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万有引力の法則5

     ◆


 ビスケットは、粉々に砕けた。


 退屈だったから、東雲に言われたことを自分の部屋で実践してみていた。物体を押し潰す。どうやらそれは、僕の能力で可能なことだったようだ。


 もちろん、粉々にして捨ててしまうのは勿体無いため、皿の上で実験した。


 東雲の言う通り、僕は重力と引力の大きさを自由に変えられるらしい。物体を浮かせる時はいつも無意識の内に重力の大きさを小さくしているのだろうか。科学が苦手な僕には詳しいことは分からない。


 では腕を折り曲げる時は、肘から上、肘から下、それぞれにかかる力の方向、大きさを操っている、ということになるのか?


 こういったことを考え始めると、頭が痛くなってくる。僕は勉強が嫌いだ。


 重力というのは確か、物体を地面の方へ引っ張る力、だったと記憶している。だとしたら力の働く方向は下だけ。その力を和らげれば物体を浮かせられ、力を増せば押し潰せる。厳密に言うと重力イコール物体の重さだから、その物体の重さを変えている、ということになるのだろう。重量をその物体の強度よりも重くすればそれは潰れる。


 引力は二つの物体間に働く、引き合う力。恐らく、傘を浮かせ東雲の方へ飛ばした時、僕は引力を操作したのだと思われる。


 ただ、重力や引力だけでは説明出来ない部分だってある。例えば、皿に立てたビスケットを左右から押し潰した場合。


 これに重力は関係していない。物体は一つだから、引力だって関係ない。


 僕の能力が『物体に作用している力を自由自在に変えられる』だったとすれば、説明は可能だろう。今ビスケットが左右から空気に潰されたのは、ビスケットにかかっていた圧力の大きさが変えられたからだ。


 物体は内側から外側に働く力と、外側からかけられる圧力の大きさがつりあうことで原型を保っている。外側からかかる力の方が大きくなれば押し潰される。授業では、人が深海に潜った時がよく例に出されていた。


 反対に、外側からかかる力が小さくなった時。内側から外側へ働く力が勝るから膨張する。菓子の袋を山頂へ持っていったらどうなるか、みたいな感じで習った。気圧が低くなるからどうとか、という説明を聞かされた気がする。


 自分の力を詳しく知ることで戦闘の幅が広がった。これでもう少しまともな戦い方が出来るだろう。東雲の話を聞けてよかった。


 携帯を取り出し、自分の能力を使って試してみたこと、分かったことをメールにまとめて送信する。向こう側で人兎を使って試すまでもない。


 少しして、携帯電話が振動した。


『普通の世界であまり能力を使わないように、と言ったじゃないですか』


 そんな、僕に対して呆れたような言葉から始まり、数行文章が続いている。


 試してみようと言われたことは試した。今夜僕と東雲は合流せず、互いに別行動をとることとなった。


 東雲は三日市と繊市側を、僕は弓張市を中心にして余裕があれば三日市も徘徊する。能力者を見つけた場合は互いに報告をする、という方針だ。


 十二時まではあと二時間くらいあった。粉になったビスケットを口に流し込む。


 未だに制服から着替えることすらしていない僕は、その二時間を睡眠に使うつもりで電気を消し、ベッドへ寝転んだ。目を閉じる。疲れているはずなのに、すぐに眠れない。


 時計の針の音だけが淡々と響く中、隣の部屋から紫土の怒鳴り声が聞こえてきた。


 デザイナーの仕事をしている紫土は、絵を描く事が好きだ。なのに納得のいく絵が描けないとすぐ一人で騒ぎ出す。物を壊すことなんて日常茶飯事だった。


 感情の起伏が激しいのは昔から何も変わらない。頭脳も運動能力もなにもかも僕より優れているが、精神年齢だけでは勝てる自信がある。


 鳴り続ける秒針の音にはっとさせられて、僕は思考を止めることにした。眠れないのはきっと何かを考えるからだ。せっかく取れる睡眠時間を減らしてしまうのは惜しい。


 余計なことは考えないようにして、ひたすら暗闇を見つめ続けた。


「――紫苑!」


 突然大きな音を立て扉が開け放たれた。もう少しで眠れたかもしれないと言うのに、起きることになりそうだ。


 しかしそら寝を貫いた僕は、すぐに起きれば良かったと悔やんだ。


「ぅぐっ……!」


 正気や理性はどこにやってしまったのか。紫土の手が容赦ない力で僕の首を締め付ける。その手を剥がそうと精一杯力を込めるが、意味が無い。


 爪を立てても紫土の手は全く動じなかった。痛覚があるのか聞きたいくらいだ。それとも僕の力がそれほどまでに弱いのだろうか。


 開けっ放しになった口が酸素を求めて喘ぐ。息が足りない。喉が、熱い。首に触れている紫土の手に焼かれているようだ。


「なあ紫苑、死んでくれよ」


 その言葉を聞いたのは何度目だっただろう。冗談ではなく本気の声柄。どこまでも暗い瞳は確かな殺意を僕に向けている。三日月のような口は狂気を隠す気すらない。


「駄目だ。紙でも布でも駄目なんだ」


「っ……」


 初めて紫土が僕を殺そうとした理由は、顔が気に入らないから、だった。紫土は母親が嫌いだったらしい。僕を見ていると母親を思い出すのだという。


 その次に殺されかけたのは、僕が彼を罵倒した時。次は彼が恋人と別れた時。その更に次は僕が絵画のコンクールで賞をもらった時。他にも何度かあったけれど、理由と原因が思い出せないくらい些細なことだったはずだ。


 今彼が殺そうとしているのは、人の皮膚というキャンバスが欲しいから。多分、そういうことだと感取していた。


「に、い、さん……」


 紫土の手を剥がすことが出来ないまま、僕は藻掻くように宙を掻いた。掠れた声が喉から飛び出して、どうしてその言葉を発したのかと、この状況では非常にどうでもいいことに疑問を持つ。


 紫土を兄と呼ぶことは、とっくにやめたはずなのに。


「おっと」


 ぱっと、紫土の手が離れた。僕は酸素を取り込んで、すぐに咳き込んだ。苦しい。頭がひどく痛む。


 胸元を押さえて、落ち着こうと深呼吸をする。しているつもりだが、上手く出来ている自信はなかった。早く空気を。そう急かされるように、僕の呼吸は乱れている。


「……危ない危ない、殺すところだった」


 状況を整理するように虹彩を回してから、おどけたように言ってみせる彼へふざけるなと怒鳴ってやりたい気分だった。何が殺すところだった、だ。殺す気だったくせに。


「いくらなんでも人殺しは良くないよね。大体お前がいなくなったら更につまらなくなるし飯も食えなくなるし、困ることだらけだな。ごめん紫苑」


 はははと笑うと、乱雑に僕の頭を撫でる。それが不愉快で、僕は彼の手を振り払った。


「子供扱い、しないでほしいんだけど……」


「だからさ、高校生は子供だって」


 これからここに居座るつもりなのか、紫土はベッドに腰掛けた。十二時前には出て行ってもらわないと困る。


「お前、そんな顔ばっかりしてたらいつまで経っても彼女も友達も出来ないよ? もっと笑いなって」


「人を殺そうとしてきたやつに、笑顔を振りまいてやれるほど……僕は善人じゃない」


 喋りたくないと思うくらい辛い。まだ呼吸を整えるので精一杯なのだから、話しかけてこないで欲しい。


 無視をすればいい。今更そのことに気が付いたが、そうする気がなかった。その理由は、思考を巡らせても見つけられない。


 それもそうだよなあ、と再び笑った紫土は、そのまま背中をベッドに倒した。彼が後ろに傾き始めた辺りで、僕は起き上がって足を引っ込めたため、被害はなかった。


「用が済んだならとっとと出て行ってくれる? なんで人のベッドで寝ようとしてるんだよ」


「この体勢で寝たら腰痛めるに決まってるだろ」


 上半身だけをベッドに倒して、足は曲がって床についている。確かに、腰を痛めるだろう。むしろそうしてもらいたい。ぎっくり腰にでもなって入院してしまえばいい。


「お前、本当に友達も恋人も出来ないのか?」


「お前には関係ないだろ」


「お前な」


「ちょっ――」


 体を起こしてこちらを向いたかと思うと、人の頬を摘まんで容赦なく伸ばしてくる。笑っている紫土に痛くするつもりはないのだろうが、正直とても痛い。


 普通に笑った彼を久しぶりに見たからか、僕はそのまま抵抗すらしなかった。


「兄に向かってお前とかあんたとかさ、最近口悪いんだよ。さっきみたいに兄さんって呼んでくれたらいいのに」


「嫌だね。さっきのは不可抗力だ」


「……俺も、さっきのは不可抗力だ。悪かった」


 本当に、彼は精神が不安定だ。僕から離した手をベッドに突くと、紫土は済まなそうな顔で僅かに項垂れた。


「俺を殺してくれたってよかったんだよ。お前の力でさ。なんでしないんだよ」


 しないのではなく出来ないのだ。正気を失った兄を前にすると、僕は怖くてたまらなくなる。能力を使おうと頭で考えられるほどの余裕が無くなる。


 この話から変えたくて、話題を考えた僕の頭には彼女が浮かんでいた。


「友達、出来たよ」


「はっ?」


「だから、友達が出来たって言ってるんだ」


 どうして、そんな顔をするのだろう。殺そうとしたくせに。僕をストレス発散の道具としか思っていないくせに。


 彼は、弟に友達が出来たことを心から喜んでいるような、そんな顔をして僕を見る。


「……そっか」


 ほっとしたような吐息が、彼らしくない優しい声が。ぽつり、と落ちた。


 僕は俯いて手を握り締めた。僕に嫌われたいのならどこまでも嫌われるような態度を取ればいいのに。僕をさんざん苦しめるくせに、どうして憎ませてくれないのだろう。


 喜ばないでほしい。そんな、『兄』みたいな顔をしないでほしい。


 僕にとってお前は兄じゃない。だってお前にとって僕は『弟』ではないじゃないか。


 そんな僕の心を見透かしたような声が、僕の耳を突き抜ける。


「お前、俺のこと嫌いだよね」


 聞かなくても分かるような問いに、けれど僕はしばし黙り込んだ。いつもの彼と別人のようで、本当のことを言ったら怒るのではなく単純に傷付いてしまうような雰囲気が、僕の口をなかなか開かせてくれない。


「嫌いだ」


 やっと声を出せた。嫌いなんていう子供でも知っている簡単な単語一つを口にするのに、どうして心はこんなに揺れるのか、不思議だった。


 嘘を吐いているわけではない。本当に、嫌いだ。


 紫土は、笑った。どうして笑うのか分からなかった。楽しそうな笑い声なのに、その顔は寂しげで、見ていられない。


「ま、仕方ないよな」


「あのさ、変な物でも拾い食いした? さっきから調子狂うんだけど」


「俺にも分からないんだよ」


 疲れたように、彼は額を押さえた。表情を窺えなくなる。もしかしたら、顔を見せたくないから手で隠したのかもしれない。


「気付くと、ああなんだ。気付いた時にはもう遅いんだ。俺はお前を傷付けてる」


「……へえ」


 相槌を打つつもりが、とても興味の無さそうな声になってしまった。


 興味が無いわけではない。ただ、被害を受けている側としては納得がいかない。無意識の内に傷付けているということはつまり、責められても困るということだろう。


 なら僕は、誰を責めればいい。少なくとも『今の』兄ではない気がする。


「二重人格かなにか?」


 ふざけて笑い飛ばすような僕の声。きっと『いつもの』兄だったら不快げに顔を歪めて激昂したと思われる。


 紫土は本当に彼らしくない顔で、真剣な目をして扉の方をじっと見ていた。もちろんそこにはなにもない。


「さあ、どうだろうね。疲れてるだけだと思うけど」


「ならとっとと寝なよ。だいたい、いつも迷惑なんだ、あの目覚まし時計」


 なんのことか分からない。そんな、疑問符を浮かべるような顔をされて、思わず舌打ちをした。それを紫土が咎めようと口を大きく開けたが、何かを言われる前に詰め寄った。


「目覚まし時計をかけるのは勝手だけど毎朝毎朝止められずに鳴り続けられると僕の目が覚めるんだよ」


「いいことじゃないか、早起き出来て。俺のおかげだね」


「お前な……」


 これに関しては反省の色を見せるつもりがないらしい。本当に良い事をしていると思っているみたいに笑っている。


 別に彼の目覚まし時計がなくても僕は自分でちゃんと起きられる。


「というか、お前の目覚まし時計だろ。お前が起きられなかったら意味ないじゃないか」


「優しい優しい弟が起こしてくれるかと思っているんだけど一回も起こしてくれたこと無いよな」


「何も言われてないんだから当たり前だよね」


 言われていたとしても面倒だから起こさないと思う。いや、起こさない方が後々更に面倒なことになりそうだ。


 もし次から起こせと言われたら仕方がないから起こすという選択肢を選ぶしかない。


「そういえば紫苑、いつも何時まで起きてるの? 早寝しないから背伸びないんだと思うけど」


「は? 背?」


 口角が引き攣った。むかつくと不自然な笑みが目顔に表れてしまう。微かな苛立ちをなんとか自分の中だけに留め、自然な微笑を湛えた。だが口からは刺々しい声が吐き出されていた。


「これ以上伸びなくていいよ別に。背が高いからってなに。身長の数値はなんの能力値でもないじゃないか」


「ああ、まあ、間違ってないけどさ」


 すっと紫土が立ち上がる。


「じゃ、俺はもう寝るよ。お前も早く寝なよ?」


「そっちこそ七時くらいに寝る習慣でも身に付けたら?」


 本気で言ったのだが軽口として笑い飛ばされる。紫土はそれからすぐに部屋を出て行った。


 時計を見てみたら、寝ようとした時間から三十分は経っていた。十二時まではあと一時間半。まだ寝られる時間はある。


 そこまで眠いわけではない。睡眠は最高の暇潰しだと僕は思っている。眠ることは好きだ。夢で嫌なことがあったとしてもそれは現実のものではなく、夢だと割り切れるから、何も気にする必要がない。


 布団を整え、体を横にしてもう一度目を閉じた。なかなか眠れない時は下らないことばかり考えてしまうものだ。今、僕の頭は本当につまらない考えで満たされていた。


 万有引力の法則は、人間の繋がりにも存在するのか。そんな、滑稽な思考。


 もし存在するのだとしたら、引力が自分と他人を引き付ける力で、重力が家族などの絆のことだろうか。


 人間は重力のせいで宙に浮けない。家族の絆は断ち切ろうとしてもどこかで繋がっている。そんな風に考えてしまうのは、僕が期待しているからかもしれない。


 ――期待。誰に、なにを?


 僕の意識は、そこで途切れた。


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