EP 7
最高級の越前和紙に、流麗な万年筆のインクが滑っていく。
静まり返った執務室で、優太をベビーベッドに寝かせたリベラは、ただ一人、歴史のシナリオを書き換える手紙を認めていた。
『――五摂家筆頭、近衛文麿公爵閣下。帝国の混迷を打ち破り、貴方様を真の「救世主」として世に送り出すための、些細なご提案がございます』
文面は極めて慇懃無礼でありながら、相手の最も弱い部分――「血筋への自負」と「責任なき名声への渇望」を的確に突くよう、心理学と法廷戦術の粋を集めて構成されていた。
書き終えた手紙を特注の封筒に入れ、桜田家の家紋である八重桜の封蝋で閉じる。
リベラは背後に控えていた柴田にそれを差し出した。
「柴田。これを近衛公爵に直接渡しなさい。書生や秘書を通しちゃ駄目よ。公爵本人の手に、確実にね」
「ハッ。……しかしアネゴ、あんな雲上人の懐にどうやって潜り込みますんで?」
「あら、あなた達が束になっても、公爵の護衛数人すら撒けないの?」
リベラが流し目で挑発すると、顔に傷のある大男はニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。
「御冗談を。今夜中に、公爵の枕元へ『配達』してご覧に入れますよ」
数日後。
帝都の中心部にある、桜田財閥が所有する迎賓館。
周囲を柴田たち『私兵』がアリの這い出る隙間もなく警護する特別室に、一人の長身の紳士が足を踏み入れた。
五摂家筆頭にして貴族院議長、近衛文麿である。
「……随分と物々しい出迎えだね、桜田総帥。私の枕元に、あのような『優秀な配達員』を忍び込ませるだけのことはある」
近衛は優雅にソファに腰を下ろし、面白がるような、しかしどこか警戒を滲ませた視線をリベラに向けた。
自身の寝室に音もなく侵入され、封書だけを置いて消え去った手際。それは暗に「いつでもお前の命を奪える」という桜田財閥からの強烈なデモンストレーションだったからだ。
「無礼をお許しくださいませ、公爵閣下。ですが、軍部の犬共の目を盗んで貴方様をお招きするには、少々荒っぽい手段が必要でしたの」
リベラは完璧な淑女の微笑みを浮かべ、最高級の玉露を自ら淹れて近衛の前に差し出した。
「それで? 手紙には『私を救世主にする』とあったが。桜田の若き御当主は、私に総理大臣にでもなれと仰るのかな?」
近衛は玉露の香りを楽しみながら、余裕を見せてふっと笑った。
国民からの絶大な人気を誇る彼は、これまで何度も総理大臣の打診を受けながら、その度にのらりくらりと躱してきた。泥を被る政治の矢面に立ち、自身の美しい名前に傷がつくことを何より恐れていたからだ。
「ええ。その通りですわ」
リベラのあっさりとした肯定に、近衛は少し拍子抜けした顔をした。
「……悪いが、お断りだ。私は今、軍部と政党の泥沼の争いに首を突っ込む気はない。桜田の財力をもってしても、私を動かすことは……」
「泥など、一滴たりとも被らせませんよ」
リベラはティーカップを置き、まっすぐに近衛の目を射抜いた。
「閣下が恐れておられるのは、組閣した後に軍部の暴走を止められず、無能の烙印を押されることでしょう? ご安心ください。面倒なことは、すべて私共が処理いたします」
「……何?」
「桜田の全資金を投じて主要な新聞社、ラジオ局を徹底的に買収し、『近衛公爵待望論』という熱狂的な世論を人工的に作り出します。閣下はただ、美しい言葉で平和と経済の安定を訴え、民衆に向かって優雅に手を振っていただくだけで結構です」
リベラは立ち上がり、近衛の背後へとゆっくり回り込んだ。
「軍部の予算を縛る法案作り、反対派の政治家のスキャンダル捏造、そして物理的な『お掃除』に至るまで。血と泥にまみれた実務は、すべて桜田財閥と三田会、そして海軍の山本五十六が引き受けます」
「や、山本少将まで君の息がかかっているのか……!?」
近衛は思わず息を呑んだ。
経済の覇者たる桜田財閥、政界の裏を牛耳る三田会、そして海軍の主力。それがすべて、背後に立つこのうら若き未亡人の手の中にあるというのか。
「閣下は、歴史の表舞台で最も美しく輝く『神輿』に座っていただくだけです。……それとも」
リベラは近衛の耳元に顔を寄せ、弁護士としての冷徹な声色と、不良たちを震え上がらせた総長のドスを効かせた声で囁いた。
「何もしないまま、陸軍の狂犬共にこの美しい国を焼け野原にされ、五摂家の歴史に泥を塗られるのをお望みですか? 貴方の逃げ腰のせいで国が滅んだと、後世の歴史書に刻まれたいと?」
ビクッ、と近衛の長身が震えた。
痛いところを完璧に突かれたのだ。名誉と血筋を何より重んじる彼にとって、それは死よりも恐ろしい脅迫だった。
「……君は、悪魔か」
近衛が絞り出すように呟くと、リベラは元の席に戻り、コロコロと鈴を転がすように笑った。
「悪魔? いいえ、ただの母親ですわ。うちの優太が大人になった時、この国が貧乏でボロボロだったら困るじゃありませんか」
呆然とする近衛の前で、リベラは一枚の契約書を差し出した。
それは、桜田財閥の全面バックアップを約束する代わりに、今後の重要法案の決定権を事実上リベラに委ねるという、悪魔の念書だった。
「さあ、公爵閣下。サインを。私達と一緒に、この狂った戦争のレールを叩き壊す最高のエンターテインメント(政治)を始めましょう?」
逃げ道は完全に塞がれていた。
抗うことのできない巨大な力と、甘すぎる毒薬のような提案。
近衛文麿は深い諦めと、ほんの少しの熱狂に浮かされたように、万年筆を手に取った。
「……これで役者は揃ったわね」
契約書にサインが刻まれた瞬間、リベラの口角が妖しく吊り上がる。
桜田リベラ、三田会、山本五十六、そして近衛文麿。
昭和史を根底から覆す、最強で最凶の「戦争阻止内閣」設立に向けた歯車が、ついに音を立てて回り始めた。




