たった一人の戦争 ――孤立、無援。
――その男は異様な出で立ちだった。
上半身は色あせたTシャツ、下半身などただの下着一つ。
そんな身を守るにはあまりにも頼りない姿でありながら、しかし男は戦場に赴く兵士のような顔つきで、ただ気を静めていた。
そう、戦場。
彼がこれから赴く場所は、確かに戦場だった。
幾百もの敵がひしめき、その領土を増やさんと今も侵攻を続けている。彼の任務は、彼らの行動を遮り、その進行を食い止め、――可能であれば、殲滅すること。
そんな戦場に赴くには、彼の格好はあまりにも無防備すぎただろう。
しかし彼の顔には悲壮な所など何一つない。それどころか、微笑みすらしている。もしその場に誰かがいて、その装備で心もとなくないかと彼に問いただしたなら、きっと彼はにやりと笑ってこう答えただろう。
「なぁに、これだけで十分さ」
彼は己の額に当てていたゴーグルを降ろし、その目を覆った。
かつて彼とともに戦場を駆け抜けたそれ。長い闘いの歴史の中で少なくない数の傷を負ったそのゴーグルは、むしろその視界を遮るほどに曇っていた。
だが彼が指でカツカツと叩くと、その固くも柔らかい独特の感触を指先に伝えてくる。それが彼にはこう言っているように聞こえるのだ。――曰く、俺はまだ現役だ、と。
それが伝わってきた瞬間、彼は少しだけ微笑む。たった一人の軍隊だが、確かに仲間はいる。それが妙に気恥ずかしかった。
その奇妙な高揚感を保ったまま、彼は己の足もとにおいておいた得物を持ち上げ、手でしっかりと持つ。右手と左手、それぞれに同じものが一つずつ。それが、今回の彼の主兵装であると同時に、彼が用意した秘密兵器だった。
実は彼は以前これを一度だけ使用したことがある。確かに敵軍に対してそれなりに効果があったのだが――いかんせん、弾切れが早かった。結局その戦いは辛くも勝利したとはいえ、苦い経験として彼の記憶に留まることになったのである。
しかし人は学習する。
彼がたどり着いた答えは至極簡単。つまり――1つで駄目なら、2つで。
何所までも安直な考えである。しかし、故にこそ理があった。
彼はずっしりとくる得物を2、3振る。その重みが、妙に心地よい。
――もはや、恐れる物など何もない。
彼はただ満足げに頷く。なるほど、確かにこの装備だけで十分なようであった。
ドアに手をかける。その先は既に戦場。一歩踏み出しただけで敵軍に接触するだろう。
敵軍は強大だ。その規模は凄まじく、決して尽きる事のない増員が後に控えている。その姿はまさしく無限の軍勢とも言える程だった。
その敵を倒しきることは事実上不可能。
多くの人がそう声を上げる。だが、彼はそれでも笑った。それがどうした、と。
「Hasta la vista , Baby(ハスタラビスタ、ベイベー)」
彼は、その言葉を皮切りに。
――戦場へと、足を踏み入れた。
「ふー、終わった終わった」
「お帰り」
彼が居間に戻ると、その姉が一人でコタツを占拠しながらテレビを見ているところだった。コタツにみかん。今じゃ影をひそめてしまった、正しい日本の冬スタイルである。
そのあまりにもやる気のない姿に彼のこめかみに少し青筋が立ったが、それに気付く人間は誰もいなかった。
「あれ、あんたパンツ一丁で風呂掃除してたんじゃないの? 服着てるけど」
「……予想以上にぬれたから、着替えてきた」
少しだけテレビから目線を外してこちらを見た姉が、呆れたようにそう言って来る。
今の彼の恰好は普通のシャツとズボン。さっきまで着ていたTシャツとパンツは、洗濯かごの中に放り込んで来た。
すでに年の瀬が迫ったこの季節。新年を迎えるにあたり、出来る限り汚れを落とした方がいい。いわゆる、大掃除だ。この家でも、それは例外ではなかった。
先ほどまで彼が取りかかっていたのは風呂掃除。あちこちに巣くっているカビや水垢と格闘することしばし、冬の気温にすっかり体が冷えて来た頃、ようやく一区切りがついた。
本来、こんな時間がかかる予定ではなかった。その理由は彼が使った洗剤。泡で汚れを落とす変わり種の浴室洗剤で、「ボクたち働く、あなた楽する」というフレーズと奇妙なキャラクターで有名なアレである。
確かにそれを使うと浴室全体がきれいになるのだが……いかんせん、量が足りない。前回、1本しか用意しなかったため歯がゆい思いをした彼は、万全の準備を、ということで2本用意してきた。が、それでも結局は足りなかったのである。最後の方は普通に風呂掃除をする羽目になってしまった。ついでに言えば、カビは落ち切っていない。
どうやらまだこの洗剤を使うには研究が必要だ、というのが彼の結論である。
ちなみにこの洗剤、高いところにスプレーする時は自分に振りかかることがあるので、なるべくゴーグルをしてやったほうがいい。
「ふーん」
姉は自分から聞いてきたくせに、全く興味が無さそうだった。相変わらずコタツに足を、いやさ体を突っ込んでのんきにみかんを食べている。目線は当然テレビ。完全に自堕落モードだった。
大掃除とは掃除であると同時に、季節のイベントでもある。年内の汚れを落とすことで家の邪気を払い、かつ家族が苦楽を共にして絆を深める……のではないかと、彼は勝手に思っている。
そこに来て、我が姉は……と怒りすら湧いてくるが、すぐにかぶりを振る。元々、この姉はこういう人間なのだ。言ったところで仕方がないのだろう。
――風呂掃除は終わった。さて、次は何所を掃除するべきか。
ひとまず姉の事は置いておいて、彼は今後の予定を考える。大掃除にはコツがいる。出来る限り効率的に掃除していかなければ、年が明けても終わらない。
自分の部屋は最悪後回しでもいい。彼はこの家で唯一の男手。となれば、高いところか重たいもの――。
「ねぇ、そこに突っ立ってるだけならお茶入れてよ。熱いヤツ」
――だけど、ひとまずそれはキャンセル。まずはこの暴君に貢物。
「……はぁ」
頭の中に浮かんでいた今後のプランをいったん破棄し、ため息をつく。姉はそれを了解と受け取ったのか、すでにその意識をテレビへと戻していた。
彼はもう、いろいろと諦めている。こんな姉でもやる時はやるし、尊敬もしている。こうした人間と付き合って行くには、適度の諦めが肝心なのだ。
そんなある種悟ったような心境のまま、姉に背を向けて台所へと向かう。冷たい廊下が足からやる気を奪って行くが、それでも彼は進むしかなかった。
やかんに水を入れてコンロにのせ、つまみをひねる。カチカチと電気が走る音がしばらく続いた後、ボっと青い炎が灯った。絶え間なく燃え続けるガスは、見ていて少し面白い。
そのまましばし、彼は湯がわくまでのやかんを見つめていた。やかんの口から徐々に湧きあがってくる、熱い蒸気。何の気なしにそれを目で追って行くと、そこには油でギトギトになった換気扇が――。
「……次はそこか……」
そこはある意味、大掃除のラスボス。油とほこりにまみれたそれは素手で触ることすら難しく、簡単には殲滅できない。ここを掃除するなら、まずは重曹という兵器がいる。
彼が身命をかける兵士の顔になった瞬間、ピー!! という激しい音が鳴り響く。いつの間にか、やかんからは激しい蒸気が噴き出していた。――それは、新たな戦を告げる笛の音。
そして彼は、再び戦場へと赴く。援軍のない、孤立無援の戦いへと。
「そんな装備で大丈夫か?」
「大丈夫だ、問題ない……多分」
えー、どうも作者です。こちらでの投稿はかなり久しぶりになります。
年の瀬が迫る中、皆様はどのようにお過ごしでしょうか。
大掃除、やらなきゃいけないんですよね。
そんなこんなでぽっと書いた(ほぼ)ノンフィクションな小説もどきです。
お目汚しいたしました。
普段はブログの方で小説描いたりのんびりしたりしていますので、もし興味があればどうぞ。
それでは皆さま、よいお年を。失礼します。




