EP 3
黒船来航。最強の交渉人、チャールズ・ケーディス
「優太くん。ご両親の教えを、しっかりと守れる立派な男の子ですね。春から、幼稚舎でお待ちしていますよ」
「はい! ありがとうございます、せんせい!」
帝都の誇る名門・慶應幼稚舎の面接室。
面接官である厳格な教授たちの顔を、見事な受け答えと無邪気な笑顔で完全に「メロメロ」に溶かした優太の手を引き、リベラは優雅に一礼して退出した。
「……ふぅ。これで第一関門突破ね。よく頑張ったわ、優太」
「えへへ、ママがアイロンしてくれたお洋服、かっこいいって言われた!」
待合室で控えていた乳母に優太を預け、「ご褒美のプリン」を約束して見送った直後。
リベラの表情から、温かな母親の慈愛がスッと消え去った。
代わりに浮かび上がったのは、世界を盤上で転がす冷徹な「弁護士」の顔だ。
「さあ、お遊戯の時間は終わりよ。……『黒船』のお出迎えに行きましょうか」
同日午後。帝都・帝国ホテル、最上階の特別貴賓室。
そこには、ルーズベルト米大統領の特命全権大使として極東に派遣された、若き天才弁護士の姿があった。
チャールズ・ケーディス。
後にニューディール政策の根幹を支え、数々の難解な国際法務を切り抜けてきた、アメリカ合衆国が誇る最高の頭脳である。
(……不可解だ。大日本帝国は数年前まで、軍部が暴走し、いつ大陸で火を噴いてもおかしくない火薬庫だったはず)
ケーディスは、窓から見下ろす帝都の発展ぶりに目を細めた。
軍事パレードの代わりに、街には最新の自動車が行き交い、巨大な商業施設が次々と建設されている。軍の予算を完全に経済とインフラに全振りした、異常なまでの平和協調路線。
ワシントンは、この極東の島国の「突然の変異」に底知れぬ気味の悪さを感じていた。だからこそ、彼が調査(という名の法的威圧)に派遣されたのだ。
「お待たせいたしました、ミスター・ケーディス」
静かな声と共に、部屋の扉が開いた。
現れたのは、仕立ての完璧な漆黒のスーツを纏った、息を呑むほど美しい日本の女性だった。
(この女が……桜田財閥の総帥? ただの若き未亡人ではないな)
ケーディスは立ち上がり、鋭い観察眼で彼女――桜田リベラ、そして背後に控える護衛の男(柴田)を値踏みした。
護衛の男は、一見するとただのスーツ姿の大男だが、その立ち方は一切の死角がなく、上着の下には明らかに最新鋭の小型機関銃が隠されている。アメリカのシークレットサービスすら凌駕する、洗練された近接戦闘の気配。
「お初にお目にかかります、ミスター・ケーディス。桜田リベラです。長旅の疲れも癒えぬまま、このような場を設けさせていただき恐縮ですわ」
「いえ、美しいお嬢さんとお茶を飲めるなら、太平洋を渡る価値は十分にありますよ、マダム・サクラダ」
ケーディスはアメリカ人らしい軽口を叩きながら席を勧め、ソファに向かい合って座った。
笑顔の裏で、すでに互いの喉元にナイフを突きつけ合うような、ヒリヒリとした法務交渉の幕が開く。
「単刀直入に伺いましょう。我が国は、貴女が作り上げた『大東亜の新しい経済圏』について、重大な懸念を抱いています」
ケーディスは冷めたコーヒーを一口飲み、鋭い眼光でリベラを射抜いた。
「桜田財閥の市場独占は、アメリカの『反トラスト法(独占禁止法)』の精神、ひいては国際的な自由貿易の理念に著しく反している。さらに、満州の権益を我が国に無断で再編したことは、門戸開放の原則を無視する重大な条約違反だ。……ルーズベルト大統領は、日本に対する鉄屑と石油の全面禁輸も辞さない構えですよ」
合衆国の巨大な経済力と、国際法を盾にした完璧な脅迫。
普通の日本の政治家であれば、震え上がって平伏すか、逆上して席を立つかのどちらかだ。
しかし、リベラはクスリと妖しく微笑んだ。
「門戸開放? 自由貿易?……ふふっ、ニューディール政策で国家がゴリゴリに市場に介入し、ブロック経済で自国の首を絞めている合衆国の弁護士様が、随分と面白い冗談を仰るのね」
「……何?」
「鉄と石油を止めるのは構いませんが、困るのはそちらでしょう? ヨーロッパを見てごらんなさい」
リベラはテーブルに一枚の書類を滑らせた。それは、ナチス・ドイツの異常な軍備増強と、欧州市場の混乱を示す最新の経済レポートだった。
「チョビ髭の総統が暴れ出せば、大西洋の貿易ルートは完全に麻痺する。合衆国の巨大な工場群は、輸出先を失って二度目の大恐慌に陥るわ」
リベラは優雅に脚を組み、圧倒的な強者の余裕でケーディスを見据えた。
「今、あなた達が必要としているのは『敵』ではなく、莫大な資源を買い取り、最高品質の工業製品をノータイムで供給できる『極東の巨大で安定した工場』のはずよ。違って?」
ケーディスの顔から、余裕の笑みが完全に消え去った。
この女は、極東の島国にいながら、数年先のヨーロッパの戦火と、それに伴うアメリカの経済的致命傷を完璧に見通している。
ただの財閥のトップではない。国際法、マクロ経済、そして地政学を完全に支配する『未来の怪物』だ。
「……マダム・サクラダ。貴女の言う通り、互いに血を流す(禁輸措置)のは愚策だ。しかし、アメリカ議会を納得させるには、桜田の独占を法的にクリアする『新しい協定』が必要になる。我が国の複雑な関税法と国際法を、貴女の都合の良いように書き換えることなど……」
「あら。それなら、とっくに準備が終わっていますわ」
リベラがパチンと指を鳴らすと、控室の扉が開き、分厚いファイルの山を抱えた少女が現れた。
「お呼びですか、リベラ先生」
金髪碧眼の14歳の少女。彼女の登場に、ケーディスは目を丸くした。
「ミスター・ケーディス。紹介するわ。私の最高法務秘書であり、アメリカの法体系をあなた以上に熟知している天才よ」
「初めまして、ミスター・ケーディス」
ベアテはファイルをテーブルにドンと置くと、流暢すぎるアメリカ英語で、にっこりと完璧な作り笑いを浮かべた。
「合衆国憲法および関税法第〇条の抜け穴を利用した、日米間の新しい特別経済協定の草案です。……さあ、私が論破して差し上げますから、どこからでもかかってきてくださいな」
最強のママに育てられた天才少女が、超大国のトップエリートに「法務」の宣戦布告をした瞬間。
ケーディスは深い溜息をつき、しかしその顔には、法を愛する者としての抑えきれない歓喜の笑みが浮かんでいた。




