「洗濯臭い女はいらない」と婚約破棄されましたが、ハズレギフト『一枚乾燥』で騎士団長に拾われました
江南女子高等学校3年E組・異世界転生シリーズ、第2弾です。
今回の主人公は、高瀬莉央――転生後は洗濯職人のレオナ。
与えられたギフトは、30分に一度だけ布を一枚乾かせる『一枚乾燥』。
どう考えても地味(笑)
そんなギフトが、ある騎士団長との出会いによって思わぬ形で役立つことになります。
婚約破棄から始まる、ちょっと距離近めの異世界恋愛です。
楽しんでいただけたら嬉しいです(#^.^#)
私はレオナ。前世の名前は、高瀬莉央。
元々は、江南女子高等学校3年E組の生徒だった。
森羅万象の創造主様が誤って作ってしまった『次元の狭間』に、教室にいた30人がまとめて飲み込まれたらしい。
そして、異世界に転生させられて、気づけば23歳。
今はルシェリアという王国の王都で、洗濯職人として働いている。
この世界ではごく普通の平民の娘で、持っているギフトも、30分に一度だけ布を一枚乾かせる『一枚乾燥』という、なんとも微妙なものだ。
あの創造主、絶対にスキルを作るセンスない……!
それでも暮らしは平穏だった。
幼い頃からずっと一緒に育ったユーゴという婚約者もいて、このまま彼と結婚し、変わらない毎日を送っていくのだと――私はずっと、そう思っていた。
「婚約を解消してほしい。俺、マリエルと結婚することにしたんだ」
ユーゴがそんなことを言い出した時、隣には当然のように私の妹が座っていた。
どうやら二人がそういう関係になったのは、半年も前らしい。
半年。
その間、私はこいつのシャツを洗っていた。破れた靴下を縫い、好きだと言っていた料理まで作り、結婚した後の生活のために少しずつ貯金までしていた。
我ながら、ずいぶん間抜けだ。
「お前、仕事ばっかりだろ。手も荒れてるし、いつも石鹸とか濡れた布の匂いがする。それに俺も商会でそれなりの立場になったんだ。洗剤臭いっていうの? なんか年寄りみたいな匂いすんだよね、お前」
そこまで言われると、悲しいより腹が立った。
横ではマリエルが申し訳なさそうな顔をしている。
「お姉ちゃんは仕事が好きだからいいでしょう? 私はユーゴを支えたいの。毎日洗濯ばかりして生きるのは、私には無理だけど」
洗濯ばかりだと?
この子の服までずっと私が洗っていたのに。
「分かった……」
そう言って立ち上がると、ユーゴが意外そうな顔をした。
「怒らないのか?」
「怒ってる。……でも、明日からあなたのセンスが悪いシャツを洗わなくていいと思ったら、ちょっと気が楽になった」
「は?」
「これからはマリエルにお願いして」
すると妹が真っ先に顔を引きつらせた。
「えっ、私が? そういうのは洗濯屋に頼めばいいじゃない」
思わず笑ってしまった。
「そうだね。……でも、私はもうやらないから」
◆◆◆
それでも、ユーゴに言われたことがまったく気にならなかったわけではない。
翌日から工房へ戻っても、ふとした拍子に自分の手を見てしまう。洗剤で荒れた指先に、短く切った爪。何度も針を刺したせいで残っている小さな傷。
今まで一度も恥ずかしいと思ったことなどなかったのに、他人から「女としてどうなのか」と言われた途端、急にそこだけが目につくようになった。
腹立たしい。
もっと腹立たしいのは、自分がそれを気にしていることだった。
そんな時、クラウス・ヴァルトが工房へやって来た。
黒に近い銀髪に濃紺の騎士服。
肩には西部騎士団長を示す銀章がついている。
若くして騎士団長まで上り詰めた男で、確かヴァルト伯爵家の三男だったはずだ。
もっと堅苦しい人かと思っていたけれど、実際は拍子抜けするほど気だるそうだった。
「これ、乾かせる?」
作業台に置かれたのは、水を吸って重くなった結界布だった。
「乾かせますけど、30分に1枚ですよ?」
念を押すと、クラウス団長は少し不思議そうに私を見た。
「結界布1枚あれば負傷兵を十人以上守れる。十分価値があるんだけど」
何でもないことのように言われて、私は少し黙った。
そんなふうに言われたことはなかったからだ。
私が布へ手を置いて『一枚乾燥』を使うと、一瞬で水分が抜け、濃紺の布がさらりと軽くなった。
クラウス団長は表裏を確認したあと、突然私へ顔を向けた。
「ねぇ、来週から始まる討伐に同行してくれない?」
「え、嫌です。何言ってるんですか? 私は洗濯職人ですよ。戦えませんから」
「戦わせないよ。補給隊にいて、包帯とか結界布とか、必要なものを乾かしてくれればいい」
「山で魔物が出るんですよね? 怖いから嫌です。しかも、騎士団に私を振った男もいるから、なおさら……」
クラウス団長は少し考えたあと、工房の中をぐるりと見回した。
「じゃあ、この工房の1か月の売上の3倍払う。その後もこの店を騎士団ご用達にする! どう?」
「あ、じゃあ、行きます」
「決断早いなー!」
「だって、そんな条件だされたら行くでしょう。私の命は、クラウス騎士団長が守ってくださいね」
「ははっ。噂通りさっぱりした性格で気に入ったよ。安心して。俺と一緒にいたら絶対に危険な目には遭わせないから」
そう言って、クラウスは笑った。
私に支払うその金は騎士団の予算ではなく自分で出すという。
伯爵家の三男。
顔もいい。金も持ってる。騎士団長。
そして、この余裕……。
遊び人だな、こいつ。
私はこの時、ほぼ確信していた。
◆◆◆
討伐まであと3日となった日の午後、クラウス団長がもう一度工房へやって来た。
ちょうど私は裏庭で洗濯物を干していた。
空は久しぶりに晴れ、風もほどよく吹いている。
大きな白いシーツを広げ、紐へ掛けて端を留めると、風を含んだ布がふわりと膨らんだ。
次のシーツを持ち上げたところで、人の気配に気づいた。
振り返ると、工房の入口近くに、クラウス団長が立っていた。
「……いつからいたんですか?」
「少し前」
「声かけてくださいよ。びっくりするじゃないですか……」
「かけようと思ったんだけど……」
そこでクラウス団長は言葉を切り、じっと私を見ている。
「……何ですか?」
「いや。洗濯物干してるところ、なんかいいなと思って」
「は?」
騎士団長が何を言っているんだ。
私は呆れながら次のシーツを広げた。
風に煽られて端が顔へ飛んできたので避けると、いつの間にか近くまで来ていたクラウス団長が反対側を掴んだ。
「手伝うよ」
「騎士団長が洗濯物干してていいんですか?」
「今日は非番」
「高い給金もらってる人の休日の使い方じゃないですよ」
「君に、三ヶ月分の売上払えるくらいには貰ってるから大丈夫だよ」
やっぱり金持ち。
金持ちは余裕があっていいですねー。
二人でシーツを紐へ掛けた時、クラウス団長が急に動きを止めた。
すぐ隣にいる。
少しだけ顔を傾けたと思ったら、私の髪のあたりへ視線を落とした。
「……いい匂い」
「え?」
思わず自分の袖を嗅いだ。
「この匂いが、ですか? まぁ、石鹸の匂いですからね」
クラウス団長は答えず、ほんの一瞬だけ目を細めた。
その顔が、いつもの気だるげなものとは少し違った気がした。
「団長?」
「ああ、ごめん。何でもない」
結局その日は、討伐当日の集合時間と荷物について話しただけで帰っていった。
でも去り際、私の肩についていた小さな糸くずを当然のように摘まんでいった。
何なの、あの人。
人との距離、ちょっと近くない?
◆◆◆
ところが討伐隊へ加わってみると、私の印象はあっさり覆された。
クラウス団長は、むしろ人との距離が遠かった。
治癒術師が頬の傷を確認しようと手を伸ばせば、笑いながら一歩下がって薬だけ受け取る。
宿場の女が腕へ触れそうになれば、自然に身体をずらす。
男の部下に肩を組まれるのさえ嫌らしく、誰かが距離を詰めてくると、気づかれない程度に半歩離れる。
「……団長って、潔癖症ですか?」
ある夜、焚き火の前で聞いてみた。
聞かれて、少し驚いた顔をしたけど、クラウス団長は笑って答えてくれた。
「うーん……違うんだけど、少し近いかも。昔から人に触るのも、触られるのも、あんまり好きじゃないんだよね」
「その割には愛想いいですよね」
「口で喋るだけなら楽だから。適当に笑ってれば、だいたい円満に終わるし」
やっぱり変な人だ。
遊び人だと思っていたけれど、どうも違うらしい。
その翌日。
「レオナ」
呼ばれて振り返った瞬間、頬に何かが触れた。
クラウス団長の親指だった。
あまりに自然だったから、私はしばらく動けなかった。
「……何ですか?」
「またついてる。糸くず」
白い糸が、クラウス団長の指先についている。
「言ってくれれば自分で取れますけど……」
「そうだね」
そう返しながら、クラウス団長は自分の指を見た。
ほんの少しだけ、不思議そうな顔をする。
「どうしたんですか?」
「うん? ……いや。何でもない」
でも、私は気づいてしまった。
この人、他人には触らないのに、私には触れた。
それからというもの、クラウス団長は私に遠慮なく触れるようになった。
山道で私が足を滑らせれば腰を支え、重い荷物を持っていれば私の手ごと掴んで取り上げる。頬に灰がついていれば、何のためらいもなく指で拭う。
それも私の髪や首元に顔を寄せるような近づき方をする。
意味が分からない。
どうして私だけは平気なんですか、と聞きたい。
でもそんなことを聞いたら、自分がクラウス団長の行動をいちいち気にしているみたいじゃないか。
実際、気にしているんだけど。
っていうか、触りすぎなんだけど……!?
◆◆◆
討伐そのものは無事に終わった。
私のギフトも、思っていた以上に役に立った。
濡れた包帯に、雨を吸った結界布。
30分に、たった1枚ずつ。
でも、その1枚が乾いたことで負傷兵が守られた。結界術師から何度も礼を言われた時、私は初めて自分の能力を少し好きになれた気がした。
問題が起きたのは、その討伐の帰路。
午後から突然、山の天気が崩れた。横殴りの雨が降り始め、数分もしないうちに地面がぬかるんでいく。
やがて、足元のさらに下から響くような低い音がした。
嫌な音だった。
「レオナ!」
呼ばれた直後、腰へ腕が回った。
体を強く引かれ、気づけば私はクラウス団長の胸元へ抱き込まれていた。
その直後、目の前を大量の土砂が流れ落ちていく。
ゴオオォオオ――ッ!!
あまりの轟音に息が止まった。
怖くて、いつの間にか私はクラウス団長の騎士服を両手で掴んでいた。
「怪我はない?」
すぐ耳元で声がした。
「……だ、大丈夫です。助けてくれて、ありがとうございます」
返事をすると、腰へ回っていた腕からようやく力が抜けた。
土砂で道は完全に塞がれている。声を張り上げても、反対側にいる仲間の返事は雨音にかき消されてほとんど聞こえない。
クラウス団長は周囲を確認し、山道から少し外れた岩場を指した。
「この先に小さな洞窟がある。昔、巡回で使ったことがあるんだ。無理に移動するより、今夜はそこで雨をやり過ごした方がいい」
私には反対する理由などなかった。
洞窟へ着いた頃には、二人とも絞れば水が出そうなくらい濡れていた。
幸い、洞窟の奥までは雨が吹き込んでいない。
私は荷物から毛布を取り出した。
防水袋に入れていたはずなのに、袋の口から少しずつ水が入ったらしく、しっとり濡れている。
ちょうど『一枚乾燥』を使える時間になっていた。
何を最初に乾かすか少し迷ったけれど、身体全体を包める毛布を選んだ。
手を置く。
一瞬で水分が消え、乾いた毛布がふわりと軽くなった。
「服も脱いだ方がいいよ」
クラウス団長に言われ、私は自分の格好を見下ろした。
当然だ。
濡れた服を着たまま毛布へ入ったら、せっかく乾かした毛布まで濡れてしまう。
分かってる。
分かってるんだけど……。
「む、向こう向いてください」
「分かった」
クラウス団長は素直に背中を向けた。
私は外套を脱ぎ、上着を脱いだ。
シャツも肌へぴったり張りついている。このままでは意味がない。
脱ぐしかない。
男の人と二人きりの洞窟で下着姿になる。
そう考えるだけで手が止まった。
覚悟を決めてシャツを脱ぎ、濡れたスラックスも外す。
残ったのは薄い肌着と、膝上までのドロワーズだけだった。
寒い。
布がなくなった途端、洞窟の冷気が一気に肌を刺した。
私は慌てて乾いた毛布へ体を包んだ。
「……さむ」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないです」
「次、能力使えるのは?」
「30分後です」
「じゃあ俺の服はその次に頼む。まずは君の服を何か乾かして」
そう言いながらクラウス団長も自分の服を脱ぎ始めたので、慌てて顔を背ける。
見てない。
私は見てない。
そう思っていたのに、結局見てしまった。
クラウス団長は、上は裸。下穿きだけだった。
騎士なのだから鍛えているのは当たり前なのに、服の上から見ていた時とは全然違う。
胸や腹がしっかりしているのが分かる。
……何見てるの、私。
慌てて顔を逸らした。
「あー、今、見てた?」
「見てません」
「結構しっかり見てたと思うけど。触りたいなら触ってもいいよ? レオナなら」
「触りません!」
クラウス団長は小さく笑った。
腹立つ。
絶対楽しんでる。
ところが私が毛布を抱えたまま震えていると、すぐに笑みが消えた。
「それじゃ30分もたないな」
「毛布は乾いてますから、大丈夫です」
「君、歯鳴りそうだけど」
「き、気のせいです」
「頑固だね」
クラウス団長はそう言うと、私の前にしゃがんだ。
「毛布、開けて」
「嫌です」
「でも、体くっつけた方が暖かいよ?」
一瞬、意味が分からなかった。
分かった瞬間、今度は別の意味で体が熱くなった。
「いや、それは無理です」
「じゃあそのまま30分震えてる?」
「……」
「俺も寒いから、入らせてくれない? お願い」
それを言われると弱い。
私だけの話なら我慢したかもしれない。でもクラウス団長も濡れた服を脱いで、ほとんど下着姿なのだ。
私は毛布の端を少しだけ開けた。
「……変なことしないでくださいね」
「君が嫌がることはしないよ。毛布貸して」
そう言ってクラウス団長は岩壁を背にして座り、足と足の間に私を入れる。
そして、毛布を羽織った手で、そのまま私を後ろからぎゅっと抱きしめる。
「ちょっと!!」
「ほら、温かいでしょ? 俺も温かいからこのままでいて」
しっかり体が密着しているのがわかる。
悔しいけれど、ものすごく温かい。
人の体温って、こんなに温かかったっけ……
どく、どく、どく。
自分の心臓がうるさい。
これ、絶対聞こえてないよね?
そう思った途端。
「心臓、すごいね」
死にたくなった。
「聞かないでください」
「聞こうとしてないよ。これだけくっついてたら振動が伝わる」
「じゃあ少し離れてください」
「それじゃ寒いから嫌」
さらっと言われる。
絶対楽しんでる。
するとクラウス団長は、さらにほんの少しだけ顔を寄せた。
「……っ」
また心臓が跳ねる。
「あー、もっと速くなった」
「うるさいです!」
「ごめん。でも面白いんだもん」
「性格悪いですよ」
「それは否定しない」
クラウス団長は楽しそうに笑った、突然私の髪へ顔を寄せた。
「ちょ……何してるんですか?」
「ああ……やっぱり、いい匂い」
前にも聞いた。
工房の裏庭で、同じこと言ってた。
「洗濯物の匂いでしょう?」
クラウス団長は少し黙った。
「ううん。君の匂い」
言われた瞬間、身体中の血が顔に集まった。
「な、何言ってるんですか」
「石鹸と、日に干した布みたいな匂いがする」
「それ、私が洗濯屋だからでしょう……」
「そうかもね。太陽みたいな匂いがする」
耳の近くで声がする。
「だからって嗅がないでください!」
慌てて体を離すと、クラウス団長はそれ以上追ってこなかった。
でも私の心臓は、さっきよりずっと酷いことになっている。
もう無理。
少し離れたい!
頭を冷やしたい!
私は、ちょうどギフトを使える時間になったので、自分の服を乾かすとすぐにそれを着て立ち上がった。
「……ちょっと、奥見てきます」
「え、なんで?」
「ずっと座ってるのも疲れるので」
「一人で行かない方がいいよ」
「……少し一人にしてください」
本当はただ恥ずかしくなっただけだ。
クラウス団長の隣にこれ以上いたら、心臓がもたない。
ランタンを持って洞窟の奥へ進んだところで、ようやく深く息を吐く。
「何なの、もう……」
胸へ手を当てる。
まだ速い。
体が触れていた感覚まで残っている。
それに、髪へ顔を寄せられた時の声。
――君の匂い。
思い出しただけで、また頬が熱くなる。
その時だった。
暗闇の中から低い唸り声が聞こえた。
顔を上げる。
ランタンの光の先に、二つの黄色い目が浮かんでいる。
え……?
どうして、こんなところに魔獣が……!?
灰色の大きな山狼。
普通の狼より一回り大きく、口元から覗く牙には薄い魔力がまとわりついていた。
体が固まった。
私は戦えない。
山狼が低く身を沈めた。
───まずい……!
そう思った瞬間、山狼が地面を蹴った。
何もできず、反射的に目を閉じた。
次の瞬間、鋭く風を切る音がした。
続いて、何か重いものが床へ落ちる。
恐る恐る目を開けた。
山狼は私の数歩手前で倒れていた。
首元に深い一閃。
その向こうに、剣を振り切った姿勢のクラウス団長が立っている。
さっきまで毛布の中で私をからかっていた人と同じだとは思えなかった。
目が冷たい。
本当に一瞬だった。剣を抜いたところさえ、私には見えなかった。
「……レオナ」
その声を聞いた瞬間、全身から力が抜けた。
「……し、死ぬかと思った……」
口から勝手に出た。
膝が折れ、その場へぺたんと座り込んでしまう。
立たなきゃ。
そう思うのに脚が震えて動かない。
涙が知らないうちに、ぽろぽろとあふれ出してくる。
クラウス団長は剣についた血を振り払い、鞘へ戻すと、すぐ私の前まで来た。
「怪我は?」
「ない……です」
頷いた直後、クラウス団長の腕が背中と膝裏へ回った。
「え?」
次の瞬間には体が浮いていた。
これは……お姫様抱っこってやつ!?
「ちょ、ちょっと待ってください!」
反射的にクラウス団長の半裸の胸を押してしまい、その感触にハッとしてしまう。
さっきまで毛布の中でくっついていた時より、さらに密着している。
腕は背中と膝の下をしっかり支え、私は完全にクラウス団長の腕の中だった。
「降ろてください!」
「脚、まだ震えてるよ」
「だからって抱かなくても……!」
「じゃあここで待ってる?」
それは嫌だ。山狼の死体がある。
気持ち悪い……。
「……戻ります」
「じゃあ大人しく抱っこされててね」
完全に子ども扱い。
腹が立つのに、体が密着しているせいでそれどころではなかった。
「顔赤いけど」
「怖かったからです!」
「そう?」
クラウス団長は明らかに信じていない。
でもそれ以上からかわず、そのまま元の場所まで運んでくれた。
私は途中で気づいてしまった。
クラウス団長の胸に耳が近い。
どく、どく、と彼の心臓の音が聞こえる。
私ほど酷くはない。
でも、思っていたより速い。
――この人も、ドキドキしてるの?
そう思った瞬間、ますます顔が熱くなった。
元の場所へ戻ると、クラウス団長は私をゆっくり岩場へ下ろした。
体を支えていた腕が離れると、急に寒くなった気がした。
……いやいや。
何を寂しいと思ってるの、私。
「何で一人で奥行ったの?」
クラウス団長は私の前へしゃがんだ。
声は穏やかだけれど、さっきまでの軽い雰囲気ではない。
「俺が嫌だった?」
「違います」
「じゃあ、どうして?」
言えるわけがない。
くっついているだけで心臓がうるさかったから。
匂いを嗅がれて余計に恥ずかしくなったから。
男の人をこんなに意識したのが初めてで、どうすればいいのか分からなくなったから。
「……恥ずかしくなっただけです」
ようやくそれだけ言った。
「何が?」
「そこまで聞かないでください」
「やだ」
クラウス団長は立ち上がった。
私も反射的に立つ。
そのまま一歩近づかれ、私は一歩下がった。
また来る。
また一歩。
私はまた下がる。
やがて背中が岩壁へ当たった。
しまった。これ以上、逃げ場がない!
クラウス団長は私のすぐ前まで来ると、私の顔の横へ片手をついた。
か、壁ドン!?
「な、何ですか! やめてください、こういうの!」
「逃げるからでしょ」
「逃げてません!」
「じゃあ、どうして下がったの?」
言い返せない。
私は少し長いシャツだけの格好で、クラウス団長は半裸の状態。
こんな状態で壁際に追い込まれるなんて、心臓に悪すぎる。
「ねぇ、レオナ」
低い声だった。
「俺、人に触るの嫌いだって話したよね」
「……はい」
「君に触るのは平気なんだけど、それだけじゃないんだよね」
クラウス団長の視線が、私から逸れない。
「君には、触りたくなるんだ」
息が止まった。
「最初は理由が分からなかった。工房で頬の糸くず取った時、自分でも驚いた。他人の顔なんて触りたいと思ったことないのに、君には何の抵抗もなかった」
クラウス団長は少し迷ったように目を伏せた。
「多分、最初は匂いだったんだと思う」
「……匂い?」
「俺、子どもの頃かなり身体が弱くてね。兄二人は跡継ぎとして忙しかったし、父も母もそっちに付きっきりで、俺は屋敷の端の部屋で寝てることが多かったんだ」
初めて聞く話だった。
「その頃、ずっと世話してくれてた使用人がいたんだ。その人が、君とよく似た匂いだった」
クラウス団長の声が少し柔らかくなる。
「石鹸と、日に干した布の匂い。晴れた日は庭で洗濯物を干してて、俺は窓からそれを見るのが好きだった。外に出られない日でも、あの匂いのするシーツに包まると安心できたんだ」
そこで私は、討伐前の工房を思い出した。
洗濯物を干していた私を、クラウス団長が黙って見ていた日。
なんだか、懐かしいことを思い出しているような顔をしていた。
「その人は?」
「俺が少し元気になった頃に結婚した。遠くの町へ行って、それっきり。子どもだったから仕方ないんだけど……置いていかれたみたいで、結構寂しかったのは覚えてる」
クラウス団長は少し笑った。
「だから君の匂いを嗅いだ時、懐かしかった。安心した。多分それで、無意識に近づいてたんだと思う」
じゃあ、私だから触りたかったわけじゃないんだ。
そっか。
そう考えた瞬間、ほんの少しだけ胸が沈んだ。
クラウス団長は、すこし微笑んでから続ける。
「……最初はね」
最初は──?
その一言で、また心臓が鳴った。
「今は違うんですか?」
聞いてから後悔した。
クラウス団長の口元が少し上がった。
また楽しそうな顔。
嫌な予感がする。
「今は、君だから触りたい」
胸がどくんと鳴った。
「匂いは好き。でも、君が誰かに笑ってると気になるし、別の男が近くにいると腹が立つ。山道で手を取るのも、腰を支えるのも、最近は必要だからって理由をつけて触ってたところもある」
「……わざとだったんですか?」
「うん。半分くらいはわざとだよ。だって触りたかったんだもん」
最低だ。
でもクラウス団長は悪びれもしない。
「さっき山狼が君に飛びかかった時、本気で頭にきた。君に触ろうとしたのが気に入らなかった」
「え、魔物ですよ? 触るっていうか……私を攻撃しようとしてたと思うんですけど……」
「知ってる。でも、結果的に触るのには違いないじゃん」
いや、かなり違うと思うけど……。
「え、魔物にまで嫉妬するんですか?」
「嫉妬っていうか、殺意」
それ、もっと怖い……。
クラウス団長は壁についていない方の手を伸ばし、私の髪を一房すくった。
鼻先へ近づける。
「ちょ……!」
「でも今は、この匂いだから好きなんじゃない。君からするから好き」
髪から手を離し、今度は私の頬へ触れる。
頭の中が真っ白になった。
クラウス団長の手が、私腰へ手が触れた。
びくっと身体が揺れる。
その反応を、クラウス団長は見逃さなかった。
「そういう反応されると、意地悪したくなるんだけど」
「せ、性格悪い!!」
壁際へ追い込まれたまま、クラウス団長の顔が少し近づく。
私は逃げようとして、横を向いた。
でも壁についていた腕が視界に入る。
逃げようと思えばしゃがめば逃げられる。
別に押さえつけられているわけでもないから。
でも、体が動かない。
「レオナ」
「……何ですか」
「キスしていい?」
また心臓が跳ねた。
クラウス団長にキスされるところを想像しただけで、胸が苦しくなるほど心臓が鳴る。
「……嫌です」
正直に答えると、クラウス団長は少しだけ身体を離した。
「そっかー。じゃあ、やめる」
クラウス団長は、あっさり本当に離れていこうとする。
その瞬間、胸がきゅっとした。
自分でも分からない。
でも私は反射的に、クラウス団長の腕を掴んでいた。
クラウス団長が止まり、視線が私の手へ落ちた。
「……何?」
「……」
「離れたら掴むんだ?」
「うるさいです……」
顔が熱いし、逃げたい。
──でも手を離せない。
クラウス団長は少しだけ笑うと、また私の顔の横へ手をついた。
「じゃあ離れる?」
「……」
答えられない。
クラウス団長の目が、少しだけ熱を帯びた。
「本当に嫌だったら押して。それならちゃんと止まるから」
私はクラウス団長の腕を掴んだまま、動けなかった。
嫌なら押せばいい。
簡単なはずなのに……できない。
むしろ、離れてほしくないと思ってしまっている。
そんな自分に一番動揺した。
ほんの一瞬だけ、唇が触れた。
それだけなのに、頭の中が真っ白になる。
クラウス団長が少し離れた。
私は顔を上げられない。
「……レオナ」
「喋らないでください」
「何で?」
「恥ずかしいから!」
クラウス団長が笑った。
「顔見せて」
「嫌です」
「真っ赤なの?」
「誰のせいですか……」
クラウス団長は、笑う。
何でそんなに楽しそうなの。
顎へ指が触れ、そのまま顔を上に向けられる。
顔を背けても、その指が追ってくる。
「……キスだけでこんなに赤くなるんだ」
「言わないで!」
「……かわいい」
もう一度、唇が重なった。
今度はさっきより長い。
腰へ回った腕が、少しだけ私を引き寄せる。
薄い服越しに胸元まで重なって、私の心臓がさらに暴れ始める。
絶対聞こえてる。
そう思った途端、クラウス団長が小さく笑った。
「……心臓の音、すごいよ」
頬へ唇が落ち、次は耳のすぐ下に落ちる。
ぞくっと身体が震えた。
「……っ」
声が漏れた。
しまったと思った時には遅い。
クラウス団長の口元が上がる。
「ここ弱いの?」
「ち、違います」
「じゃあ、もう一回しても平気?」
拒否する間もなく同じ場所へ、今度はゆっくり唇が触れた。
背中がぞくぞくする。
体に力が入らない。
今度は首筋。
「ちょっ……」
「嫌?」
聞かれて、言葉が止まる。
嫌なら言えば止まる。
分かっている。
でも嫌じゃない。
それを認めたら、もっと何かが変わってしまいそうで怖い。
でも……。
私は小さく首を横へ振った。
「……嫌じゃ、ないです」
クラウス団長の目が変わった。
さっきまで私をからかっていた余裕が、一瞬だけ消える。
「……うーわ。急に素直になるとか、完全に煽ってるじゃん。……自覚ある?」
「だって、聞いてきたのは、そっちでしょう!?」
「……まぁ、そうだけどね」
次のキスは、少し深かった。
私の腰を抱く腕に力が入っている。
心臓がうるさい。
でも、クラウス団長の胸へ触れている掌から、彼の鼓動も伝わってくる。
速い。
私だけじゃない。
そのことが、少し嬉しかった。
ふいに唇を離した後、額をつけて名残惜しそうな顔をするクラウス団長は、ポツリと言った。
「戻ろうか。冷えてきた」
言われて初めて、毛布から出てかなり時間が経っていたことに気づいた。
そうだった。
今、私たちほとんど下着姿だった。
今さら思い出した途端、とんでもなく恥ずかしくなる。
今度は最初より自然に、二人で毛布の中へ入った。
クラウス団長が岩壁へ背を預けて、当然のように腕を広げた。
「おいで」
「何でそんな偉そうなんですか」
「寒いから」
その間へ座る。
そして、さっきと同じように、抱きしめるように温めてくれた。
さっきまでならそれだけで飛び上がりそうだったのに、今はもう少し近くてもいいと思ってしまった。
クラウス団長は、私の髪へ軽く口づける。
「レオナ」
「なんですか?」
「好きだよ」
「……っ!」
やっぱりこの男は、性格が悪い。
こんなことをこの状況で言われて、平気な人間はいない。
それをわかっていて言っているのだ、この男は。
「……これ以上手を出さない俺を、少しは褒めてね」
「……」
その言葉にまたドキリとしたが、私は黙ってクラウス団長の心臓の音を聞いていた。
どちらの音が大きいのか分からないくらい、二人とも速かった。
◆◆◆
王都へ戻った数日後。
ユーゴが工房へやって来た。
討伐隊の別の補給部隊に参加していたユーゴは、あの豪雨の際、命令を無視して持ち場を離れたらしい。
その結果、補給物資の一部が駄目になり、正式に降格処分が決まったという。
「レオナ。お前からもヴァルト団長に言ってくれないか。あの雨じゃ仕方なかったって」
「無理」
私は洗濯物を畳みながら答えた。
「命令違反したのは私じゃないし、私、その場にいなかったもの」
「でも、商会で降格処分が決まったら、マリエルとの婚約まで――」
「私には関係ない」
それで終わり。
以前だったら、もっと言いたいことがあったかもしれない。
今はどうでもよかった。
「ユーゴ」
背後から聞こえた声に、ユーゴの肩がびくっと跳ねた。
振り返ると、クラウス団長が工房の入口に立っていた。
「ヴァ、ヴァルト団長……!」
顔色が明らかに変わっている。
どうやら軍にいたユーゴは、私よりよほどクラウス団長の怖さを知っているらしい。
クラウス団長は笑顔のまま近づいてきた。
「処分の話なら決定済み。君が持ち場を離れた事実も確認されてるから、レオナに頼んでも変わらないよ」
「……はい」
ユーゴが小さくなる。
そこで終わればよかったのに、クラウス団長がふと何か思い出したように続けた。
「そういえば君、レオナと婚約してたんだよね」
嫌な予感がした。
「……はい」
「キスしたことある?」
「団長!」
思わず割り込んだ。
ユーゴも目を見開いている。
でもクラウス団長はユーゴだけを見ていた。
「……そ、それは、ありますけど」
「そっか」
目だけで笑っている。
怖い……
ものすごく怖い……!!
「処分は命令違反に対するものだから、そこは関係ないよ」
一度区切る。
「ただ、俺個人としては君のこと、かなり嫌い」
ユーゴの顔が引きつった。
「自分から捨てた女に都合が悪くなったら助けを求めに来るし、そのうえ、レオナと俺より先にキスまでしてるし。正直、顔を見るだけで腹立つんだよね」
「そ、そんな……」
「何? 悪いけど、君がいるような商会には、もう仕事頼まないから」
「……個人的な攻撃はやめてください!」
「個人的に嫌いなんだから仕方ないでしょ」
ユーゴはもう反論する気もないらしく、真っ青な顔で何度も頷いて工房を出ていった。
完全に怯えていた。
「……うわー、大人げない」
私が呆れて言うと、クラウス団長は少しも反省した様子がない。
「だって嫌いなんだもん」
「29歳の騎士団長が言うことじゃないですよ」
「君にキスした男だから余計に嫌い。……それ以上してたら、殺すところだけど、討伐の時に“婚約者はやらせてくれなかった”って話してたから、とりあえず生かした」
「生かしたって言い方……」
その時、急に洞窟でのことを思い出して、顔が熱くなる。
それに気づいたクラウス団長が目を細めた。
「あ。今、思い出した?」
「何も!」
「洞窟のキス?」
「言わないでください!」
楽しそうに笑いながら、クラウス団長は持っていた結界布を作業台へ置いた。
一部だけ、不自然に濡れている。
「……これ、わざと濡らしました?」
「半分くらい」
「何のために!?」
「会いに来る理由」
胸がまた跳ねる。
この人の言葉に、いちいち反応してしまう自分が一番悔しい。
「普通に来ればいいでしょう……?」
「いいの?」
「毎日は駄目ですよ。仕事の邪魔ですから」
「じゃあ2日に一回は?」
「多いです」
「3日?」
「交渉しないでください」
クラウス団長は笑いながら私のすぐ隣へ来ると、ふいに顔を寄せた。
「……ああ、やっぱりいい匂い」
「ちょっと!」
私が肩を押すと、クラウス団長は素直に離れた。
でも、笑っている。
やっぱり性格が悪い。
Sっ気があって、嫉妬深くて、人には触れたがらないくせに私にはやたらと触りたがる。
“洗剤臭いっていうの? なんか年寄りみたいな匂いすんだよね、お前”
“いい匂い。君は、太陽みたいな匂いがする”
二人の男に言われた、正反対の言葉。
私は、クラウス団長に言われた言葉を信じる。
だって、この人の顔からは、私への気持ちが溢れてる。
私のこのハズレスキルも、荒れた手も、石鹸の匂いも、今は私の全部大事なものに思えるのは、きっと、クラウス団長のおかげだ。
「次の休み、デートしよ。あと、結婚しよ」
さらっとそう言われて、私はもう、嫌だとは言えなかった。
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