第三章 ママ世界大戦を止めてくるわ
優太のお受験と、忍び寄る世界大戦の影
「うん、完璧よ。……世界で一番賢くて、カッコいい男の子ね」
帝都・桜田邸の豪奢な居間。
リベラは、紺色の仕立ての良い半ズボンスーツに身を包んだ息子・優太(4歳)の蝶ネクタイをキュッと直し、満足げに微笑んだ。
「えへへ、ママ、苦しくないよ! ぼく、お兄さんみたい?」
「ええ、とっても素敵。明日の『慶應幼稚舎』の面接、きっと面接官の先生たちも優太の立派な姿にメロメロになっちゃうわ」
かつて法廷で数々の権力者を震え上がらせてきた冷徹な弁護士の顔も、裏社会を束ねた元レディース総長の凄みも、今の彼女には微塵もない。
そこにあるのは、息子の「お受験」という、母親にとっての最大かつ最重要のミッションに全精力を傾ける、一人の熱心なママの姿だった。
大日本帝国から軍部の暴走というガン細胞を取り除き、近衛内閣を通じて「シビリアンコントロール」と「平和憲法草案」を確立してから数年。
軍事予算をインフラと経済に回した日本は、未曾有の好景気に沸いていた。街には特高警察の足音はなく、カフェからは華やかなジャズが流れ、誰もが平和な未来を信じて疑わない、桜田リベラが作り上げた『穏やかな箱庭』だ。
「よし、お行儀の練習はこれでおしまい。優太、柴田さん達と中庭で遊んできてもいいわよ。服は汚さないでね」
「わーい! 柴田のおじちゃーん!」
優太が短い脚で駆け出していくのを見送り、リベラはふぅ、と心地よい疲労感と共にソファに腰を下ろした。
「……幼稚舎の面接官の経歴と派閥の洗い出し、それに寄付金の裏調整は完璧ね。あの子の未来のレールに、一切の障害物はないわ」
「リベラ先生、お疲れ様です。優太くん、本当に立派になられましたね」
書類の山を抱えて書斎から現れたのは、今年で14歳になった一番弟子・ベアテだった。
身長もすっかり伸び、仕立ての良い女学生の制服を着こなす彼女は、今や六ヶ国語を操る「桜田財閥の最高法務秘書」として、リベラの右腕を完璧に務め上げている。
「ありがとう、ベアテ。あなたのおかげで、私もようやく『普通の母親』としての仕事に専念できそう……」
「アネゴ。……いや、総帥。お言葉を返すようですが、そう暢気なことも言ってられなくなりやしたぜ」
優太を部下に任せ、中庭から戻ってきた柴田が、ひどく険しい顔で居間に足を踏み入れた。その手には、厳重に封印された赤いファイルが握られている。
「……何? 明日のお受験より重要なことなんて、この世にあるの?」
リベラが不機嫌そうに眉をひそめると、柴田は赤いファイルをテーブルに置いた。
それは、桜田財閥が欧州全土に張り巡らせた情報網から届いた、最上位の機密暗号電報だった。
「欧州です。……ドイツの『チョビ髭の総統』が、いよいよ本格的に狂い始めやした。ラインラントへの非武装地帯進駐に続き、隣国への武力侵攻の準備を整えつつあります」
「……」
「さらに厄介なことに、奴らは我が大日本帝国が『日独伊三国同盟』の誘いを完全に蹴り飛ばし、親米・親英の協調路線に切り替えたことにブチ切れていやがる。……『東洋の黄色い猿どもが、我々偉大なるアーリア人を裏切った』と」
柴田の報告に、ベアテが顔を青ざめさせて書類をめくった。
「リベラ先生……! ドイツの諜報機関の極秘指令を解読しました。彼ら、日本の平和協調路線を内側から崩すために、帝都に多数の工作員を潜入させています! 標的は……平和路線の象徴である近衛首相、海軍の山本長官、そして……」
「裏で糸を引いている、私(桜田リベラ)ってわけね」
リベラは冷めた紅茶を一口飲み、ふっと鼻で笑った。
「アネゴ、笑い事じゃねえですぜ! 相手は国家ぐるみの暗殺組織だ。かつての陸軍のチンピラどもとはワケが違う!」
「そうね。……でも、腹が立つのはそこじゃないのよ、柴田」
リベラはテーブルに置かれた欧州の地図を、スッと美しい指先でなぞった。
「ヨーロッパが戦火に包まれれば、世界的な貿易網は完全に崩壊する。世界恐慌の再来よ。せっかく私が日本を豊かにしたのに、株価は暴落して、インフレで物価は跳ね上がる」
リベラは立ち上がり、窓の外で無邪気に笑う優太の姿を見つめた。
その瞳の奥で、かつて数百人の不良を恐怖で支配した『総長』の覇気と、どんなグレーな手段を使ってでも勝利をもぎ取る『敏腕弁護士』の冷たい業火が、静かに、しかし激しく燃え上がり始めた。
「それに……ヨーロッパが焼け野原になったら、優太が将来、パリやロンドンに留学できなくなっちゃうじゃない。……ガキの遠足の行き先を減らすような真似、絶対に許せないわ」
「そ、そこですかィ……」
柴田が引き攣った笑いを浮かべるが、リベラの目は完全に据わっていた。
「ベアテ」
「は、はいっ!」
「国際法規、特に関税および為替管理法に関するヨーロッパの条文をすべて洗い出しなさい。それと、三田会の銀行団に緊急の招集を」
リベラは黒革の手袋をはめ、冷酷な弁護士の微笑みを浮かべた。
「あのチョビ髭の総統に教えてあげるわ。武力で世界を思い通りにできると勘違いしている野蛮な男が、緻密な『法律』と『経済』の暴力の前に、どれほどみじめに破滅していくかをね。……さあ、世界大戦を終わらせにいくわよ」




