EP 4
赤坂の閑静な料亭。
奥座敷には、庭から微かに響くししおどしの音と、備長炭が爆ぜる音だけが静かに流れていた。
「いやぁ……とんでもなく『良い女』に出会ってなぁ」
上座で上質な日本酒の盃を傾けながら、海軍の重鎮たる大将が、ひどく上機嫌に顔を綻ばせた。
対座する山本は、その引き締まった顔に僅かな困惑を浮かべる。
「閣下がそこまでご執心とは珍しい。新橋の芸者ですか?」
「馬鹿を言え。芸者なら金で買えるが、あの女は帝国そのものを買収しかねん化け物だ」
大将は愉快そうに喉の奥で笑うと、懐から分厚い封筒を取り出し、畳の上を滑らせた。
山本は無言でそれを受け取り、中の書類に目を通し始める。
最初は怪訝そうに眉をひそめていた山本の表情が、数枚のページを捲るうちに、劇的に変化していった。
普段はどんな窮地でもポーカーフェイスを崩さない男の双眸が、明らかな驚愕に見開かれ、書類を持つ指先が微かに震えている。
「……閣下。これは、一体……!?」
山本は息を呑んだ。
そこに記されていたのは、帝国陸軍が目論む大陸への武力進出が引き起こすであろう、諸外国からの経済封裁、石油および鉄鋼の枯渇、そして必要となる民間輸送船の喪失トン数に至るまで、背筋が凍るほど緻密で完璧な『帝国崩壊へのシミュレーション』だった。
「陸軍の暴走による経済的破綻までの道筋が、日割り計算で弾き出されている……。しかもこの数字、海軍省の極秘データすら上回る精度です。いや、それどころか、アメリカの圧倒的な工業力との絶望的なまでの格差が、一切の感情を排した冷酷なロジックで証明されている」
山本は書類から顔を上げ、信じられないものを見るような目で大将を見た。彼自身が長年抱き続け、誰にも理解されなかった『対米戦必敗』の確信が、完璧なデータとして目の前に具現化されていたからだ。
「誰がこれを書いたのですか? 帝大の教授陣を総動員し、何年もかけてようやく導き出せるかどうかという次元の代物ですぞ」
「先ほど言っただろう。その『良い女』が、片手間で書き上げたものだ。桜田財閥の新たな若き総帥、桜田リベラだよ」
「桜田の……あの急死した先代の後を継いだという未亡人ですか? 確か、まだ三十にも満たないはず……」
「ああ。おまけに、まだ乳飲み子を抱えた母親だがね」
大将は残った酒を飲み干し、口元に凄絶な笑みを浮かべた。
「彼女はな、極上の紅茶と手作りのお菓子を我々三田会の老いぼれ共に振る舞いながら、涼しい顔でこう言い放ったのだよ。『戦争をしたがる陸軍の馬鹿共の兵站を、桜田の資本で内側から完全に締め上げる。私の息子の未来に、焼け野原は残さない』とな」
「……っ」
山本は絶句した。
国家の行く末でもなく、天皇陛下のためでもなく、己の子供の寝顔を守るためだけに、一人の母親が大日本帝国の軍部と正面から経済戦争を引き起こそうとしている。
あまりにもスケールが狂っている。だが、手元のこの書類が、彼女にはそれを成し遂げるだけの異常な知力と力があることを証明していた。
「我々海軍の穏健派は、桜田と組む。五十六、お前の頭脳と手腕が必要だ。あの女傑が描く『合法的で血の流れない戦争』に乗る気はないか?」
大将の問いかけに、山本は再び手元の書類に目を落とした。
沈黙が降りる。やがて、彼は深く息を吐き出すと、これまでの重圧から解き放たれたかのように、ふっと不敵な笑みをこぼした。
「……痛快ですね。まさか、我々軍人が束になっても止められない陸軍の暴走を、一人の赤ん坊を抱えた母親が経済の力で殴り倒そうというのですから」
山本は居住まいを正し、大将に向かって深く頭を下げた。
「桜田総帥に、どうかお伝えください。微力ながらこの山本、喜んでそのお茶会に同席させていただく、と」




