EP 6
経済という名の大量破壊兵器
極寒の風が吹き荒れる、満州とソ連の国境地帯。
スターリンの命により、極東の利権を力ずくで奪うべく集結した数千両のソビエト赤軍・機甲師団は、圧倒的な威容を誇っていた。……ほんの数日前までは。
「どういうことだッ! なぜ前進しない! なぜエンジンをかけていないッ!」
前線司令部となるテントの中で、赤軍の司令官が怒髪天を衝く勢いで怒鳴り散らしていた。
「ほ、報告します! 燃料が……重油が完全に底を突きました! 本国からの補給列車が、すべて国境手前でストップしております!」
泥だらけの通信兵が、泣きそうな顔で敬礼する。
「莫迦なことを言うな! シベリア鉄道の補給線はどうなっている! 石油の買い付けは済んでいるはずだろうが!」
「それが……欧州および中東の石油メジャーが、突如として我が国への輸出を全面停止しました! 国際銀行間での信用状(LC)がすべて紙屑にされ、我が国の外貨決済口座が完全に『凍結』されたとのことです!」
「け、決済口座の凍結だと……? 誰がそんな真似を……」
「アメリカ合衆国と、日本の桜田財閥です! 彼らは世界中の金融機関に圧力をかけ、我が国との取引を一切禁じる『経済封鎖網』をたった数日で構築しました! 現在、我が国の戦車部隊は、油を一滴も補給できず……文字通り、ただの『鉄の棺桶』と化しております!」
司令官は絶望に目を見開いた。
武力で蹂躙しようとした極東の島国は、銃弾を一発も撃つことなく、ただ「書類のサイン」と「電話一本」で、大国ソ連の誇る最強の軍隊をその場に縫い付け、無力化してしまったのだ。
同時刻。帝都・桜田邸の書斎。
「……ふふっ。見事なまでにチャートが急降下しているわね」
リベラは最高級のソファに深く腰掛け、ベアテが次々と持ってくる世界の金融市場の最新レポートを眺めて、悪魔のように優雅な笑みを浮かべていた。
「はい、リベラ先生! ケーディス大使がワシントンで超法規的措置を猛スピードで通してくれたおかげです」
14歳の天才少女ベアテは、タイプライターを弾きながら誇らしげに報告する。
「ソビエト連邦の国際決済は完全に遮断されました。さらに、三田会のネットワークを使い、彼らに同調して動こうとしていたナチス・ドイツの海外資産にも『不透明な資金移動の疑い』をかけ、スイスの銀行団に口座凍結の圧力をかけています。両国とも、今や海外からネジ一本、油一滴すら買えない状態です」
「上出来よ、ベアテ」
リベラは紅茶のカップを傾けた。
軍隊を動かすには、莫大なカネとエネルギーが要る。その心臓部である「経済」を握り潰せば、どんな独裁者の野望も、数日で干からびる。それが、21世紀のビジネスと法律の世界で血を洗う闘いを生き抜いてきたリベラにとっての、最も確実で残酷な「戦争の止め方」だった。
「……暴力で私の箱庭を荒らそうなんて、百年早いわ。せいぜい、凍えるシベリアの雪原で、動かない戦車を撫でながら反省することね」
窓の外では、今日も優太が柴田たち私兵と元気に中庭を走り回っている。
その平和な笑い声を守るためなら、世界経済のルールを捻じ曲げ、大国を二つ三つ破滅させることなど、この最強の母親にとっては「ちょっとしたお節介」に過ぎないのだ。
しかし、追い詰められた野獣は、時に想像を絶する凶行に出る。
はるか遠く、モスクワ・クレムリン宮殿の最奥。
ソビエト連邦の絶対的独裁者スターリンは、届き続ける「経済完全崩壊」の報告書を前に、太い葉巻を噛みちぎらんばかりに怒りに震えていた。
「……極東の小娘一人の策で、我が偉大なるソビエトが干上がると言うのか……!」
そこに、音もなく一人の男が歩みみ寄る。
ナチス・ドイツから極秘に派遣された、ゲシュタポの高官だった。
思想的には不倶戴天の敵であるはずの独ソ両国だが、今、彼らは「桜田リベラ」という共通の、そして絶対的な脅威の前に、水面下で手を結ぼうとしていた。
「スターリン書記長。我が総統も、同じくあの『極東の魔女』に首を絞められておられます。もはや、正規の戦争や外交で彼女を止めることは不可能です」
ゲシュタポ高官は、冷酷な目で一枚の写真をテーブルに置いた。
優太の手を引き、微笑みながら帝都を歩く桜田リベラの写真だ。
「ルール(法律と経済)で勝てないのなら、盤面ごと破壊するしかありません。……我がドイツの誇る最精鋭の特殊暗殺部隊と、貴国の赤軍スペツナズ。歴史上類を見ない、両国の『合同非公認部隊』を帝都に放ちましょう。標的は、桜田リベラ唯・一・人」
スターリンの冷酷な瞳が、写真の中のリベラを憎悪と共に射抜く。
「……よかろう。どんな犠牲を払っても構わん。あの忌々しい魔女を、その息子もろとも、物理的に歴史から抹消しろ」
独ソ両国の独裁者が、プライドを投げ捨てて「たった一人の母親」を殺すためだけに、国家の全暗部を投入する決断を下した瞬間だった。
帝都の夜に、かつてない規模の血の雨が降ろうとしていることを、リベラはまだ知らない――いや。
彼女のことだから、それすらも「完璧な法廷」へ引きずり出すための「極上の餌」として、すでに待ち構えているのかもしれない。




