離婚するなら身一つで出ていけと言われましたが、「屋敷」のほうが私についてきました
「離婚してください」
私がそう告げると、夫は満足そうに笑った。
「ようやくその気になったか」
夫の隣には愛人がいた。私たち夫婦の寝台に腰掛け、勝ち誇った顔でこちらを見ている。
夫がこの女を屋敷に連れ込んだのは、ひと月ほど前のことだ。
最初は客人だと言い張っていたが、今では私の寝室まで我が物顔で使っている。夫も咎めるどころか、好きにさせていた。
私が離婚を申し出るのを、待っていたのだ。
この国の貴族社会では、離婚を申し出た側が金銭面で不利になる。夫は自分から離婚を切り出さず、私が音を上げるのを待っていた。
しかも、明日には客を招き、愛人を新しい女主人として披露するつもりらしい。
花も料理も、すでに手配されている。屋敷の帳簿を管理しているのは私なのだから、知らないはずがなかった。
もっとも、夫は私がそこまで知っているとは思っていないようだ。
「では、こちらに署名しろ」
夫は用意していた離婚の書類を差し出した。私は内容を確認し、署名した。
「これでよろしいですか?」
「ああ。だが、ひとつ言っておく」
夫は椅子にふんぞり返り、いかにも寛大な条件を提示してやるという顔をした。
「離婚するなら、身一つで出ていけ」
「身一つ、ですか?」
「当然だろう。自分から離婚を望んだ以上、屋敷も家具も、すべて置いていくのが社交界の作法だ」
夫は部屋を見回した。
「そもそも、これほど立派な屋敷がお前に必要なはずもない。今後は私と彼女が使ってやる」
……使ってやる、か。
曲がりなりにも数秒前まで自分の夫だった相手だが、さすがに呆れた。
何を隠そう、この屋敷は私が嫁入りの際に「持ち込んだもの」である。
大理石の広間に、何十もの客室。図書室、温室、大食堂まで備えた豪華な屋敷。
夫は結婚以来、この屋敷をたいそう気に入っていた。だからこそ、なんとしても手放したくないのだろう。
「……わかりました。そこまでおっしゃるなら、お好きにどうぞ。私からはなにも干渉する気はありません」
「ふん。聞き分けがよくて結構」
夫は鼻で笑った。愛人も、ようやく邪魔者が消えるとでも言いたげに微笑んでいる。
「明日は大切な客が来る。今夜中に出ていけよ」
「ええ。そういたします」
私は一礼して、寝室を出た。
階段を下りると、使用人たちが待っていた。
「奥様、本当にお出になるのですか?」
侍女長が心配そうに尋ねる。
「ええ。離婚が決まりましたから」
「でしたら、私どももご一緒いたします」
執事が即答した。ほかの使用人たちも、揃って頷いた。
夫は以前から使用人に対して横暴だった。怒鳴り散らすことも珍しくなく、最近では愛人まで彼らを召使い以下のものとして扱うようになっていた。
すでに皆、愛想を尽かしていたらしい。
「ありがとう。では、皆で参りましょう」
「はい。お荷物をお運びいたします」
「その必要はありませんわ」
「え? ですが、奥様のお召し物などは……」
「大丈夫です」
私は玄関の扉を開けた。
外はよく晴れていた。旅立ちにはちょうどよい天気だ。
私は玄関の柱に手を添え、静かに呼びかけた。
「さあ、引っ越しましょう」
次の瞬間。
ゴゴゴゴゴゴッ!
屋敷全体が、大きく揺れた。
「きゃあっ!」
「な、何事ですか!?」
使用人たちが悲鳴を上げる。窓が鳴り、床が震え、壁の燭台が一斉に揺れた。
そして。
地面から、巨大な脚が伸びた。
一本。
二本。
三本。
四本。
屋敷の四隅から現れた太い脚が、ゆっくりと地面を踏みしめる。
ズシン!
屋敷が立ち上がった。
「…………え?」
執事が口を開けたまま固まっている。
無理もない。
何しろ、豪華な三階建ての屋敷が、四本の脚で立っているのだから。
そのとき、二階から夫の怒鳴り声が響いた。
「何だ、この揺れは! 誰か! 誰か来い!」
続いて、愛人の悲鳴が聞こえた。
「いやあああっ! 寝台が! 寝台が動いてる!」
二階の大きな窓が、勢いよく開いた。
そこから滑り出してきたのは、天蓋付きの寝台だった。
夫と愛人が乗ったまま、寝台がずるずると窓から押し出されていく。
「おい! 止めろ! 何をする!」
「落ちる! 落ちちゃうわ!」
寝台はそのまま庭へ滑り出し、芝生の上にどすんと着地した。
二人は寝台の上で抱き合い、呆然としていた。
さらに、二階の窓から次々と物が飛んできた。
夫の上着。愛人のドレス。靴に帽子に、下着まで。
それらが庭へ降り注ぎ、寝台の周囲に山を作る。
「な、何なのよ、これは!」
愛人が叫んだ。
屋敷から返事はない。ただ、二階の窓がぴしゃりと閉まった。
どうやら、あの二人の荷物はすべて出し終えたらしい。
「奥様……これは、いったい……」
執事が震える声で尋ねた。
「あら? そういえば、みんなには言ってなかったかしら。実はこのお屋敷、私の祖母が結婚祝いにとプレゼントしてくれたものなの」
「は、はあ……?」
そう。加えて、祖母は魔女だった。
性格が悪いとかそういう話ではなく、本物の魔女だ。
嫁入りの支度をしていたころ、祖母は私にこう言った。
『嫌になったら帰っておいで。家ごと』
あのときは、ずいぶん妙なことを言うものだと思った。けれど、祖母は冗談を言っていたわけではない。
まさしく、言葉どおりの意味だったのである。
「まあ。祖母は少し変わっている人だから」
「少し、でございますか……?」
執事は屋敷の脚を見下ろし、何とも言えない顔をした。
その間にも、屋敷はゆっくりと歩き始めていた。
ズシン。
ズシン。
食器棚が揺れ、皿がかちゃかちゃと音を立てる。
「おっと、危ない!」
料理人が慌てて食器棚を押さえた。侍女たちも棚や花瓶を支えに走る。
最初こそ驚いていた使用人たちだったが、庭に放り出された夫の姿を見ると、とうとう笑い出した。
「あはははっ! 旦那様が!」
「本当に置いていかれちゃった!」
「奥様、私、このお屋敷が大好きになりました!」
誰かがそう叫ぶと、皆が声を上げて笑った。
屋敷は門の前まで来ると、ひょいと前脚を持ち上げた。そして、立派な鉄の門を軽々とまたいだ。
あとは街道へ出るだけだ。
「おい! 待て!」
背後から夫の声が聞こえた。
振り返ると、夫が厩舎から馬を引き出し、こちらへ駆けてくるところだった。
どうやら、ようやく状況を理解したらしい。
「待てと言っている! その屋敷をどこへ持っていくつもりだ!」
私は階段を上がり、二階の窓を開けた。
「実家へ帰ろうと思いまして」
「ふざけるな! 屋敷は置いていけと言っただろう!」
「ええ。ですから、私は身一つで出ようとしましたわ。家がついてくるのは、家の都合です」
「そんな理屈があるか!」
夫は真っ赤になって怒鳴った。
「なんでもいいから止まれ! お前が建てた屋敷だろう! なんとかするんだ!」
「そう言われましても、この子が私の命令を聞いてくれるとは限りませんし」
……というのはもちろん嘘である。
この子は私が命じればきちんと止まる。進行方向や移動速度についても、私の意思を尊重してくれるようになっている。祖母がそういう術式を組んだ。
つまり、止めようと思えば止められるのだ。
まあ、止める理由がないのだけれど。
「くそっ! かくなる上は……!」
夫は馬を走らせ、屋敷の横に並んだ。そして鞍から飛び降りると、地面から浮いた玄関へしがみつくように取りついた。
「おい、開けろ! 主のお帰りだぞ!」
鍵のかかった扉を、夫がガチャガチャと揺さぶる……だが。
バンッ!
その瞬間、まるで五月蠅いコバエでも払うかのように、勢いよく開いた扉が夫を弾き飛ばした。
「ほげぶっ!」
高々と宙を舞い、地面に叩きつけられる夫の身体。彼はそのまま雑草まみれになりながらゴロゴロと原っぱを転げ回ると、最後には先ほど乗り捨てた馬に脇腹を踏まれていた。
痛そう……。
邪魔者が消えたことを確認した扉が、ぱたんと閉じる。
どうやらこの屋敷も、新しい主人を迎えるつもりはないらしい。
「では、ごきげんよう」
私は窓を閉めた。
屋敷は何事もなかったように街道を進んでいく。ズシン、ズシンと規則正しい足音が響く。
窓の外では、夫がまだ何か叫んでいた。けれど、その声も次第に遠ざかっていった。
私はようやく、肩の力を抜いた。
結婚して以来、こんなに晴れやかな気分になったのは初めてだった。
◇
翌日。
夫が招いた客たちは、屋敷のあった場所に到着して言葉を失った。
昨日までそこに建っていた豪華な屋敷が、跡形もなく消えていたのだ。
あるのは、広々とした更地。
その真ん中に、ぽつんと置かれた天蓋付きの寝台。
そして、寝台に腰掛けて怒り狂っている愛人と、頭を抱えた夫だけだった。
「あの、これはいったい……お屋敷は?」
招待客の一人が尋ねた。
夫は答えられなかった。
答えようがなかった。
何しろ、妻に離婚を申し出させ、身一つで出ていけと命じたところ、屋敷まで一緒に出ていってしまったのだから。
しかも、使用人たちまで全員ついていった。
この話は、あっという間に社交界へ広まった。そこから街へ、酒場へ、市場へと伝わっていく。
『愛人を作って妻を追い出そうとしたら、文字通り屋敷ごと出ていかれたアホ貴族がいるらしい』
夫はたちまち笑いものになった。
更地に残された夫が悔しさのあまり地面を叩いていたことも、しっかり目撃されていたという。
◇
さて、一方そのころの私はというと。
「ふぅ。良い心地ね」
屋敷の脚を止め、二階の食堂から夕暮れの海を眺めている。
窓の外には、どこまでも青い海が広がっていた。
波の音が聞こえる。潮風が心地よい。
夫は旅行が嫌いだった。
どこかへ出かけたいと言うたび、面倒だ、金の無駄だと却下された。特に海には、何度頼んでも連れてきてもらえなかった。
それが今では、こんなに簡単に来られる。
しかも、住み慣れた我が家のままで。
「奥様、お料理ができました」
料理人が、焼きたての魚料理を運んできた。香草とバターの香りが食堂に広がる。
テーブルには焼きたてのパンと温かいスープ、それに冷えた白ワインまで用意されていた。
使用人たちも、すっかり新しい暮らしを楽しんでいる。
侍女たちは昼間、浜辺で貝殻を拾っていたし、執事は海を眺めながら、こんなに気持ちのよい場所があるとは知らなかったと感激していた。
「素晴らしい景色ですね、奥様」
「ええ。本当に」
私はワインをひと口飲み、海に沈む夕日を眺めた。
夫と暮らしていたころには、考えられなかったほど穏やかな時間だった。
「ところで、奥様」
料理人が尋ねた。
「明日はどちらへ向かわれるのですか?」
「そうねえ……」
私はテーブルの上に地図を広げた。
海沿いには、まだ訪れたことのない街がいくつもある。山の向こうには温泉地があり、南へ向かえば一年中花が咲くという地方もあるらしい。
このまま真っすぐ実家に帰ってもいいけど、せっかくの自由な旅路だ。
どこかへ寄り道しながらというのも悪くない。
そう考えていると、屋敷がぐらりと揺れた。
「あら?」
窓から外を見る。
屋敷は、四本の脚のうち一本を、待ちきれないとでも言いたげに持ち上げていた。
私は思わず笑ってしまった。
「まあまあ。そんなに急がなくても大丈夫よ」
持ち上がった脚が、ゆっくりと地面に戻る。
「これからは、好きなところへ行けるんですもの」
私は地図に目を戻した。
「さあ、明日はどこへ行きましょうか」
屋敷が、嬉しそうに一度だけ揺れた。
好きです……ハ○ルの動く城。
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