EP 7
最強の弁護士ママと、未来の黄色い魔法
帝都の桜田邸。
厨房には、当時の日本にはまだ珍しい、スパイシーで食欲を強烈に刺激する香りが充満していた。
「リ、リベラ先生……! この黄金色のソースは一体……!? 匂いだけでお腹が鳴ってしまいそうです!」
厨房の入り口で、ベアテが青い瞳を輝かせながら身を乗り出していた。その足元では、1歳の優太が「んまんま!」とよだれを垂らしながら、リベラの割烹着の裾を引っ張っている。
「ふふっ、これは『チキンカレー』よ。未来の日本人が、死ぬまで食べ続けるくらい愛してやまない最高の家庭料理。……今日は関東軍をぶっ飛ばしたお祝いだから、特別に腕を振るってあげる」
リベラは鼻歌交じりに、大鍋を木べらでゆっくりとかき混ぜた。
鶏肉を表面がカリッとするまで香ばしく焼き上げ、大量の玉ねぎを飴色になるまで炒めて甘みを引き出す。そこに、桜田財閥の交易ルートを使って取り寄せた数十種類のスパイスを絶妙な配合でブレンドし、隠し味にほんの少しの林檎とハチミツを落とす。
現代の洗練されたレシピと、リベラの完璧な火加減によって生み出されたそれは、当時の海軍カレーすら凌駕する、まさに「至高の一皿」だった。
「はい、優太はスパイスを抜いた甘口のカレー風味シチューね。熱いからフーフーしてね」
特製のベビーチェアに座る優太に小皿を出し、ベアテと、そしてなぜか当たり前のようにダイニングの席に座っている海軍少将・山本五十六の前に、湯気を立てるチキンカレーがよそわれた。
「……いただきます!」
ベアテがスプーンで一口すくい、口に運んだ瞬間。
「~~~ッ!!」
声にならない感嘆が漏れた。鶏肉の旨味とスパイスの鮮烈な香り、そして玉ねぎの甘みが口の中で爆発し、彼女は夢中で二口、三口とスプーンを動かし始めた。
「こ、これは……美味い。海軍の金曜日のカレーが、まるで泥水に思えるほどの完成度だ」
大の甘党であり、食通でもある山本も、目を見開いてスプーンを止めることができない。
「お粗末様。……それで? 海軍のトップが、ただ私のカレーを乞食に来たわけじゃないでしょう?」
リベラはエプロンを外し、優太の口の周りについたソースを拭きながら、冷めたコーヒーの入ったカップを手に取った。
その瞬間、リベラの纏う空気が「母親」から「最強のフィクサー」へと切り替わる。
「……ああ。極上の食事の後に、極めて胸糞の悪い知らせだ」
山本はスプーンを置き、ナプキンで口元を拭うと、重苦しい顔で懐から一枚の書状を取り出した。
「総帥が近衛首相を通じて議会に提出しようとしている『新・大日本帝国憲法草案』……とりわけ、ベアテ嬢が起草した『第十四条・法の下の平等』と『第二十四条・両性の本質的平等』。この二つの条文に対し、猛烈な圧力がかかっている」
「圧力? 陸軍の狂犬どもはもう檻の中よ。三田会のネットワークで議会の過半数も抑えている。今さら誰が私達の法案に文句を言えるの?」
「……『枢密院』だ」
山本の口から出たその名前に、隣でカレーを食べていたベアテの肩がビクッと跳ねた。
枢密院。大日本帝国憲法において、天皇の最高諮問機関として君臨する「絶対不可侵の長老衆」。軍部すら頭が上がらず、総理大臣の決定すら覆すことができる、明治時代から続く化石のような特権階級の巣窟である。
「彼らは『女子供に参政権や平等など言語道断。帝国の國體を破壊する悪魔の法案だ』と激怒している。さらに、起草者の一人が『ユダヤの小娘』であることも嗅ぎつけたらしい。……彼らは天皇陛下の大権を盾に、法案を握り潰す気だ。そして、桜田財閥の解体すら目論んでいる」
山本が苦々しく吐き捨てる。
軍隊という「暴力」は、経済と論理で縛ることができた。しかし、枢密院という「絶対的な権威」と「古い常識」は、カネでも暴力でも屈しない。この国の最も深く暗い病巣。
「……リベラ先生」
ベアテが不安そうに、スプーンを握りしめた。
自分が書いた「誰もが平等な世界」という夢が、顔も知らない古い権力者たちに理不尽に踏みにじられようとしている。
「心配いらないわ、ベアテ。あなたの書いた条文は完璧よ。一文字たりとも譲る気はないわ」
リベラはベアテの金髪を優しく撫でると、コーヒーカップをカタン、とソーサーに置いた。
その唇には、法廷で最も厄介な敵を追い詰める時の、あのゾクゾクするような冷酷で邪悪な笑みが浮かんでいた。
「権威と伝統? 笑わせるわね。法律の前に、生まれも血筋も性別も関係ない。……明治の亡霊どもが、天皇陛下を神輿にして自分の既得権益を守りたいっていうなら」
リベラは立ち上がり、書斎の奥に置かれた六法全書を見据えた。
「私が、歴史上最もえげつない『合法的な嫌がらせ』で、あの老人たちの化けの皮を全部ひっぺがして、歴史のゴミ箱に叩き込んであげる。……山本少将、近衛首相にアポイントを取ってちょうだい。最高に意地悪な『お茶会』の準備よ」
最強の弁護士ママと天才少女のコンビは、大日本帝国における「最後のボス(超保守派・枢密院)」という、見えない権威との真っ向勝負へと足を踏み入れようとしていた。




