださり、ありがとうございました」
「いえいえ。なんの呼び出しかと聞きたかったのですが、紫苑くんはここにいないんですね」
紫苑先輩が東雲さんをここに呼んだのは、他の何でもなく私を助けるためなのだろう。ここに先輩はいないものの、私はすごくほっとしていた。目の前に先輩がいたのなら、きっと学校でしてしまったように抱きついてしまったかもしれない。
「っえ、浅葱さん!?」
「はい……?」
どうしてそんなに驚かれているのか分からなかったが、出した声が震えていて察しがついた。私は今、泣いているのだ。
「あっ、ごめ……、なさい……っ」
「大丈夫ですか!? あああああ泣き止んでくださいよ! このまま紫苑くんがここに来たら私、確実に四つ折りにされるじゃないですか!」
「っごめん、なさい……!」
安心したら、涙が止まらなくなってしまった。東雲さんには本当に申し訳ない。泣き止めればいいのに、それは簡単なことではなかった。
先輩の、せいです――噛み締めた唇の裏側で、そんな震えた声が漏れる。
どうして、今ここにいないんですか。先輩。私は、今すごく先輩に謝りたいんです。今すごく、先輩にお礼を言いたいんです。
今すごく、先輩に、涙を受け止めてもらいたいんです。
紫苑先輩。
◆
二つに結われた髪が更に分かれて、六本ほどの触手みたく僕の方へ向かって来た。得物の多さに眉根を寄せる。
僕が能力の対象に出来るのは視界内のものだけだ。それに、一つのモノのみ。複数のモノに能力を使おうとすると、うまく能力が発動されない。それは僕の集中力と想像力と未熟さのせいかもしれない。
歯噛みして駆け出し、向かい来る髪の毛をかわした。蘇芳の長髪で空気が切られる度に風切り音が夜闇を縫う。
くそ、と吐き捨てたい気分だ。髪が邪魔で蘇芳の姿が視界に入らない。もっと接近しなければ攻撃が出来ない。そのためには、この髪を全てどかさなければならなかった。
「〈曲がれ〉」
分かれていた髪が一本の束になった直後、僕に向かって来ていたそれの軌道を変えた。僕のいる所とは全く違う方へ向かい、歪められた空気に抗おうと街灯に絡みつく。
「〈折れろ〉」
「――っうあ!」
蘇芳の姿を捉えてすぐ、彼女の腕を折り曲げた。重力に任せて下げられた片腕を押さえ、彼女はすぐさまこちらを睨め上げた。苦しげな表情は、同時に驚愕の色も宿している。
「僕の能力はモノを浮かせるだけじゃないんだよ」
「……っこのぉぉおお!!」
奮然と襲いかかる髪を避けながら、僕はさっきまでその髪が絡みついていた街灯に「〈折れろ〉」と呟く。
足を離された街灯の殷々たる音色は、直に地を唸らせるほど勢いを増すのだろう。けれどそれが地面にぶつかって轟音を立てるより早く、宙へ浮かせた。蘇芳の方へ放たれた鉄塊は余喘の光を散らす。流星じみた一線が視界から失せたことに疑問を抱き、僕の体が仰臥しかけていることに気付いた。
「あ」
蘇芳がぶつかったかどうかを見届ける前に、僕は阿呆のような声をぽつりと漏らした。それは街灯が立てた音に掻き消されて蘇芳には聞こえなかっただろう。足に絡みついた髪の毛に引かれ、藻掻いた手は空気しか掴めず不覚にも倒れ込む。
地面に手を突いて上半身を起こし、追い討ちをかけに来たもう一房の髪を手で掴んだ。それを引っ張ると、視線の先で、無傷な蘇芳がふらついた。
「〈歪め〉」
「えっ――」
加減をしつつ、蘇芳を上から押し潰す。立っていられないほどなのか、彼女は膝を折った。
憎々しげに僕を見た直後、蘇芳は僕に掴まれたままの髪を縮め始めた。離すべきか否か悩みつつも、加減しながら使っている能力の方へ意識を集中させる。
「ちっ」
舌を打ち鳴らして立ち上がるが、手綱を握られた体はすぐ頽れそうになる。手足に巻き付いた髪の毛が次第に短くなり、僕はだんだんと蘇芳の方へ近付いていた。地を踏みしめている靴底が道路を滑って、不快な擦過音を鳴らしていた。
掴んでいる髪の毛が僕の手の中で蠢く。抗う生き物を握り潰すような感覚に気持ち悪くなりながら、僕は目が合ったままの蘇芳に微笑みかけた。
「君の能力としては離れている方が有利なんじゃない?」
「る、さい!」
足に絡んでいた髪の毛が解けて、視界を覆いに来る。空いている方の手でそれを阻止した。すると両手で掴んだ髪の毛が更に伸び、僕の手にぐるりと巻きついた。これでは、髪を手放すことが出来ない。面倒くさいことになった。
「はぁ……」
「あんた……、諦めなさいよ!」
「え、この状況でそんな台詞吐く? 別に原型を留めなくなるまで押し潰してあげてもいいんだけど」
蘇芳が息を呑んだのは目に見えて分かった。強がっていても中学生の女の子だ。死ぬことに恐怖を覚えるのは、当たり前のことだと思う。
尤も、高校生でも大人でも、死ぬなんて嫌だろうが。
「こ、こっちこそあんたなんかぐるぐる巻きにしてやってもいいのよ!」
「悪いけど縛られる趣味はないよ。〈来い〉」
「えっ!?」
蘇芳は動揺のせいか僕に巻いていた髪の毛をぱっと解いた。引き寄せられて眼前まで迫った彼女の首を素早く掴み、その勢いのまま押し倒して地面に叩きつける。咄嗟に顎を引いた彼女が受けた衝撃は、背中に集中したと思われる。
「う……っ!」
「ごめん、痛かった? 手を抜くつもりはなかったからさ」
「くっ、るし……い……」
必死な両手が僕の手を引っ掻いた。伸びた髪が鞭のようにこの体を打つ。別の髪が、腕をきつく縛り付ける。もう一房が仕返しのように首に絡んできた。
他の髪の毛は滅茶苦茶に地面を穿ちながら僕を叩いているのに、その一房だけは冷静に僕の首を絞めていく。喉が押し潰され、頚椎が軋んでいく。肺から溢れ出す呼気は外気に握り潰されそうだった。
「っ……蘇芳、君が先に気を失うのか、僕が先、か……どっちだと、思う?」
「……して」
聞こえない。そんな声じゃ、僕には届かない。もっと大きな声で言ってもらいたい。
――死にたくないって、もうやめようって、言ってくれ。もう、終わらせてくれ。
僕の意識に反して細められていく双眸の中で、蘇芳の唇が、震えながら動いた。
「ど……して、あんた……こわれ、そうに、わらってるの……?」
どうして。同じ言葉を返してやりたかった。小さな音を立てて、彼女の髪の毛が地面に落ちた。
彼女は、僕の首を絞めることをやめた。
彼女の問いかけは、僕の手から力を抜いた。
 




