決して剥がれぬ微笑の仮面1
◇
自然と、目が覚めた。時間はちょうど零時。ということは、今私がいるのはあの世界だ。こちら側に来てしまうと眠っていても目覚めてしまうのだろうかと思ったが、きっとそういうわけではなく、不安や恐れのせいという可能性が高い。
眠り続けていたら知らない間に人兎に殺されてしまいそうで、安心して寝てなどいられない。
ベッドから体を起こすと、私は外に出ようとして自分の格好を見下ろした。パジャマ姿で出るわけにはいかないと思うも、そもそも制服から着替えずに眠ってしまっていたらしい。
眠る前のことを思い出せる限り思い出してみる。学校帰りに紫苑先輩と食事をして、買い物をして、嬉しいような幸せなような気分で帰宅し、夜ご飯も食べずにベッドへ飛び込んだのだった。
胸の内で、お母さんに謝罪をする。せっかく作ってもらった夕飯を二日連続で食べられなかった。昨日は轢かれそうになり、精神的にも疲れていたからしょうがない。だけれど今日は遊び疲れて寝てしまった。母に対して申し訳なさと残念な気分でいっぱいになる。
それよりも、だ。私はぶんぶんと頭を左右に振った。とりあえず、家の中から外へ出た方が良い。
昨日の夜は家の中にひきこもり、人兎と遭遇することはなかった。しかし、人兎は家の中まで入ってくるのだ。安心してはいけない。
もし人兎が目の前に現れた時、安全なのは家の中よりも外のような気がする。家だと逃げ場が限られてしまうからだ。それに外ならば、能力者に遭遇して助けてもらえるという可能性もある。
能力が未だに分からない私は、とりあえず逃げるスキルを鍛えておいた方がいいだろう。
分からない、と言ったが、心当たりが無いわけではない。一つだけ、あれが能力だったのだろうと思い当たることがある。
車に轢かれそうになった時のことだ。確実に轢かれると思ったけれど、私は助かった。あれが奇跡でもなんでもなく、能力によるものだとしたら合点がいく。しかし何度試しても、能力は使えなかった。
自室を出て薄暗い階段を下りながら、何故使えないのだろう、と眉を寄せる。
朝学校に向かう時、家を出て「学校へワープ!」と心で叫んでみたが意味は無く。帰宅時に電車を下りた後「家へ!」と心で唱えてみるもやはり無意味で。
心で、ではなく本当に声に出さなければいけないのかとも思ったが、車に轢かれそうになった時は声を発していない。
いったい何がいけなかったのか分からず、やはりあの時のことはただの奇跡だったのではと思い直してしまいそうだ。
家の外に出て、私の視線は左右を何度か往復する。今立っている位置から左側に向かうと駅のある方向だ。右側の道は最近では使っていない。昔は小学校へ行くために通ったことを思い出す。
どちらに進もうか悩んでいると、唐突に響いた発砲音と重い落下音が私の肩を震わせた。まるでお化け屋敷の中にいる気分で、音がした右方をゆっくりと確認する。
人兎が、倒れていた。額から血を流して。
「――っ!」
悲鳴を上げかけて堪える。息をじっと殺して、人兎の傍に立った人の姿をじいっと見つめた。
逃げるか、建物の陰に隠れるか。私は後者を選び、忍び足で家の方へ行こうとして――。
「きゃあ!」
二発目の発砲音に耳を押さえて悲鳴を上げてしまった。確実に気付かれた。いや、恐らくもともと気付かれており、動くなという合図として発砲されたのだ。
近付いてくる足音から逃げるにも判断が遅すぎて、私は怯えたままそちらを見つめることしか出来なかった。
人兎を殺したということは、能力者。能力者は、理由も無く人を襲うなんてしないはずだ。必死にそう思い込んで、落ち着こうとする。
「お前……」
「えっ?」
街灯に照らされたのは、見覚えのある人だった。
金色に近い茶髪。それと似た色をしたカーディガンに、制服だと思われるネクタイ、ズボン。
人兎を撃ち殺した事実を鑑みれば、あの拳銃がモデルガンでないことは確かだ。鋭い目つきと手に握られている本物の銃に、私は肝を冷やされていた。
「あなたは……」
見上げる姿に既視感を覚えて記憶を遡っていたら、この青年と、駅でぶつかった人物が重なる。彼だ。
あの時も怖いと思ったが、彼は優しい人だった。警戒心を解こうとして、小さく深呼吸をした。
彼は、地面に向けていた拳銃を私へ向けた。解くことが出来なかった警戒心が更に溢れ出て、私の体を固まらせる。
「お前、高校生だよな?」
声が上手く出ず、頷きを返すことしか出来ない。黒い銃口から銃弾が放たれれば、私はあの人兎のようになってしまうのだ。
唾を飲み込んでも、一緒に恐怖を飲み込めることはなかった。
「お前が『ウサギ』か?」
そんなことを聞かれるなんて思っていなかったから、私は言葉を忘れたように何も言えなくなる。彼の目にこの反応がどう映ってしまったのか、考えれば考えるほど不安になっていく。
もし、図星だから黙ったのだと思われてしまっていたなら。彼は躊躇い無く、問答無用で引き金を引くだろう。
私は震える唇の隙間から、やっとのことで声を出した。
「わ、たし……自分の能力すら、分からない、です」
「はぁ?」
何言ってんだこいつ。面倒くさそうな彼の目が、そんな風に私を見ていた。それでも、その目に臆して黙り込むわけにはいかない。
「き、昨日ここに来た、ばかりで……いきなり、能力がどうとか『ウサギ』がどうとか言われて。一日経っても、自分の能力なんて分からなくて、どうしたらいいか……」
「おいおい、嘘を吐くならもっとまともな嘘を吐けよ」
「嘘なんかじゃないです!」
どう言えば信じてもらえるか、上手い言葉を見つけようとしたけれど、混乱しながら頭の引き出しを漁っても何も見つからない。そもそも、どうして能力者同士で争わなければならないのかよく分からなかった。
ふと月白さんの言葉を思い出す。人兎を倒すか逃げていればいい、と思っていたけれど、この世界から出ることを望む人は『ウサギ』という能力者を探しているのだった。
だからきっとこの人も、『ウサギ』を殺そうとして――。
「っ、私、本当に『ウサギ』じゃないです! 信じて下さい! お願い、殺さないで下さい!」
ようやくその考えに至った時、駄目だ、と叫びたくなった。嫌だ、死ねない。忘れたくないものがあるから、この世界で死ぬわけにはいかない。
私は道路に膝を突いて、彼に土下座をした。こんなことで信じてもらえるとは思えない。それでも、私は彼の優しさを信じたかった。
駅で少し関わっただけだが、彼は、優しい人だと思った。優しい人であってほしい、という願望かもしれない。
少し、しんとなる。ようやく聞こえたのは、呻り声に似た気だるげな嘆声だった。
「本っ当になにも知らねえんだな」
「ほ、本当です!」
「とりあえず殺さないでおいてやるよ。けどまあ、付いてこい」
ほっと落ち着く間すら与えられず、私は腕をぐいと引かれた。無理やり立たせられると、私は彼に、どこに向かうのかすら告げられないまま引っ張られる。
目的地を聞くべきか、聞かないべきか。悩んだ末に、余計な発言は慎むことにした。彼の気分を害して殺されてしまったらと思うと、迂闊に声を出すことすら出来ない。
「――俺は、この世界を出たくて『ウサギ』を探してんだ。『ウサギ』じゃねえって確証のある奴を協力者にしてたりもする。これからそいつとお前を会わせるつもりだ。多分殺されねえと思うから安心しろ」
「は、はあ……」




