EP 5
数日後。桜田邸の広大な日本庭園に、春のうららかな陽光が降り注いでいた。
海軍大将の案内で邸宅を訪れた山本五十六は、案内された庭先で信じられない光景を目にしていた。
芝生の上で、一歳の幼児がよちよちと不器用な足取りで歩いている。その小さな手を引き、屈み込んで優しい笑顔を向けているのは、上質な薄紅色のワンピースを着た美しい若い女性だった。
「ほら、優太。あっちにお花が咲いてるわよ。ゆっくりね」
どこからどう見ても、愛情に溢れたごく普通の、うら若き母親の姿である。
あの背筋が凍るような「帝国崩壊のシミュレーション」を書き上げ、帝国陸軍と真っ向から経済戦争を引き起こそうとしている冷酷な化け物には、到底見えなかった。
「……閣下。あの方が、本当に桜田財閥の?」
山本が思わず隣の大将に耳打ちすると、大将は苦笑しながら頷いた。
その気配に気づいたのか、女性――桜田リベラがふと顔を上げる。彼女は優太を抱き上げると、静かな足取りで二人の元へと歩み寄ってきた。
「お待ちしておりました、大将。そして……初めまして、山本五十六少将」
リベラが優雅に頭を下げる。その所作は完璧な淑女のそれだったが、山本の鋭い眼光は、彼女の瞳の奥に宿る「決して底を見せない深淵」を正確に捉えていた。
「お招きいただき、光栄の至りに存じます。桜田総帥」
山本が最敬礼をすると、リベラはふわりと微笑んだ。
「立ち話もなんですから、応接間へどうぞ。今日は山本少将がいらっしゃると伺ったので、特別に『甘いもの』をご用意しましたの」
通された応接間には、すでに芳醇な紅茶の香りが満ちていた。
テーブルの上に恭しく置かれたのは、当時としては極めて珍しい、宝石のように艶やかなチョコレートのオペラケーキだった。
大の甘党として知られる山本は、一口それを口に運んだ瞬間、その完璧な計算と層が織りなす濃厚な甘味に目を見張った。
「これは……素晴らしい。帝都のどの料亭でも、これほどの菓子は出せまい」
「お口に合って何よりです。水飴や小豆も良いですが、時にはこういった『計算し尽くされた洋の甘味』も、頭を働かせるには最適でしょう?」
リベラは自らも紅茶に口をつけ、優太を膝の上であやしながら、スッと声音の温度を下げた。
「さて。甘い時間はここまでにして、現実の話をしましょうか。少将、あの書類には目を通していただけましたね?」
「ええ。穴が開くほどに。……そして、絶望しました。陸軍の馬鹿げた大陸進出が、我が国をいかに理不尽な破滅へと導くか。あなたの計算は、寸分の狂いもない」
山本が鋭い視線を返すと、リベラは満足げに頷いた。
「陸軍の兵站は、我が桜田の資本と三田会のネットワークで真綿で首を絞めるように削っていきます。ですが、資金と物資を絶たれた狂犬は、必ず国内で牙を剥く。暗殺、あるいはクーデターという形で」
「だからこそ、物理的な抑止力として我々海軍の力が必要、というわけですか」
「ええ。ですが、それだけでは足りません」
リベラは冷たいテーブルの上に、一枚の白黒写真を滑らせた。
そこに写っていたのは、長身で端正な顔立ちをした、国民的にも圧倒的な人気を誇る貴族院議員の姿だった。
「近衛文麿……公爵ですか。たしかに国民からの人気は絶大ですが、彼は軍部にも顔が利く。我々の側に引き入れるのは容易ではないのでは?」
山本が眉をひそめると、リベラは鼻でふっと笑った。
その瞬間、美しき財閥令嬢の顔から、かつて数百人の不良を力と恐怖で束ね上げていた「元レディース総長」の凄みと、法廷で相手の急所を的確に抉り出す「敏腕弁護士」の邪悪な笑みが同時に漏れ出した。
「引き入れる? 冗談でしょう。あんな優柔不断で芯のない男、芯から信用するわけがない」
「では、なぜ……」
「『神輿』ですよ。とびきり見栄えが良くて、空っぽで、最高に都合の良いパペット(操り人形)です」
リベラは写真の近衛の顔を、美しい指先でトントンと叩いた。
「彼が欲しているのは、血筋に見合った名声と、世論の喝采だけ。なら、私がそれを与えてあげます。桜田の莫大なカネで新聞社を買収し、彼を『平和と経済の救世主』として徹底的にメディア・コントロール(世論誘導)する。彼を内閣総理大臣の椅子に座らせ、裏から私が実権を握り、軍縮と経済協調の法案を強引に通させるんです」
「……世論という風を人工的に作り出し、あの風見鶏を己の思い通りに向かわせると」
山本は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
軍の武力すら、彼女にとっては盤面の一つの駒に過ぎない。世論、経済、そして法律。国家を構成するすべての要素をハッキングし、一人の赤ん坊のゆりかごを守るための城壁に造り変えようとしているのだ。
「反対派が騒げば、私兵を使って物理的に黙らせる。それでも駄目なら法廷に引きずり出して、社会的に抹殺する」
リベラは膝の上の優太の頭を優しく撫でながら、氷のように冷たく、そして母の業火のように熱い瞳で山本を見据えた。
「私の息子が大人になるまで、この国にドンパチなんて絶対にさせない。……山本少将、あなたには海軍の全権を握ってもらいます。私の『合法的でえげつない戦争』に、最後まで付き合ってもらいますよ」
その圧倒的な覚悟と狂気を前に、帝國海軍きっての智将は、ただ深く、従順に頭を垂れることしかできなかった。




