EP 2
帝都・赤坂。
西洋館が立ち並ぶ閑静な住宅街の一角で、下品な怒号が響き渡っていた。
「おい異人! 貴様らのようなユダヤの回し者が、神聖な帝都をうろつくなど許されると思っているのか!」
黒い詰襟を着た特高警察の刑事たちと、それに便乗した右翼団体のゴロツキ数名が、三人の外国人家族を取り囲んでいた。
世界的ピアニストであるレオ・シロタと、その妻。そして、まだあどけなさの残る12歳の少女――ベアテ・シロタだった。
「おやめなさい! 私たちのビザは正式なものです! 何の罪もないのに、どうしてこんな乱暴をするんですか!」
両親を背中で庇うように立ち塞がり、ベアテが叫んだ。
特高の刑事たちは、金髪碧眼の少女の口から完璧で流暢な日本語が飛び出したことに一瞬驚いたが、すぐに醜く顔を歪めた。
「生意気な小娘だ! 日本語が話せようが、貴様らは帝国の思想を乱すスパイに決まっている! 署まで同行願おうか!」
特高の刑事が、ベアテの細い腕を乱暴に掴もうと手を伸ばした。
ベアテが恐怖に目を閉じかけた、その瞬間だった。
キュララララッ!!
路地の入り口から、黒塗りの巨大なロールスロイスが猛スピードで突っ込んできて、特高たちの鼻先数十センチのところで急ブレーキをかけた。
「な、なんだ貴様ら!?」
ゴロツキたちが慌てて飛び退く中、後部座席のドアが静かに開く。
降り立ったのは、最高級のシルクのワンピースに身を包んだ、息を呑むほど美しい日本の淑女――桜田リベラだった。その後ろには、殺気を放つ柴田たち私兵がピタリと追従している。
「……私の大切な『賓客』に、その汚い手を触れないでもらえるかしら」
「ひんきゃく、だと? ふざけるな、こいつらは国賊の……!」
激昂した特高の刑事が、リベラに向かって警棒を振り上げた。
「アネゴ!」と柴田が前に出ようとしたが、リベラはそれを片手で制止した。
リベラは一歩、スッと前に踏み出した。
全く力みを感じさせない、水が流れるような動き(入り身)。刑事の振り下ろした警棒の軌道を紙一重で躱すと、その手首を優しく包み込むように掴む。
そして、ヒールのままコマのようにクルリと反転。
「え……?」
特高の刑事は、自分が何をされたのか理解する間もなく、宙を舞っていた。
ドスッ!! という鈍い音と共に、刑事の巨体が石畳の路地に激突し、白目を剥いて沈黙する。
合気道の極意。相手の力を完全に利用した、美しくも無慈悲な投げ技だった。
「なっ……! て、てめえ、特高警察に手を出してタダで済むと……!」
残りのゴロツキと刑事たちが一斉に懐の拳銃に手をかけようとしたが、それより早く柴田たち私兵が一斉に懐から短機関銃の銃口を突きつけた。
圧倒的な暴力の差に、特高たちは凍りつく。
「タダで済まないのはそちらでしょう?」
リベラは乱れたワンピースの裾を優雅に払いながら、氷のような眼差しで特高の責任者を睨み据えた。
「その方々は、桜田財閥がウィーンから直々に招聘した『専属の音楽家』であり、我が桜田の保護下にある人間です。……正当なビザを持つ外国人を、令状もなしに暴力で連行しようとするなど、明らかな『不法逮捕』および『職権濫用罪』。さらに国際法違反に抵触する立派な犯罪ですわ」
「さ、桜田財閥だと……!? しかし、こいつらは思想犯の疑いが……!」
「疑いだけで手を出して良いと、どこの法律に書いてあるの? それとも、特高警察は桜田財閥の事業を妨害し、日本を国際社会から孤立させたいのかしら?」
リベラが冷酷に微笑む。
「内務省の警保局長に、私が直接お電話しましょうか。あなた達が、どのような違法行為で帝国の面子を泥に塗ろうとしたのかをね」
「ひっ……!」
特高の上層部と桜田財閥の繋がりを知っている刑事は、完全に腰を抜かした。これ以上手を出せば、自分たちのクビが物理的に飛ぶことを悟ったのだ。
「お、覚えていろ! 引き上げだ!!」
特高とゴロツキたちは、気絶した仲間を引きずりながら、逃げるように路地の奥へと消えていった。
「……ふぅ。野蛮な連中」
リベラは小さくため息をつくと、完璧な淑女の顔に戻り、シロタ一家へと振り返った。
そして、怯えと驚きが入り混じった顔で見上げている金髪の少女――ベアテの目の前で、そっと膝を折って目線を合わせた。
「怪我はなかったかしら、お嬢さん」
「あ、あなたは……?」
ベアテは、目の前の女性から放たれる圧倒的な美しさと、先ほどの理不尽を論理と力でねじ伏せた絶対的な強さに、すっかり魅了されていた。
「私の名前は桜田リベラ。……ちょっとお節介な、ただの弁護士よ」
リベラは優しく微笑み、ハンカチでベアテの服についた埃を払った。
「あなたの日本語、とっても綺麗で理路整然としていたわ。あんな大人たちを前にして一歩も引かないなんて、素晴らしい度胸ね」
「わ、私は……ただ、間違っていると思ったから。法律でも、人は皆平等のはずなのに、どうして彼らはあんなに乱暴なのか、分からなくて……」
悔しそうに唇を噛むベアテ。その瞳の奥に宿る「理不尽に対する怒り」と「聡明さ」を見た瞬間、リベラは確信した。
この少女こそが、未来の日本の法律を共に創り上げる最高の頭脳になるのだと。
「……そうね。今のこの国のルールは、少しバグっているの。偉そうな男たちが、自分たちの都合のいいように作り変えてしまったから」
リベラはベアテの小さな両手を、しっかりと握りしめた。
「ねえ、ベアテ。私と一緒に来ない? あなたのその素晴らしい頭脳と、正しい怒りを使って……この国の間違ったルール(法律)を、根本から叩き壊して書き換えるのよ」
「法律を……書き換える……?」
「ええ。誰もが平等で、理不尽に怯えなくていい世界。……私の息子と、あなたが大人になった時に、絶対に戦争なんて起きない新しい国を創るの。あなたなら、それができるわ」
リベラの言葉は、12歳の少女の魂に強烈な雷を落とした。
ただ守られるだけではなく、自らの知恵で世界を変えられるという圧倒的な希望。
ベアテの青い瞳から涙が溢れ、しかしその表情は、かつてないほど力強く輝いていた。
「……はい。私、あなたに……リベラ先生に、ついていきます!」
昭和の帝都の片隅で、最強の元ヤン弁護士ママと、未来の天才法学少女による、歴史を覆す最強の師弟コンビ(バディ)が誕生した瞬間だった。




