ママ戦争を止めてきたわ
ママ戦争を止めてきたわ
それから、数年の月日が流れた。
昭和十〇年、春。帝都の空は、どこまでも高く澄み渡っていた。
「ママ、早く早く! 遅刻しちゃうよ!」
桜田邸の広大な前庭。満開の桜吹雪の中を、真新しい黒のランドセルを背負った少年――優太が、弾むような足取りで駆け出していく。
かつてリベラの腕の中でまどろんでいた小さな赤ん坊は、今やすっかり腕白で元気な小学生へと成長していた。
「走らないの、優太。せっかくの晴れ着がシワになっちゃうでしょ?」
優太の後を追うリベラは、淡い桜色のスプリングコートに身を包み、この上なく穏やかな「母親」の笑顔を浮かべていた。
かつて法廷で軍部や権力者を震え上がらせた冷酷な弁護士の顔も、裏社会を束ねた元総長の凄みも、今日ばかりは完全に封印されている。
「若頭の晴れ姿……アネゴ、俺ぁもう感無量で前が見えやせん……っ」
背後では、パリッとしたスーツを着込んだ大男の柴田が、ハンカチで滝のような涙を拭っていた。彼の率いる私兵たちも、今日ばかりは一切の武器を持たず、ただの「親戚のおじさん」としてデレデレに顔を崩している。
「もう、柴田さんたら大袈裟なんだから」
リベラが苦笑したその時、正門の方から明るい声が響いた。
「リベラ先生! 優太くん! 入学式、間に合って良かったです!」
小走りで駆け寄ってきたのは、美しい金髪をなびかせたベアテ・シロタだった。
12歳だった彼女も、今では慶應義塾大学で法律を学ぶ立派な女学生だ。女性の大学進学。それもまた、彼女自身とリベラが起草した「新・大日本帝国憲法」によって当たり前に保障されるようになった、新しい時代の光景の一つだった。
「ベアテお姉ちゃん! 見て、ランドセル!」
「わぁ、とってもカッコいい! 優太くん、一番似合ってるわ」
ベアテは優太の頭を優しく撫でると、小脇に抱えていた朝刊をリベラに差し出した。
「先生、今朝の新聞です。……山本五十六長官率いる外交使節団が、ワシントンでアメリカとの『包括的経済協調条約』に調印しました。これで太平洋の平和は、向こう数十年にわたって完全に盤石です」
リベラは新聞のトップを飾る、笑顔で握手をする山本と米国高官の写真に目を落とした。
軍部による暗殺やクーデターの恐怖は、すでに過去のものとなった。
軍の予算と人事は内閣の完全な統制下に置かれ、膨大な軍事費はインフラ整備と教育、そして国民の生活を豊かにするための経済投資へと回された。
街には特高警察の影はなく、カフェからはジャズが流れ、女性たちは華やかな洋服を着て自由に街を歩き、自らの意思で職業を選んでいる。
「……そう。お爺ちゃん達(枢密院)も、案外大人しくハンコを押したみたいね」
「ええ。三田会の銀行団に資産の首根っこを掴まれていれば、文句の言いようもありませんから」
ベアテが、かつてのリベラそっくりの「弁護士の悪い笑顔」を浮かべてウインクする。その成長ぶりに、リベラは頼もしさを感じてクスリと笑った。
「ママ! 早く行こう!」
正門の先で、優太が大きく手を振っている。
その背中の向こうに広がる帝都の街並みは、焼け野原などではなく、活気に満ちた平和な日常そのものだった。
「ええ、今行くわ!」
リベラは空を見上げた。
テレビのニュースを見て憤り、何気なくハッシュタグを押したあの日から、どれほどの修羅場を潜り抜けてきただろう。法律の抜け穴を突き、経済を支配し、最後は国そのもののルールを根底から書き換えた。
すべては、ただこの小さな背中を守るために。
(私がママである限り、この子から未来を奪うような真似は、絶対にさせない)
「さあ、行きましょうか。平和で退屈な、素晴らしい世界の始まりよ」
リベラは優太の小さな手をしっかりと握り、ベアテと柴田たちを引き連れて、桜舞い散る光の中へと歩き出した。
最強の弁護士ママによる、歴史上で最も過激で、最も愛に溢れた「お節介」。
これにて、堂々の終審(閉廷)である。




