友達以上に左様なら
その美しい神は、経津主、といった。
透き通った銀に少し紫を混ぜたような色の髪はさらさらで、肌がとても白い。髪と肌の色素が薄いせいか、黒い目はやけに目立つ。
細くて華奢で、すらっとしている体型、身長は僕より高め、イワレヒコ様より低め。
まるで感情がなさそうに見えるくらい、その神の表情は変わらない。
その神のかつての名は、フツミタマ。
僕が、天からお預かりした、由緒ある剣だ。
「高倉下」
僕を呼んだのは、我らが主、神倭伊波礼彦。端整な顔立ちに、黒衣を纏うその御方。
すでに引退済みで、ここ芦原中つ国の統治はご子孫に任せている。
すでに前線を退いた僕らは、のんびりと中つ国で暮らしている。
「若様、何でしょうか?」
イワレヒコ様――僕が若様と呼ぶその御方は、視力を矯正するレンズとかいうものを顔に装着している。別に、若様は目が悪いわけじゃない。むしろいい。
若様はにこにこしながら、僕を手招きなさる。僕は首をかしげながら、若様の御許へと歩み寄った。
若様のお屋敷はいたって平坦で質素。仮にも、初代という畏れおおい御方なのだから、もう少し威張って豪華でもいいと思うのに。
若様は、「これがいちばんしっくりくるからね」と答えられた。
そのお屋敷の、客間に、僕と若様はいる。
僕は客間のお掃除をしていた。若様がそんな折、客間においでになった。
「うん。ちょっと話があるんだ。掃除はその辺にして、まずはフツにお茶をお願いして」
「はい。あの、お茶なら僕が淹れますよ? フツさんは、まだお庭のお手入れをしていますし」
「あっそ。じゃ、呼んで。庭の手入れなら五十鈴に頼むから」
若様はあっさりとそう返された。僕は思わずじとっ、とにらむ。
「……若様、ご自分の奥方様を何だとお思いなんですか」
「私のいとしい妻だよ。あの子は土いじり好きだから、喜ぶよ。最近、フツに仕事とられてすねてるから、ちょうどいいんじゃないかな」
「分かりましたよ……。フツさん呼んできます」
僕はため息をついて、若様の仰せの通りに動く。庭に散った枯れ葉をかき集めていたフツさんに声をかけ、客間におわす若様にお茶を、とお願いする。
ひとつうなずいたフツさんは、枯れ葉をそのままに、手を洗ってお屋敷の中へ消えていった。
フツさんは、とても冷たい。その細い手に触ると冷たいし、表情もなんだか冷たい。
それもそのはず。フツさんは、剣だったんだから。
心が、つめたいんだ。
僕が客間に戻ってくるころには、フツさんが若様にお茶をお出しして、客間から去ろうとしているところだった。やっぱり、フツさんは仕事が早い。
「あ、おかえり、高倉」
「はい。……それで、お話というのは? 内密なものですか?」
「んー、特に秘密にしておきたいわけじゃないけどね。いずれ皆に伝えることだし。ただね、高倉には先に伝えておきたくてね」
「はぁ……で、どんなお話ですか」
若様は、フツさんが客間からいなくなるのを確認されてから、お話をはじめられた。
「実はね、フツの今後のことなんだ」
僕は、どきっとした。
若様が即位なされて少し経ったあと、フツミタマの剣はいきなり人の形に成った。その人の形になったのがフツさん。
つまり、フツさんは剣から神に『成った』。
剣から人の形に成ったフツさんは、その感覚に慣れるまで三年くらいかかっていた。
その時間の中で、若様はフツさんにあらゆることを叩き込まれた。
剣技や武術は若様が、炊事洗濯お掃除は五十鈴様が、その他の雑務は僕が、フツさんに教えた。
今やフツさんは、どこに出しても恥ずかしくないくらい、万能な従者になった。
そのフツさんのお話というのは、何なんだろう。
僕は、天からフツさんをお預かりした事情もあってか、フツさんのことを常に気にかけていた。……ただならぬ恋情みたいなものを抱いているふしも、あるにはある。それが恋情なのか違うかは全く分からないけれど。ただ、とりあえず『恋情』とつけているだけ。
もしかしたら友情かもしれないし、兄弟愛かもしれない。
「フツさん、をどうするおつもりなんですか」
「そう固くならなくていい。別に追い出すとか嫁を取らせるとかそういうのはないから」
そう一言、若様はお茶をすすられる。うん、とうなずかれた。
「やっぱり、フツのお茶はいいよねえ。一度飲んだら、もう高倉のは飲みたくなくなる」
「余計なお世話ですよ……。もう、肝心の話題からどんどんずれてってるじゃないですか」
「ああ、ごめんごめん」
若様は苦笑なさる。そして、急に大人びた微笑を浮かべられ、僕にお伝えなさった。
「フツをね、高天原へ帰そうと思うんだ」
レンズ越しのその目は、穏やかだった。
高天原。若様のご先祖様である天照大御神様方がおわす場所。そして、フツさんを僕に寄越された場所。僕にとっては、憧れに近い場所でもある。
「高天原へ?」
「そ。あちらの神々とも相談してね、受け入れてくださるとのことだったよ。フツは優秀だから、どんな仕事もそつなくこなすだろうし、そういう心配もない。フツミタマではなく、経津主としての感覚にもだいぶ慣れてきた。ちょうどいい頃合いだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。若様は、最初からフツさんを天にお返しするおつもりで、フツさんを指導されたのですか!」
僕は、ついむきになってしまう。それでもさすがは若様、困ったように完璧な微笑みを浮かべられるだけ。
「まさか。最初は、人の形に成った彼を立派に教育して、長く私に付き添ってくれればと、そう思っていたよ」
「なら、どうして急に天へ御返しすると御考え直しに?」
若様は、レンズを顔から外された。
「フツはね、高天原に帰りたがっているんだ」
その御言葉の根拠が、僕にはすぐにわかった。
僕は、つばを飲み込んで、お尋ねする。
「若様、ひょっとして……『視た』んですか」
「うん。視た」
若様は、あっさり答えられた。
若様がレンズで目を矯正されているのは、目が悪いからではない。
その目が、普通の人には見えないものが映ってしまうからだ。
何が映るかというと、そのひとの心のようなものだ、と若様は仰せだった。
その人の心が、ぼんやりと、色や雰囲気で現れるらしい。
そういうものを始終見ていると目が疲れて吐き気もひどくなるから、レンズでわざと目を覆って、心を視えなくしている、ということだ。
それに、若様はそういうものが視えるという力を、なるべく避けたがる。だからレンズを外されるなんてことはめったにない。
その若様が、フツさんを、『視た』のだ。
「若様御自らが、『視る』なんて、珍しいですね」
「フツは表情をまるっきり崩さないからね。時々何を考えているのかわからなくて怖くなる。だから、悪いとは思いながら、レンズを外して視てみたんだ。そしたらね」
若様は、お茶を一口飲まれた。
「強烈に視えたんだ。とてつもなく強い、望郷の心をね」
「フツさんは、高天原へ帰りたいんですか?」
「そう。もうフツも一人前に人の形に慣れてきたし、ちょうどいいからと思ってね。準備が整えば、次の望月の日あたりにはと思っているよ」
「そう、でしたか」
「うん。そういうわけだからね。君はフツのよき友人だった。フツもまた、君を信頼していた。だから、君には一足先に、伝えておこうと思ってね」
「え」
僕は間抜けた声を出してしまった。
僕は、フツさんのことを大切な友達だと思ってる。
高天原からお預かりしたというご縁もあり、フツさんとの関係はきっと運命みたいなものだと、勝手ながらに思っていた。
でもそれはあくまで僕にとってのフツさんであって、フツさんにとっての僕は必ずしも同じとは思っていなかった。
だけど、いや、だからだ、若様から受けたお言葉が、意外だと思えてならなかった。
表情変えない、冷たげなフツさんが、僕と同じように、僕を友達だと思っていたなんて。
「若様、ひょっとして何度もフツさん『視た』んじゃないですか?」
「そんなに濫用しないよ。というか、それくらいは視なくてもわかるよ。なんとなくね」
若様はそう仰せになる。
「うん。そういうことだから。フツを大切に思っていた君にはとても寂しいことだと思うけれど」
「……いえ。バカにしないでください。若様が視られたというのなら、フツさんが帰りたがってるのは本当でしょう。だったら、僕はフツさんの気持ちを大切にします。わがまま言って、中つ国に引き止めるなんて幼稚なことはしません」
僕は、はっきりとそう答えた。
仮にも初代に向ける言葉に、偽りなどない。
若様は、僕の頭を撫でられた。
「いつの間にか大人になってたんだねえ、高倉。いいこいいこ」
「そうお思いなら頭撫でないでください!」
「いいこいいこ」
「若様っ」
フツさんの里帰りの日は、もう来てしまった。
その身一つとわずかのナイフをひっさげ、フツさんは高天原への入口へと立っている。
お見送りは、僕のほかには若様と五十鈴様。ほかの者たちは、お屋敷でお留守番。
フツさんも、早いうちに、若様から自分が高天原へ帰されることを知らされていたらしい。フツさん本人はここにとどまりたいと言わなかった。若様に諭され、「イワレヒコ様の仰せのままに」と従った。
別に、本心に背いて従ったわけじゃないのは僕にもわかる。感情をまるで表に出さないフツさんが、僕にはとてもうれしそうに見えたのだ。
寂しいけど、悲しいけど、僕は笑って見送ると決めていた。泣き顔を見せたところでフツさんの感情が揺れるわけではないけれど、
これは僕の矜持のようなものだった。泣いてたまるか、なんて。
「高倉」
フツさんが、僕の方を向いた。
「ぁ、な、なに、フツさん?」
フツさんは、わずかに笑った――ように見えた。
「左様なら」
そう僕に告げて、高天原へと歩いて行った。
もうこちらを振り向かない。こちらに未練などないように。
僕のことも、若様や五十鈴様のことさえも、あっさりと断ち切って、高天原へと、
帰ってしまった。
自然、ぼろぼろと涙がこぼれてきた。
僕は、友達と長い長い間、気の遠くなるくらい長い、お別れをしたんだ。
「……よく頑張ったね、高倉。えらいよ」
若様が、僕を抱き寄せられる。
フツさんがいなくなって安心したんだろうか。こらえていた感情が、一気にあふれ出て止められない。
こういう時、止まらないなら収まるまでぶちまけてしまえばいい。若様は、そう仰せになっていた。
「わか、さま」
「友達、だったもんね。寂しいね」
「……いいんです、これで。フツさん、は、それを、のぞんで、いた、から」
「そうだね。フツの気持ちは、きっと君には変えられないだろうね。……もちろん、私にも」
柄にもなく、僕は若様の胸をお借りして、わんわん泣きわめいた。
泣いたのって、いつ以来だろう。
フツさんの友達としてふさわしくありたくて、意地を張って泣くことをずいぶんとこらえていた気がする。
僕は、フツさんの友達だ。
でも、フツさんの友達でしかなかった。フツさんの友達に過ぎなかった。
それがどうして、こんなに苦しいんだろう。悲しいんだろう。悔しいんだろう。
「高倉……」
「ぼく、ぼくでは、フツさんの、ともだち、いじょうには、なれなか、った……。フツさんは、ぼくが友達、でしか、なかった……」
「……うん。つらいね」
僕は、幼稚なわがままでフツさんを困らせればよかったんだろうか。そしたら、フツさんはずっとここにいてくれたんだろうか。
大人ぶって、理解ある友人を演じた自分が、果たしてよかったんだろうか。正しくはあっても、よかったのかはわからない。
何にせよ、僕は友達――もしかしたらそれ以上に思っていたフツさんが離れていくのを、受け入れた。
お別れが、こんなに寂しいなんて思わなかった。
「高倉、ゆっくり、その気持ちをととのえようね」
若様のお言葉や御手が優しくて、僕はよけいに涙が止まらなかった。
高倉下さんは経津主さんのご友人だったらいいなあ、お互い理解者で、信頼しあってたらいいなあという夢想から生まれた産物です。