EP 2
帝都スパイウォーズ(ここは帝都だ、田舎者が)
帝都・赤坂。
深夜の桜田邸は、深い霧と静寂に包み込まれていた。
邸宅を囲む高い石積みの塀を、音もなく乗り越える複数の黒い影があった。
漆黒の隠密服に身を包んだ彼らは、ナチス・ドイツが誇る国家秘密警察の非公認・特別暗殺部隊である。
(……東洋の黄色い猿どもめ。我々アーリア人の崇高な同盟を拒絶し、あろうことかアメリカと手を結ぶなど。その愚かさ、血を以て贖わせてやる)
部隊長であるハンス中佐は、暗視鏡の代わりに研ぎ澄ませた夜目と、数々の戦場を潜り抜けた野性の勘を頼りに、ハンドシグナルで部下たちに前進を命じた。
彼らの手には、当時の最新鋭であるワルサーP38と、ワイヤー、そして猛毒の塗られた軍用ナイフが握られている。
標的は、この広大な屋敷の最奥で眠る、桜田財閥の女総帥・桜田リベラ。
そして可能であれば、彼女に飼い慣らされている海軍の山本五十六や近衛首相も、同時多発的に『病死』に見せかけて暗殺する計画だ。
(日本の警備など恐るるに足らず。どうせ旧式のボルトアクション小銃か、時代遅れの日本刀をぶら下げた愚鈍な歩哨がいるだけだ)
ハンス中佐は冷笑し、屋敷の裏手にある通用口へと忍び寄った。
鍵をピッキングで開けようとした、その瞬間だった。
プシュッ。
微かな、本当に微かな空気が抜けるような音がした。
「……ん?」
振り返ると、最後尾で警戒に当たっていたはずの部下の姿が、深い霧の中に「ふっ」と溶けるように消えていた。
足音も、倒れる音すら一切なかった。ただ、空間から削り取られたように消失したのだ。
(馬鹿な、何が起きた……!?)
ハンス中佐の背筋に、氷のような悪寒が走った。
「散開しろ! 何かがおかしい!」
ドイツ語で低く、しかし鋭く命じた直後。
プシュッ。プシュッ。
再び、空気を裂くようなくぐもった音が霧の中で連続して鳴り響いた。
「ぐっ……!」「あぶッ……!」
左右に展開しようとした精鋭の部下たちが、次々と膝から崩れ落ちていく。彼らの肩や太腿には、見たこともない特殊な麻酔弾が深々と突き刺さっていた。
「発砲音がない……!? 減音器だと!? 日本の民間警備が、そんな最新鋭の特殊装備を……!!」
ハンス中佐がワルサーP38を抜き放ち、霧の奥に向かって闇雲に銃口を向けた。
しかし、彼の視界の死角――真上の木の枝から、重力に逆らうような滑らかな動きで巨大な影が音もなく降ってきた。
「なっ……!?」
銃を上に向けるより早く、巨大な影の足がハンスの手首を正確に蹴り上げた。
バキッ! という骨の砕ける鈍い音と共に、ワルサーP38が宙を舞う。
「アガァァッ!!」
激痛に悲鳴を上げかけたハンスの口を、革手袋に包まれた分厚い手がガシリと塞いだ。
そのまま強引に後方へ引き倒され、後頭部を冷たい石畳に叩きつけられる。脳が揺れ、視界が明滅する中、ハンスは見下ろしてくる男の顔を絶望と共に視認した。
顔に大きな傷を持つ、三つ揃いのスーツを着た大柄な日本のヤクザ者――柴田だった。
「よう、ドイツのお兄さん方」
柴田はハンスの口を塞いだまま、獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべた。
彼の周囲の霧の中から、漆黒のタクティカル・ギアに身を包んだ桜田の私兵たちが、気絶したドイツの工作員たちを引きずりながら次々と姿を現す。
「遠路はるばる、こんな極東の島国までご苦労なこった。だがな、お前らみたいな『時代遅れの軍人上がり』が、ウチのアネゴの寝首を掻けると思ったら大間違いだぜ」
「ぐ、ぅ……! き、貴様ら……ただの民間人では、ないな……!?」
ハンスが血を吐きながら呻く。
「民間人さ。ただ、アネゴに徹底的に『未来の殺し合い(CQB)』を叩き込まれた、ちょっとばかり行儀の悪い社員ってだけだ」
柴田は冷たく言い放つと、ハンスの胸ぐらを掴み上げた。
「ここは帝都だ、田舎者が。……白人の優生思想だか何だか知らねえが、ウチの若頭(優太)の寝顔に泥を塗ろうとした落とし前、たっぷり払ってもらうぜ」
圧倒的な戦力差、いや、戦術の次元の違い。
ハンス中佐は、極東の島国を完全に見下していた己の傲慢さを呪いながら、柴田の容赦のない手刀を受けて完全に意識を刈り取られた。
同時刻。桜田邸の豪奢な居間。
「……うん、糊の効き具合は完璧ね。明日の面接はこれでバッチリ」
リベラはアイロン台に向かい、優太が明日のお受験で着る半ズボンスーツに、ミリ単位の狂いもなく丁寧にアイロンをかけていた。
そこに、テーブルの上に置かれた内線電話がジリリと鳴る。
『総帥。お邪魔虫ども、一匹残らず駆除しやした。……まあ、駆除っていうか、全員生け捕りですがね』
受話器の向こうから、柴田の報告が聞こえてくる。
「ご苦労様、柴田さん。優太は起きなかった?」
『ええ、若頭はスヤスヤと夢の中ですぜ。で、この金髪のゴミ共はどうしやす? ドラム缶に詰めて東京湾の底の泥でも食わせますかい?』
物騒な提案に、リベラはアイロンの手を止めてクスリと笑った。
「駄目よ、柴田さん。そんな野蛮な証拠隠滅、美しくないわ。……彼らは、ドイツという国家が他国の主権を侵害し、民間人を暗殺しようとしたという『最高の生きた証拠』なんだから」
リベラはアイロンの電源を抜き、スーツを丁寧にハンガーにかける。
そして、受話器に向かって、弁護士としての底冷えのするような声で命じた。
「一番腕のいい医者を呼んで、手厚く治療してあげなさい。……後で国際社会の面前で、彼らの愛する『総統』を社会的に抹殺するための、極上の証人喚問に立ってもらうんだから」
『ハッ。了解しやした。相変わらず、えげつねえお人で』
電話が切れ、再び静寂が戻った居間で、リベラは大きく伸びをした。
「さて、ドイツからの刺客は片付けたけれど……本命は明日ね」
リベラはテーブルに置かれた一枚の書類に目を落とす。
そこには、明日、大日本帝国との『経済調査および法的監査』のために来日する、アメリカの特命全権大使の名前が記されていた。
チャールズ・ケーディス。
暴力ではなく、法律と経済の最前線でリベラと対峙する、最強のニューディール弁護士。
「お受験の面接が終わったら、次はアメリカ合衆国との『面接』ね。……フフッ、忙しいママでごめんね、優太」
世界を巻き込む最強のママのお節介は、武力による暗殺劇をあっさりと物理で粉砕し、いよいよ「知略と法律」の頂上決戦へと舞台を移そうとしていた。




